「瞬っ!」 濠の上はハーデスの結界内。 ハーデスの力が最も強い場所。 氷河が死の川を凍らせることができたのも、瞬より一瞬 遅れて地を蹴った彼が 凍った濠に叩きつけられる前に瞬の身体を抱きとめることができたのも、物理の法則を無視して成った、一つの奇跡だったろう。 その奇跡は、1秒に満たない短い時間の内に完遂された。 瞬の身体を抱きかかえた氷河が、氷を蹴って、濠の外側に飛び上がる。 「あ……」 苦痛を感じるまもなく一瞬で融けてしまうはずだった自分の身体。 それが氷河の腕の中にあることを――なぜ そんなことになったのかを、瞬は咄嗟に理解できなかった。 自分がまだ生きていることを、瞬はしばらく理解できずにいたのである。 「何より 我が身が大事なんじゃなかったのか。この嘘つきめ」 僅かに からかいの響きを含んだ声で 氷河に そう問われて初めて、瞬は 自分が死に損なったことを知ったのだった。 「だって……ああ言わなければ、氷河は僕を連れて逃げようとしてくれていたかもしれないでしょう。氷河一人ならきっと逃げられるのに……僕は氷河の足手まといにしかならないのに……」 「俺を無事に逃がすために、自分の命を捨てようとしたのか」 「それだけじゃないよ。僕は――僕なんか 生きていない方がいいんだ、多分」 ハーデスの野心に利用されるような命なら 消し去ってしまった方が 世界のためになる。 そういう意味で 瞬は告げたのだが、氷河は瞬のその言葉を自棄の現われと取り、そして誤解したようだった――彼が誤解したいように。 「俺の恋が“振り”だったのが、そんなに つらかったのか?」 「え……?」 氷河の誤解に気付いた瞬は、もちろん すぐに その誤解を解こうとした。 だが、そんなに つらかったのかと瞬に尋ねてくる氷河の瞳が やたらと嬉しそうに輝いているのを見て、瞬は彼の誤解を解くことができなくなってしまったのである。 誤解を解いて、嬉しそうに輝いている氷河の瞳を曇らせたくはない。 かといって、氷河の“振り”がつらくて自死を図ったのだと 嘘をつくわけにもいかず――結局 瞬は瞼を伏せ、沈黙を守ることになったのである。 そのせいで氷河は、彼の誤解を更に深めたらしい。 瞬が 恐る恐る氷河の瞳を窺い見ると、氷河の瞳は、真昼の太陽もかくやとばかりに その輝きを増していた。 「恋をして腑抜けた振りをするにしても――不細工で、見るからに頭が悪くて冷酷な人間に 恋をした振りをするなんてことは、俺にはできないぞ。俺のプライドが許さないからな。おまえが綺麗で聡明で優しそうだから、俺は おまえに恋をした振りをすることもできたんだ」 「氷河……あの……」 「その上、こんな健気を見せられてしまっては、振りが振りでなくなるのは 自然なことだろう」 秘密の宝物を手に入れた子供のように嬉しそうな様子の氷河に、水を差すようなことはしたくない。 したくはないが、完全に事実と違う方向に向かった誤解を、氷河は一瞬で確信の次元にまで高めてしまったらしい。 この誤解は やはり解いた方がいいと思い、実際にそうしようとした瞬の唇の上に、氷河の唇がおりてきた――。 (えっ……) 嬉しそうな氷河の様子が嬉しくて、氷河の誤解を解くのをためらったのは事実である。 氷河の その振舞いに驚きはしたが、不快を感じたわけでもない。 だが、形ばかりでも相手の意向すら確かめもせず、こんなことをするのは礼を失している。 瞬が氷河に憤ったのは、その点だった。 決して氷河のキスが嫌だったわけではない。 それがよくなかったのだろう。 氷河のキス自体は嫌ではなかったことが。 おかげで瞬は、彼の失礼を責める機会を逸してしまったのだ。 氷河の起こした奇跡に あっけにとられていた城の兵たちが、やっと我にかえったらしく、ハーデスの愛人を かどわかそうとしている不埒者を捕えるべく 跳ね橋に殺到してくる。 ハーデスの結界の外。 瞬を抱きかかえて跳躍した氷河の姿を、おそらく 兵たちは一瞬で見失った。 ヒュプノスとタナトスはハーデスの結界の外に出る気はないらしく、そのせいもあって、氷河の逃走路は そのまま速やかに聖域の帰還の道行きに移行したのである。 健常な成人男子の足で急げば4日、馬を使っても丸1日はかかるだろう距離を、ハーデスの結界から逃れ出た解放感も手伝ってか、氷河は半日をかけずに移動してみせた。 それも、呆れたことに瞬を抱きかかえたままで。 |