氷河は2日と間を置かずに作家の彼女に会いに行き、そのたび上機嫌で帰ってきた。 これは、これまでになかった事態。 気に入らないことがあれば すぐにそれを態度に出す 我儘な正直者の氷河を ここまで上機嫌にし、しかも その状態を維持継続してのける一般人がいることに、彼の仲間たちは一様に驚き、畏れ入ることになったのである。 星矢など、ぜひ その偉大な人物に会いたいと言い出すほどだった。 氷河は、他人の干渉を受けずに、彼の恋を大切に育てていきたいらしく、そのたび、 「そのうち、機会があったら」 と言って、星矢の希望を婉曲的に退け続けていたが。 「相手は作家だと言っていたな。これまでの女性陣と違うのは、親のすねかじりではなく 経済的に自立している点、親の威光に依らず、彼女自身が自分の社会的地位を有しているという点か。精神的にも大人なのだろうし、そこが氷河の気に入ったのではないか」 紫龍の推察が当たっているのかどうか――さりげなく探りを入れても、氷河は巧みに はぐらかし、そのため氷河の仲間たちは、彼の“完璧な恋人”のイメージを いつまで経っても掴めないままだった。 ただ、いつつになく慎重な氷河の言動から、彼の真剣さを窺い知ることができるだけで。 どうやら氷河は、本当に本気で、この上なく真剣であるらしい。 だが“こればっかりは仲間にも協力できることじゃない”ことである。 氷河の仲間たちにできるのは、彼の恋が順調に育まれるよう祈ることだけだった。 そんなふうだったので――氷河が作家の彼女とデートを重ねるようになって半月後、初めて氷河が浮かぬ顔で帰宅した時には、彼の仲間たちは皆、彼の恋の行方を案じることになったのである。 我儘で気難しい氷河が好意を持った、もしかしたら彼の母親以外では初めての女性。 その奇跡のような存在を逃がすことはできない――逃がしたら、次はないかもしれない。 詰まらぬことで、逃がすわけにはいかないのだ。 「順調そうに見えていたが、喧嘩でもしたのか」 氷河の恋を見守っていることしかできない彼の仲間の代表として紫龍が、なるべく彼を刺激しないように、抑揚を抑えた声で尋ねる。 紫龍より 更に抑揚のない声で――力のない声で――氷河は仲間に答えを返してきた。 「そういうわけではないんだが、しばらく会わないことにしようと言われた。彼女といると、生きることへの勇気が湧いてきて 楽しかったんだが……こればかりは仕方がないか。彼女は、自分に厳しい分、他人も甘やかさないタイプなんだ。彼女は、俺の煮え切らなさに苛立ったのかもしれない……」 彼女に会えなくなったことに氷河が落胆しているのは 傍目にも明らかで、そんな氷河の様子に、彼の仲間たちは胸を痛めたのである。 特に瞬は、こんな時のためにこそ仲間はいるのだと言わんばかりに、落胆の氷河を鼓舞し始めた。 「ね……ねえ、氷河。人は、それぞれに別々の心を持っているから、誤解したり、すれ違ったりする。人は もしかしたら誰かと完全に理解し合うことはできないのかもしれない。でも、だからこそ、手を差しのべることをやめちゃいけないんだよ。生きることへの勇気をくれる人なんて、本当に素敵な人じゃない。氷河、諦めちゃだめだよ。彼女から勇気をもらったんでしょう? だったら、その勇気で、今すぐにでも彼女に会いたいって頼んでみようよ。きっと彼女も氷河の気持ちを わかってくれるよ。ね。氷河、勇気を出して!」 ここで氷河に勇気を奮い起こさせることができなかったなら、いったい彼の仲間は何のために存在するのか。 瞬は、そう思っているのだろう。 それこそ必死としか言いようのない目をして、瞬は氷河に訴え、氷河は そんな瞬の訴えに心を動かされたようだった。 「……同じことを彼女に言われた。そうか……勇気か……」 瞬の必死な瞳を見詰め、氷河が 独り言のように呟く。 瞬と、今はこの場にいない作家の彼女に励まされ、氷河は そして勇気を奮い起こすことができたらしい。 勇気を奮い起こした氷河が、次に口にした言葉は、彼の仲間たちには全く訳のわからないものだったが。 彼は突然、 「完璧な恋は諦めた。いや、完璧な恋というのは、障害のある恋だ」 と言い出したのだ。 「へ……? な……なんで そうなるんだよ? 完璧な恋を諦めるのはいいけど、今度は障害のある恋? おまえ、目標をハッピーエンドのロミオとジュリエットから、アンハッピーのロミオとジュリエットに方針転換したのか?」 氷河の発言の意味がわからない仲間たちの代表として、今度は星矢が氷河に問う。 氷河の答えは、彼の仲間たちを 更に混乱させるものだった。 「――と、彼女が言っていたんだ。障害のない恋など、恋の風上にもおけないものだと。彼女は作家だと言ったろう。何でも、BLとかいうジャンルの漫画家なんだそうだ」 「びーえる? なんだ、そりゃ」 ブラック・リスト、ボーダー・ライン、ベーコン・レタス、ベター・リビング、ビジネス・ロジック、ブルース・リー、 etc.etc. 星矢は、知る限りの“BL”を頭の中に羅列してみたのだが、創作のカテゴリーとして成り立つBLに、彼は行き着くことができなかった。 迷える星矢に、氷河が答えを教示してくれる。 「boys loveの略らしい」 「ボ……ボーイズラブ? それって、どんなジャンルだよ……」 星矢はもちろん、その英熟語の意味がわからなかったわけではない。 ただ、“わかる”ことを星矢の理性が拒んだだけだった。 「それって、もしかして、つまり――」 何か嫌な予感がする。 星矢の嫌な予感は、もちろん的中した。 「女の子だったらいいと思う人がいるんだが、それは叶わぬ願いだから諦めるしかない――と、彼女に言ったら、そんなことで諦めるなと頭から怒鳴りつけられた」 「お……おい……」 氷河を怒鳴りつける若い女性というのも すごいが、それ以前に、氷河の発言には いささか問題があり、BLの彼女の答えは それに輪をかけた問題発言である。 氷河は いったい誰のことを『女の子だったらいい』と思っているのか。 『女の子だったらいい』と本気で思っているのか。 訊くまでもないことだったが、訊かないわけにもいかない。 星矢は、それこそ勇気を奮い起こして、氷河に 彼の発言の真意と本気度を確認しようとしたのだが、幸い、星矢は どうにも気が進まない その行為をせずに済んだ。 星矢が氷河に その発言の説明を求める前に、氷河は――氷河もまた――勇気を奮い起こしてしまったのだ。 その上、氷河は、奮い起こした勇気を行動に移した。 氷河は、瞬に向かって、真顔で(!)告白してしまったのである。 「瞬、俺は、おまえが女の子だったら どんなにいいかと、ずっと思っていたんだ。いつも そう思っていた」 と。 |