「しゅん〜!」
放課後の校庭で名前を呼ばれた時から、星矢が面倒事を運んできたことは、瞬には わかっていた。
面倒事を頼む時以外、星矢が その幼馴染み 兼 親友の名を呼ぶときは、『しゅーん!』なのだ。
つまり、長音記号が入る場所が違う。
それが、『宿題を写させてくれ』とか、『どうしても勝ちたいサッカーの試合があるから、選手として出てくれ』というのなら まだいいのだが、そうでないことも多いので、瞬は我知らず身構えてしまったのである。
つい先日も、瞬は、星矢の『しゅん〜』のせいで、ひどい目に合ったばかりだった。

星矢の声など聞こえなかった振りをして このまま校門に向かって歩き続けろと、理性は瞬に命じる。
そんな瞬の足を止めたのは、早くに両親を亡くし、身内は上に兄姉がいるだけという同じ境遇にある、幼馴染みへの情だった。
短く吐息して 立ち止まり、星矢が駆けてくる方を振り返る。
僅かに肩を落として、瞬は星矢に尋ねた。
「……どうかしたの」
「おまえを男と見込んで、頼みがある」
「やだ」

もちろん瞬は 言下に星矢の頼みを断った。
星矢は、“男”を出されると弱くなる・・・・彼の親友の性癖を知っている。
そして瞬は、星矢が 自分の前で“男”を出す時、彼の頼み事は実現の難しい難題だということを、これまでの経験から身に染みて知っていたのだ。
「何だよ。まだ、何も言ってないだろ!」
親友のつれない返事に、星矢が口をとがらせる。
「星矢に『男と見込んで』って言われて、僕、先週 ひどい目に合ったばかりなんだもの」
瞬は ぷんと頬を膨らませ、僅かに顎を引いて上目使いに 幼馴染み 兼 親友を睨みつけた。

星矢は先週、瞬を襲った悲劇を忘れていたわけではなかったらしい。
にもかかわらず、星矢は まるで悪びれた様子のない笑顔を瞬に向けてきた。
「なんだよ、あのバイトのこと、まだ怒ってんのか? そりゃ、仕事は大変だったろうけど、バイト代はすごくよかっただろ? 俺たち苦学生には、天からの恵みってやつだ」
「それは確かに……バイト代は、高校生にできる普通のバイトの4、5倍だったけど」
「だろ? 俺も、おまえを紹介した先輩に、すげー感謝されたし、もともと1日だけのピンチヒッターだったけど、先輩、できれば ずっと続けてほしいって言ってたんだぜ。なのに、おまえ、1日だけでやめちまってさ」
「当たりまえでしょ! メイド喫茶のウエイタ――ウエイトレスなんて、高校生がしていいバイトじゃないよ! もし、誰かに通報されてたら、僕、退学とまではいかなくても停学処分くらいは受けてたかもしれない。飲食店で 体力を使う仕事だっていうから、荷物運びとか、皿洗いとか、裏方の仕事だと思っていたのに、僕……僕……」

本物のメイドであれば考えられない膝上丈の黒いワンピース。
無い方が仕事がはかどることがわかりきっているのに、どういうわけか大量のフリルが あしらわれた白いエプロン。
レースだけならまだしも リボンまでがついたピンクのカチューシャ。
それらの衣装と小物を、それこそ堅忍不抜の思いで 我が身にまとったのだ。
あの屈辱を思い出しただけで、瞬は世を儚みたくなった。
「すげー可愛かったんだってな!」
「嬉しそうに言わないでよ!」

『職業に貴賤はない。君はメイドを卑しい職業と蔑むのか !? 』
『メイドにとって、メイド服は戦闘服。メイドはメイド服を身に着けて、人生という難敵と戦っているんだ!』
等々、訳のわからない理屈で かき口説かれ、あげく、30歳近い成人男性に 泣いて頼まれたから 仕方なく、瞬はその屈辱的な衣装を決死の覚悟で身に着けたのである。
瞬自身には道化としか思えない その姿に、言葉もなく見とれる星矢の先輩。
一緒に写真を撮ってくれと言って、無造作に1万2万のチップを握らせてくる若いオタク男性の群れ。
一日の仕事が終わった時、懸命に耐えていたものが一度にこみあげてきて、瞬はメイド服を脱ぐのも忘れ、優に30分、店の更衣室で泣き続けたのである。
どれほど実入りがよかったとしても、あんなバイトは、瞬は二度としたくなかった。

「それにしても、そういえば、どうして星矢の先輩が メイド喫茶の経営者さんなんかしているの」
「あ、サカベ先輩はサッカー部のOBなんだよ。物心ついた頃からサッカーボールが いちばんの友だちで、小中高と全国大会にも行ってて、プロになれるくらいの実力はあったんだけど、高校卒業直前に 事故で脚を故障して、泣く泣くサッカーを諦めたんだ」
「それは……お気の毒だと思うけど……」
それは確かに気の毒な話である。
だが、それは、元プロサッカー選手志望者がメイド喫茶の経営者になる理由には なっていない。
瞬が知りたいのは、星矢の先輩がサッカーを断念した事情ではなく、メイド喫茶経営という 彼の職業選択の理由だったのだ。

「でも、飲食店を経営したいなら、スポーツカフェとか、スポーツバーとか、別の選択肢が いくらでもあるでしょう。メイドさんとサッカーなんて、重なるところがないじゃない」
「ああ。それはさ、サカベ先輩、ガキの頃からサッカー三昧で、高校卒業するまで 女の子と付き合ったことが一度もなかったんだよ。どう付き合えばいいのかもわかんなくて、付き合うには何をすればいいのかも わかんなくて――それどころか、自分から女の子に近付いていく勇気も持てないって ありさまでさ。考えあぐねた末に、女の子を雇う仕事を始めれば、女の子は向こうから集まってくるって考えたんだと。前向きだろ」
「……」
動機が不純なような気がするが、確かに それは前向きな発想である。
子供の頃からの夢を絶たれた一つの人間が 人生を諦めることなく前進しようとし、その手段として選んだ道がメイド喫茶経営だというのなら、瞬もサカベセンパイの選択を非難することはできなかった。
ただ、再び彼に協力する気には どうしてもなれないというだけで。
「とにかく。あんな恰好は1度すれば十分。僕は、もう絶対に――」
「今度は違うんだって。滅茶苦茶 楽な仕事なんだ。普通のカッコで、ただ 飲み食いして、お喋りしてればいいだけ。もちろん、飲食代は あっち持ちで、バイト代も出る」

うまい話には裏がある。
それは、これまでの16年の人生で 瞬が学んだ貴重な経験にして教訓だった。
うまい話には、瞬はもはや 悪い予感を覚えることしかできなくなっていた。
「そんな仕事があるわけないでしょ」
「それがあるんだなー」
「どんな?」
「合コンの数合わせ」
「お断りします」
そんなことだろうと、思っていたのである。
予想通りの“うまい話”。
瞬は もちろん、即座に きっぱり“うまい話”を断った。

「な……なんでだよ! おまえくらい可愛かったら、きっとみんなに ちやほやしてもらえるし、いい出会いがあるかもしれないし」
「だから、僕、もう女の子の振りはしたくないの!」
「ちゃうちゃう。男! 足りないのは男の方。ほんとに困ってるらしいぜ。絶対に成功させなきゃならないイベントなのに、人数が足りなくて」
「……そうなの?」
「うん。名目は、聖域の大学の全学部と院と高等部の代表による非公式の懇談会らしいんだけど、男女の数を同数にしたいって言ってたから、要するにカッコつけた合コンだろ」
「大学や院の人たちと お話できるの?」

それは、瞬には なかなか魅力的な業務内容だった。
同じ聖域学園の敷地内にあるとはいえ、高等部の生徒にとって、大学の学生たちは そう気安く接することのできる存在ではない。
特に ここ10年、聖域学園大学は、各分野において 世界的に権威ある賞の受賞者や 各主国際機関・日本国政府の諮問機関のメンバーに選抜される人材を数多く輩出し、そのため 国内有数の高レベル大学と認識されるようになっていた。
今では 聖域学園大学には、付属高校卒業者でも志望者の5パーセントしか進学できないほど、多くの国内外の優秀な人材が集まってきている。
瞬にとって大学に籍を置く学生たちは、大袈裟にいえば雲の上にいる人たちだったのだ。

「おまえは、困ってる人を見捨てたりしないよな?」
「そ……そんなに困ってるの?」
「みたいだぜ。俺、やったことねーから わかんねーけど、そういうのの幹事って、滅茶苦茶大変なんだろ? ご褒美が出るわけでもないのに、責任だけは重大でさ。おまえが『うん』って言ってくれれば、向こうは頭数がそろって助かるし、おまえは食事代が浮いて、バイト代も入る。言うことないじゃん」
「ん……うん……」

兄一人、弟一人。
親の遺産はあるが、それは決して無尽蔵にあるわけではない。
そして、だが、瞬は どうしても大学に進んで学びたいことがあった。
何より、男子として 人の力になれるのなら、それは悪いことではなく、内実が合コンでも名目が懇談会なら、メイド喫茶のメイドと違って、学校に知られても処罰の対象になることはないだろう。
つまり、それは、極めて安全で有益なバイトなのである。
開催日は今週の日曜日。場所は学内のレストラン。
瞬が有益なバイトにいそしむことを妨げる障害はない。
「ほんとに男子として参加していいんだね?」
くどいほど しつこく幾度も念を押し、結局 瞬は、星矢の頼みに応じることにしたのだった。






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