「瞬、下がってろ!」
それが、敵襲があった時の氷河の口癖――むしろ決まり文句――になっていた。
最初のうちこそ 瞬は、
「下がってなんかいられないよ!」
と答え、自身で敵と戦おうとしていたのだが、いつも瞬がその言葉を発する前に 氷河の戦いは始まっていて、しかも大抵の場合、氷河の方が優勢。
そこに第三者が割り込んでいくのは、あわよくば漁夫の利を得ようとする卑怯者の仕業に思えて、結局 瞬は一歩退いた場所で 氷河の戦いに決着がつくのを待つことになってしまうのだった。
おまけに、そういう経緯で氷河に礼を言わないわけにはいかなくなった瞬が、敵を撃退した氷河に『ありがとう』と告げると、氷河は ひどく嬉しそうに その瞳を輝かせるのだ。
まるで 大人が苦戦していた知恵の輪やロジックパズルを一瞬で解いてしまった子供のように得意げに。

瞬は、そういう氷河の様子に見覚えがあった。
青銅聖闘士たちが それぞれの修行地に送られる以前、主に 瞬の兄が不在の時。
あの頃――誰もが まだ幼い子供だった頃。
決して仲間たちに いじめられていたわけではないのだが、大人たちに強いられたトレーニングで痛い思いをして瞬が泣きだすと、そこに真っ先に飛んでくるのは、大抵の場合 瞬の兄だった。
そして、瞬の涙を拭い、『大丈夫か』と問い、『泣くな』と告げ、場合によっては、瞬を泣かせるという不運に見舞われた同輩を怒鳴りつける。
それは様式美と言っていいほどの お決まりの流れだったのだが、たまに瞬の兄が城戸邸に不在だったり、どこか離れた場所にいて すぐに飛んでくることができなかった時、瞬の兄の役を好んで務めるのは氷河だった。
指で瞬の涙を拭い、『大丈夫か』と問い、『泣くな』と告げ、場合によっては、瞬を泣かせるという不運に見舞われた同輩を怒鳴りつける。
涙が乾きかけた瞬が『ありがとう』と言って氷河を見上げた時、氷河はいつも そんな目をしていたのだ。
嬉しそうに、得意そうに、青い瞳を輝かせて。
あれから6年以上の月日が流れ、流れた時間の分 子供は大人になったはずなのに、瞬を庇って敵を撃退し、瞬から『ありがとう』の言葉を受け取る氷河の瞳は あの頃のままだった。


「あいつ、一輝がいなくなって、独占市場状態で おまえを守れることを喜んでるんじゃねーか?」
「今の氷河は、お姫様を庇い守れる王子役が楽しくてならないという様子だな」
星矢と紫龍も、氷河の“得意がり”には気付いているようで、瞬の『ありがとう』に、氷河が『別に』と、表情は変えずに嬉しそうに答える場面を目撃するたび、彼等はそんなことを口にした。
「そんなことはないと思うけど……」
瞬とて王子様に守られるばかりのお姫様ポジションにいることには気がひけていたし、アテナの意思と地上の平和を妨げる敵とはいえ、人を傷付けるという つらい務めを氷河にだけ任せている現状を良いことと思っていたわけではない。
だが、氷河があまりに嬉しそうなので――瞬は彼に言うことができなかったのである。
『僕が戦わなきゃならない敵とまで、氷河が戦う必要はないんだよ』とは、どうしても。

氷河の“戦う術を持たない お姫様を庇い守って戦う王子様ごっこ”は、瞬の兄の生還によって 一時中断された。
王子様ごっこができなくなった氷河は 目に見えて不機嫌になり、そのせいか拳を交えて戦う敵に対しても容赦がなくなった。
やがて、『群れるのは嫌いだ』という 訳のわからない理由で、瞬の兄が 彼の仲間たちの前から姿を消す。
そうして再開されることになった氷河の王子様ごっこは、 彼自身は望まない中断期間を強いられていた反動なのか、以前にも増して あからさま かつ大胆なものになった。
何かの弾みで 星矢や紫龍が瞬を庇う事態が発生すると、彼は自らの不機嫌を隠す様子もなく、仲間たちを睨みつけるのだ。
そんなことを2度3度 経験し、星矢たちは、仲間内に無用の軋轢を生むことは避けた方が賢明という判断に至ったらしい。
彼等は、『氷河のおもりは おまえに任せる』と言って、氷河の機嫌を損ねる事態を 極力 避けるようになってしまったのだった。

その頃には、瞬も、氷河の王子様ごっこをやめさせることは無理と悟っていた。
だが、仮にもアテナの聖闘士が、戦いをすべて仲間に任せ、自分だけ後方で ぼんやりと突っ立っているわけにはいかない。
必要は 発明の母。
瞬は、やがて、自分の拳やチェーンを使わずに戦う術の会得することになった。

自分が直接 敵と戦うことなく後方で敵を観察していると、敵の弱点が見えてくる。
その状況を生かして、瞬は、氷河の王子様ごっこにおける軍師、戦略の補佐役としてのポジションを取ることにしたのである。
それは最初は、
「氷河、その白銀聖闘士、左に攻撃を集中させて」
とか、
「その敵には、テンポをずらして、わざと ゆっくり攻撃を仕掛けた方がいいよ」
とか、その程度の助言だった。

バトルが終わってから、
「あいつは なぜ あんなにあっけなく倒れてしまったんだ?」
と尋ねてくる氷河に、
「あの白銀聖闘士は、重心がほんの少し右にずれていたから――多分、左右の視力差が大きい不同視、左目の廃用性委縮が進んでいて、左側を視覚確認するのが一瞬遅れるんだよ。普通に暮らしている分には何の支障もないけど、聖闘士の戦いには致命的な欠陥だ」
とか、
「彼は、攻撃が直感的だったから……そういう人って 極端にせっかちなことが多いんだよ。敵からの攻撃も 自分の期待するペースで為されないと いらいらして、勇み足になり、あげく 自滅する。野球でいうなら、チェンジアップを振らせてアウトをとった――みたいなものかな」
等々、そのたび 氷河に説明していたのだが、やがて瞬は氷河にその説明をするのをやめてしまった。
いちいち説明するのが面倒になったわけではない。
当の氷河が、瞬に説明を求めなくなってしまったのだ。

後学のためにと言って、瞬の指示の意図の説明を求め続けたのは、氷河ではなく星矢と紫龍だった。
そして、彼等は、瞬の説明の内容には納得しながら、直接 瞬の指示を受けて戦う身でありながら、瞬の指示の意図を確認しなくなった氷河の態度には 得心しなかったのである。
その点を仲間たちに指摘されても、氷河は 反省の素振りも見せなかったが。
「『下手の考え、休むに似たり』と言うじゃないか。考えることを放棄しているわけじゃないんだが、瞬の指示通りに動いていると、俺より実力がありそうな奴等にも驚くほど簡単に勝てて、実に爽快なんだ。瞬が戦い方を考え、俺が実際に戦う。それが最も効率的な戦い方、いわゆる適材適所というやつだな」
反省するどころか 悪びれた様子も見せずに そう言ってのける氷河に、紫龍はもちろん、無茶無謀への挑戦じみた戦い方をすることの多い星矢でさえ呆れることになったのである。

「自分の命をかけて戦ってるのに、おまえ自身の考えや意思はどこにもないのかよ!」
「俺自身は、瞬の指示通りに戦うのが最も効率的と考え、瞬の指示通りに戦うことを、自分の意思で決定している。瞬の身を守ると言う目的も達せられているし、俺には何の不満もない。それで何らかの問題が生じるわけでもないだろう」
「いや、そりゃ、瞬の指示通りに戦うのが、最短の時間と最少の労力で 最大の成果を得る戦い方だろうけどさあ……」
“お姫様を守る王子様ごっこ”を楽しんでいるのだと思っていた氷河が、いつのまにか“正太郎くんの指示で戦う鉄人28号ごっこ”のロボットと化してしまっている。
聖闘士の戦い方が これでいいのだろうかと、星矢は少なからず 氷河の戦い方に不安を覚えることになったのだった。

「それは シビリアン・コントロールの変形と言っていいのか――。瞬は確かに実戦より 策を立てる軍師参謀役に向いているようだが、アテナの聖闘士が無批判無条件に従うのは アテナの意思だけであるべきなのではないか」
「もちろん そうだろうが、瞬がアテナの意思に反するようなことを 俺に言うわけがないだろう」
紫龍の婉曲的な懸念表明も、氷河は至極あっさり撥ねのけた。
地上の平和と安寧を守るために、アテナの意思に反することなく、仲間を信じて戦う。
氷河の戦い方は、実にアテナの聖闘士らしいもので、アテナの聖闘士の道を踏み外してもいない。
だが、星矢は、どうしても 氷河の戦い方を全面的に是とすることができなかったのである。
それが“お姫様を守る王子様ごっこ”でも“正太郎くんの指示で戦う鉄人28号ごっこ”でも、氷河の戦い方には問題があると、星矢の戦士としての勘が彼に警告を発し続けた。

「瞬。おまえは それでいいのかよ。聖闘士として、自分で戦いたいとか思わないのか?」
現状に不満がなく、むしろ積極的に現状を維持継続したいらしい氷河に意見することをやめ、星矢は今度は瞬の方に向き直った。
途端に、氷河が星矢に噛みついてくる。
「瞬は人を傷付けるのが嫌いなんだ。だから戦えない――戦わない。そういう聖闘士がいてもいいじゃないか。俺は瞬の指示に従っていれば気持ちよく戦えるし、必ず勝つ。何の問題もない。それとも おまえは、瞬が戦って怪我をしたり、命を落としたりした方がいいとでもいうのか!」
「おまえは、お姫様を助ける王子様ごっこをしてたいだけだろ」
“王子様”は“鉄人28号”になりつつあるようだが――とまで言わないのは、氷河の仲間としての星矢の武士の情けだった。
もっとも、星矢がかけた武士の情けに、氷河は まるで気付いた様子を見せなかったが。
瞬が、そんなと氷河の間に入って、二人をなだめる。

「氷河は膂力があるし、僕より はるかに実戦向きなんだと思うよ。でも それだけじゃなく――戦いって、双方の力が拮抗していると、互いに必死になって、どちらかが倒れるまで双方が死力を尽くして戦うことになるでしょう。でも、一方が圧倒的に優位にいると、優位者は劣位者を とどめを刺すところまで追い詰めずに済むんだよ。優位にある側が 余力を劣勢にある側の捕縛に使えるというのもあるけど、圧倒的な力の差を見せつけることで敵に戦意喪失させることもできるから。実際 氷河のこれまでのバトルでは、それで命を奪わずに済ませられた敵が多くいたでしょう。そういう意味で、今の僕と氷河の戦い方は、悪い戦い方じゃないと思うんだ」
「そうそう。俺と瞬は最強のコンビだ」
脇から氷河が挟んできた くちばしに、星矢は思い切り顔を歪めた。
それでも星矢は、それ以上 アンドロメダ座の聖闘士白鳥座の聖闘士の戦い方に意見することは断念したのである。
今 この場では。
氷河と瞬の戦い方が 文句のつけようのない戦果を収めているのは、紛う方なき事実だったから。






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