「『跳ね橋をおろせ』」 城の外につながる跳ね橋の前まで来ると、瞬は、王宮の正門と濠を結ぶ跳ね橋を守る兵たちに命令した――正確には、氷河に命令させた。 この橋を渡れば、ハーデスの結界の外に出ることができる。 最初のうちは、この逃亡劇の成功に懐疑的だった氷河も、今では 二人でこの城から逃げおおせることは十分可能だと考えるようになっていた。 そんな氷河に、瞬が思いがけないことを言ってくる。 「さあ、橋を渡って城から出て。僕をここに残していけば、ハーデスに騒ぎを知られたくない彼等は、あなたを城の外までは追わないはず」 「何を言っているんだ。ここまで来て……!」 まさに、『ここまで来て』である。 二人の前にある死の川の幅は、10分の1スタディオンもない。 その上に架かる橋は、子供でも10秒もあれば渡り切ることができるものだというのに。 「さようなら。氷河」 「瞬! 一緒に逃げよう!」 「そんなの、無理だよ。あなた、僕を好きでも何でもないんでしょう」 「なに?」 生死がかかった この場面で、瞬は突然 何を言い出したのか。 そんなことは、この窮地を脱してから ゆっくり話し合えばいいことである。 今 二人の前にあるのは、『好きか嫌いか』ではなく『生きるか死ぬか』の分岐点なのだ。 しかし、瞬には それが何よりも重要なことだったらしい。 「僕、ばかみたい。僕を自由にしてくれる人が来てくれたんだって勝手に思い込んで……勝手に期待して……勝手に好きになって……」 「俺もおまえを好きでいる。当たりまえだろう!」 「……」 瞬は、その言葉を、誠意の伴わない その場しのぎの方便と思ったのだろう。 瞬が そう思うのは当然のことである。 なにしろ氷河自身が、自分の唇が そんな言葉を自然に生んだことに驚いていたのだから。 なぜ自分は そんなことを言ってしまったのかと驚き戸惑う気持ちと、一刻も早く この窮地から逃れなければならないと焦る気持ち。 その二つの気持ちが にじんでいる言葉と声を、瞬に信じてもらえるはずがないのだ。 「もう “振り”はやめて」 瞬が唇を噛みしめて、顔を俯かせる。 切なげに震える瞬の肩は、氷河の胸に痛みを運んできた。 できることなら、その肩の震えを今すぐ消し去ってやりたかった。 そのために費やせる十分な時間があったなら。 しかし、今の氷河に その時間はなかった。 撥ね橋が まもなく下り切る。 氷河は、瞬を一人 この城に残して 自分だけ逃げるわけにはいかなかった。 アテナの聖闘士であることはヒュプノスたちに知られ、城内の者たちに顔も覚えられてしまった。 もう恋狂いの振りをして、この城に忍び込むことはできない。 二人で この城の外に出るチャンスは、今しかないのだ。 だが、瞬には 氷河と共に逃げる気はないようだった。 「僕があなたと逃げたら、ハーデスは僕を取り戻すために何をするかわからない。ハーデスはとてもプライドが高いの。彼は 僕の裏切りを許さないかもしれない。でも、ここで あなたが僕を打ち捨てていってくれれば、僕は あなたの逃亡の盾にされたかわいそうな人質だったということになる。僕はハーデスの機嫌を損ねず、無事でいられる」 「瞬……」 「僕は、ハーデスに憎まれて、殺されたくないの。だから、あなたと この城を出る訳にはいかない。僕は 我が身が可愛いから。まだ死にたくはないから」 「……」 それが瞬の本心かどうか――。 これ以上ないほど理に適った話だと思うのに、氷河はそれを瞬の本心だと思うことができなかったのである。 だが、それで瞬の身の安全が保障されるというのなら、氷河には 共に逃げることを瞬に無理強いするわけにはいかなかった。 瞬に無事でいてほしいと願う気持ちは、瞬に『好きだ』という自分の言葉を信じ受け入れてほしいと願う気持ちに優先するものだったから。 「そうか……」 死の川で分けられた二つの場所を結ぶ跳ね橋が下り切る。 「うん。じゃあ、うまくやって。必ず無事に逃げてね……!」 そう言って、瞬が氷河の側を離れ、ヒュプノスたちのいる方に駆け出す。 ほぼ同時に、氷河は 瞬とは逆方向に――城の外に続く跳ね橋の上を走り出した。 ハーデスの結界さえなければ、橋などに頼らなくても この程度の幅しかない濠など一跳びなのだが、ハーデスの結界の内では、アテナの聖闘士も一般人より少々運動能力に恵まれた一人の人間にすぎなかったのである。 その上、冥府に続く死の川の付近は、特にハーデスの結界の力が強く大きく、氷河の足を異様に重くした。 「瞬様を解放した! 跳ね橋を上げろ! 逃がすな、追え!」 ヒュプノスが、跳ね橋の操作をする兵に命じる。 「だめっ!」 ヒュプノスのそれより鋭い声で、瞬は その命令を遮った。 兵は、ヒュプノスの命令と瞬の命令のどちらに従うべきかを迷ったらしい。 迷うことで、結果的に彼は瞬の命令に従うことになった。 「だめ。跳ね橋を上げることも 氷河を追うことも許しません」 「瞬様、そこをおどきください。あれはハーデス様に 仇なす者。庇いだては無用です」 ヒュプノスが、彼の行く手をふさいだ瞬を脇に押しのけようとする。 だが、瞬は、その場を動かなかった。 「僕を奪われたわけではないのだから、それでいいでしょう。ハーデスは、僕を自分の許に置くことができれば、それで満足なんでしょう? あんな嘘つき、もう どうでもいい。あなたたちは、氷河を捕まえることより、僕の身の安全を守ることを優先させるべきです」 ヒュプノスたちが、一介の孤児でしかない自分を“ハーデスの後継者”として奉っているのは、それこそ“振り”にすぎず、彼等は腹の底では自分を侮っている。 それはわかっていたのだが――自分が何を命じようと、ヒュプノスたちは取り合おうともしないだろうことは わかっていたのだが――瞬は あえて居丈高に彼等に命じた。 タナトスが、案の定の答えを返してくる。 「いい気になるなよ、うじ虫。貴様が あの嘘つきと つるんで逃げ出したことは最初からわかっていたんだ。どけ」 「いや!」 「どかなければ、その綺麗な顔に傷がつくことになるぞ」 「傷でも何でも つければいいでしょう」 「なにっ」 タナトスの脅しなど、瞬は まるで恐ろしくなかったのである。 自分が この世界を支配できる力を持つ“地上で最も清らかな魂の持ち主”だと信じていたからではない。 そんなことを、瞬は信じていなかった。 そうではなく――。 「このガキ……! ハーデス様を裏切った者をハーデス様が許すはずがない。ハーデス様に代わって、たった今 この俺が ここで貴様を殺してやろうか」 「そうしてもらえるなら嬉しい」 そうではなく――その時 既に、瞬は死を覚悟していたのだ。 死を覚悟した人間に恐れるものなど あるはずがない。 瞬が その周囲に ただならぬ空気を漂わせていることに気付いたらしいヒュプノスが、いきり立つタナトスを制止する。 「やめろ、タナトス! 瞬は生かしておかないと利用できないのだ!」 「ハーデスが何を企んでいるのかは知らないけど、この世界を支配するなんて、そんな彼の野心に利用されるくらいなら、僕は死んだ方がましだよ!」 瞬が ヒュプノスたちに そう言い放った時、 「瞬!」 瞬が待ち望んでいたものが、瞬の許に届けられた。 跳ね橋を渡り切った氷河の声。 瞬は安堵の息をつき、後ろを振り返ったのである。 ハーデスの結界の外に逃れ出た氷河が――そのまま逃げればいいものを、まだ希望を捨て切れていないのか、『こちらに来い』と言うように瞬に手を差しのべてくる。 そんな氷河に微笑み、そして瞬は駆け出した。 差しのべられた氷河の手を取るためではなく、氷河の希望とハーデスの野望を断ち切るために。 瞬が目指した場所は、ハーデスの意に背いた者が投げ込まれる死の川。 城の周囲を囲む、冥界に続く川。 石を融かし、人間の身体を一瞬で 骨も残らない状態にする濠の中に、瞬はその身を投げ入れたのである。 |