いつも王子様が






「おまえは、そんなに泣き虫で、どうやって聖闘士になれたんだ?」
突然 氷河に問われ、
「僕は泣いてないよ。もう」
と答えてから僅か1秒後には もう・・、瞬は その答えを後悔していたのである。
せめて『もう』をつけていなければ、まだ ごまかしようもあったのに。
自分は現状を嘆いていない、苦しんでいない、打ちのめされてもいないと 言い張ることもできたのに――と。
もっとも、『もう』があっても なくても、氷河は今の瞬の心を見透かしてしまっていたようだったが。

「おまえは涙を流していないだけだ」
氷河に そう言われ、鋭い刃物を突きたてられたような痛みを胸に覚える。
氷河の言う通りだった。
瞬は涙を流さずに泣いていたのだ。
兄は生きていたのに。
生きている兄と再会し、瞬の長い間の願いは ついに叶ったというのに。

城戸沙織が、それぞれの修行地から聖衣を持って生還した聖闘士たちに、戦闘力ではない力をもって参加を強いたギャラクシアンウォーズは、瞬の兄である一輝の乱入で中断、黄金聖衣の一部は 彼に奪われてしまった。
兄は 瞬の敵として――かつての仲間たちの敵として――瞬と瞬の仲間たちの前に現れた。
瞬は、兄の変貌が信じられなかったのである。
デスクィーン島に送られる以前、確かに兄は城戸光政や城戸沙織に好意を抱いてはいなかった。
だが、だからといって、彼等によって与えられる境遇を、彼は完全に拒否していたわけではない。
自分の他に守ってくれる者も頼れる者も持たない無力な子供は、与えられた境遇環境の中で強くなること以外に生きる術はない。
一輝はいつも瞬にそう言っていた。
彼は、城戸光政たちによって自分に与えられた境遇を、消極的にではあったが受け入れて、その中で生き抜くことを是としていたのだ。

強くなり 生きて帰れと、兄は瞬に言った。
必ず生きて帰ると、瞬は兄に答えた。
そんな言葉で 再会を約して、この世にたった二人きりの兄弟は別れた。
兄にそう言われたから、瞬は 孤独にも つらい修行にも挫けるわけにはいかず、事実 挫けなかったのである。
その兄が、瞬と かつての仲間たちの前に、以前とは比べものにならないほどの力を備え、城戸に敵対する者として現われた。
そのこと自体は、本音を言えば、瞬にとっては さほどの衝撃ではなかった――驚くほどのことではなかった。

あれから6年もの月日が流れたのである。
それだけの時間があれば、人は変わるだろう。
以前は受け入れるしかないと思っていたものを、受け入れられなくなることもあるだろう。
優しかった人間が 冷酷になることも、弱かった人間が強くなることも、もちろん 強かった人間が弱くなることも、決して あり得ないことではない。
だが、たとえ何があっても、兄が弟を憎むようになることだけはないと、兄が自分に憎悪の感情をぶつけてくるようなことだけはないと、兄が自分を疎んじるようなことだけはないと、瞬はそれだけは信じていた。
否、瞬は、そんなことが起こり得えると考えたこともなかった。
だから、瞬には、それが何より大きな衝撃だったのである。
兄が自分にぶつけてくる憎悪の感情と その言葉が。
そして、そんなことが起こってしまった現実が悲しくてならなかった。

「泣き虫が聖闘士になっちゃ悪いのかよ? 邪武とのバトルは ほぼ瞬の勝ちが見えてたぜ。瞬が聖闘士でいたって、別に何の問題もないじゃん」
と、星矢が氷河に反駁していったのは、彼もまた 瞬が泣いていることを感じ取っていたからだったろう。
ただ一人の兄と生きて再会するために聖闘士になったのだろう“泣き虫の瞬”が、その望みを果たし 兄と再会した途端、憎悪と侮蔑の言葉で 兄に突き放されてしまったのだ。
瞬が泣かずにいる方が、むしろ不自然だとすら、星矢は思っていたのかもしれない。
いっそ他愛のない世間話でも始めて、束の間でも兄のことを忘れさせ、泣き虫の仲間の気を紛らせてやりたい――星矢は そんな乗りでいたのかもしれなかった。

「チェーンを操るだけで、拳の一つも繰り出さずに――自分では何もせずにな」
「いいだろ、別に。聖闘士の基本は小宇宙だ。腕力でも 戦闘の技術でもない」
「しかし、おまえ等も、聖衣をまとう資格を得るための修行のほとんどは、肉体の鍛錬がほとんどだったろう」
「俺は、実技だけじゃなく、理論も それなりに叩き込まれたぜ? 物質の成り立ちから説明されて 破壊の究極は原子を砕くことだとか、小宇宙は体内にある宇宙的力が 意思の力や集中力によって高まるものだとかさ。まあ、俺なんかは、小宇宙の燃やし方も 石ころ破壊も、難しい理屈は全然わからないまま、いつのまにか体得できてたって感じだったけど」

どうやら星矢の修行は、『考えるな、感じろ』というブルース・リーの名言を地でいくようなものだったらしい。
そして、実は、氷河も 星矢と似たり寄ったりの経緯を経て、聖闘士としての小宇宙を体得したのかもしれなかった。
白鳥座の聖闘士が、それを 一般的なことではないと考えているような口調で、
「つまり、そういうことか。泣き虫で 人を傷付けることが嫌いなおまえは、肉体の鍛錬は適当に流し、戦闘技術の習得には あまり熱心ではなかった。だが、闘法や小宇宙に関しての理屈はわかっていて、小宇宙を操ることはできる。たまたま おまえが行った先には、小宇宙さえ操れれば おまえの代わりに敵を攻撃してくれるチェーン付きの聖衣があった。小宇宙の力は聖闘士の域に達しているが、おまえ自身の戦闘技術は雑兵レベル――」
という推察を披露してきたところを見ると。

「え……」
氷河が披露した推察は、『泣き虫は肉体的・精神的に強くない』という、決して正しいとは言えない前提の上に成り立ったものだったが、瞬はあえて彼に反論はしなかった。
『強靭な肉体と精神を有する者も泣き虫でいることは可能である』とか、『小宇宙の何たるかを知っているだけでは小宇宙を生むことも操ることもできない』とか、そんなことを 殊更に主張しても何にもならない。
そもそも、瞬は、自分を肉体的精神的に強靭な人間だと思ったことはなかった。

「あ……どうかな。僕、戦いは 大抵チェーン任せだから」
「おあつらえ向きの聖衣があってよかったな」
それは確かに幸運なことだったと、瞬も思っていたのである。
小宇宙を、自分の拳ではなくチェーンに宿らせて戦うことのできるアンドロメダの聖衣に巡り会えたことは。
おかげで 瞬は、これまでのところは、敵を倒す感触を 自分の手に直接 感じることなく済んでいたから。
「そーいや、おまえは、ガキの頃も、格闘技の練習は 泣いてばかりで ろくに続かなかったよな。練習を始めると すぐに泣き出すせいで、まともに勝負にならなかった」
「うん……」

星矢のその言葉で 幼い頃の自分の姿を思い出した瞬は、氷河がそういう結論に至ったのは当然のことだと思ったのである。
兄に何と言われても、人を傷付け倒す感触を自分の手で直接感じることを、幼い頃の自分は断固として拒否していた。
あの頃のアンドロメダ座の聖闘士を知っている人間には、瞬が戦闘の“実技”に優れた聖闘士になったと考えることは困難な作業であるに違いない。

瞬の もう一人の仲間――龍座の聖闘士である紫龍にも、氷河の推察を受け入れることは容易だったのだろう。
彼は、氷河の推察を補完するような見解を――もしかしたら体術の苦手なアンドロメダ座の聖闘士をフォローするつもりで――口にしてきた。
「身体を使って戦うのが苦手な分、瞬は考えることをしたんだろう。聖闘士になるのにポイントが100必要なら、知識と知恵で そのポイントを稼ぎ、聖闘士になる合格ラインに達したのではないか」
「実技テストは5点、ペーパーテストは100点。平均105点で、かろうじて聖闘士資格試験に合格ってか。文法は理解してて 単語の綴りも完璧に覚えてるけど、スピーキングだめ、ヒヤリングだめ、でも、小難しい本は読める――って感じか。平和主義者には平和主義者の戦い方があるってわけだ」
「瞬らしいな。それで聖闘士になれたのは、考えようによっては すごいことだぞ。瞬は非暴力主義という自分の信念を貫いたわけだ」

悲劇的な兄との再会に傷付き沈んでいるアンドロメダ座の聖闘士の気持ちを少しでも上向かせるために、仲間たちはそんなことを――皆が聖闘士になれた今となっては およそどうでもいい話題を――この場に持ち出してきてくれている。
それがわかるから、瞬は 彼等の慰撫の言葉を否定することなく、むしろ感謝して首肯したのである。
「あ……そうなのかもしれないね。僕は、僕が送られた修行地でも、実戦の修行は可能な限り避けていたから」

瞬は嘘をついたつもりはなかったし、それは ただの事実でもあった。
アンドロメダ座の聖闘士が 小宇宙は聖闘士として十分なものを備えているが、身体を使っての戦闘能力は雑兵レベル――と仲間たちに思われることで不都合や問題が生じるとは、瞬は その時には考えてもいなかった。
兄の豹変に打ちひしがれている心弱い弟への 仲間たちの気遣いや優しさに、瞬は ただただ感謝するばかりだったのである。
――のだが。

ギャラクシアンウォーズ中断から数日が経った ある日、ブラックスワンの攻撃に反撃らしい反撃をせずにいる姿を氷河に見られてしまったことで、瞬の上には 生じるはずがなかった不都合が生じてしまったのである。






【next】