瞬と星矢の家は、徒歩で5分と離れていない。 もともと家族ぐるみの付き合いがあって、両親を亡くしたのも同じ飛行機事故、その直後に 数年間を共に過ごした養護施設も同じ。 瞬の兄と星矢の姉が前後して成人し、両親と暮らしていた自宅に二人が戻ったのも ほぼ同時期だった。 星矢の家の前で待ち合わせ、一緒に同じ学校の同じ教室に通うのは、二人の日課になっている。 「昨日は お疲れ〜。瞬チャンは今日は一段と可愛いけど、もしかして いい出会いでもあったのかな?」 その日、家の玄関を出て瞬と合流するなり、星矢がそんなことを言ったのは、ある意味では予防線を張るため、用心のためだった。 なにしろ、つい2週間前の月曜日、星矢はここで、瞳に涙をにじませた瞬に散々 恨み言を言われたばかりだったのである。 もう二度と星矢の持ってくるバイト話には乗らないと。 2週間前と同じことを繰り返されては たまらない。 その事態を避けるために、星矢はわざと“瞬チャン”を可愛いと褒め、怒らせてしまおうと考えたのだった。 やむを得ない事情があったとはいえ、昨日 星矢は ほとんど騙し討ちのように瞬を合コン会場に連れていき、そこに瞬一人だけを残して、自身は遁走した――ことになっている。 今朝の瞬が いつもの朝と同じように明るい笑顔を、彼の幼馴染み 兼 親友に向けてくれるとは、星矢には思えなかったのだ。 ――が。 星矢の予想に反して、瞬は幼馴染みに いつも通りの笑顔を向けてきた。 否、いつもより はるかに明るく晴れ晴れとした笑顔を向けてきた。 平生なら、『可愛い』と言われるとすぐに機嫌を悪くして、その“可愛い”顔を わざと しかめ、幼馴染み 兼 親友を睨みつけてくる瞬が、今日は そんな素振りを見せない。 それどころか、瞬は上機嫌の極み。 幼馴染みを怒らせるために星矢が告げた言葉通り、今朝の瞬は一段と可愛かった。 瞳と表情だけでなく、声までが明るく弾み、輝いている。 「うん! 氷河さん――氷河っていう人に、すごく親切にしてもらったの!」 泣かれるか怒鳴られるか――あるいは その両方――を覚悟していた星矢は、瞬のその明るさに驚き、我知らず 虚を衝かれた顔を作ることになった。 「氷河? 氷河って、あの氷河か? 確か、人間科学部へのロシアからの留学生で、人間が嫌いだから人間科学部に入ったんじゃないかって噂の、すげー無愛想な男」 「無愛想だの人間嫌いだのって、どこの氷河さんのこと言ってるの。僕の言ってる氷河は、確かにロシアからの留学生だけど、すごく 気さくで、親しみやすくて、親切な人だよ」 「……」 星矢は もちろん、噂ででしか“氷河”を知らなかった。 噂は噂でしかないことも、瞬が 対峙する人間の心を和ませる特技の持ち主だということも承知している。 自分の特技を自覚していない瞬が、自分が出会う大抵の人間を親しみやすく優しい人だと思い込むきらいがあることも、星矢は よく知っていた。 それゆえ、星矢は、噂が伝える氷河像と瞬の語る氷河像との間に乖離が生じていること自体は、さほど奇妙なこととは思わなかったのである。 だが、大抵の人間を親しみやすく優しい人にできる瞬でも、その人間の性別を変えることはできない。 そして、星矢が噂で聞いている氷河は――おそらく実際の氷河も――その性別は“男”だった。 「ちょっと待て。普通、合コンってのは、女を捕まえるためのイベントだぞ。俺が知ってる常識じゃ、そういうことになってる」 「うん。でも、昨日の合コンで、僕にいちばん優しく親切にしてくれたのは氷河だったんだ。今度、人間科学部の校舎を案内してくれるって。また会おうって」 星矢にそう報告してくる瞬は、ひどく嬉しそうに瞳を輝かせている。 ほとんど 浮かれているようにさえ見えた。 星矢にとって瞬は大切な親友で、瞬の喜びは星矢の喜び、瞬の苦しみは星矢の苦しみである。 よほど特殊な事情があるのでない限り、これまではそうだった。 しかし、今 星矢は、瞬と共に嬉しい気分になることはできなかったのである――できるわけがなかった。 「いや、だから、合コンってのは普通、男女の出会いの場だろ。おまえ、女子大生のメアドの一つ二つはゲットできたんだろーな?」 「氷河のは教えてもらった」 「氷河のは……って、氷河のだけかよ?」 「うん!」 「おまえ、そんな嬉しそうに『うん!』なんて言ってる場合じゃねーだろ! 合コンに行って、収穫がオトコのメールアドレス一つ? 合コンってのは男女の出会いの場なんだから、女の連絡先ゲットしなきゃ、何の意味もねーだろ!」 「でも、氷河がいちばん親切で、僕なんかに気を遣ってくれて――」 「だから、いくら親切でも、合コンでオトコのアドレス手に入れて、何になるんだって、俺は――」 合コンで同性のアドレスを手に入れて嬉々としている瞬の非常識を、星矢は責めようとした。 星矢の叱責を、突然、ベートーヴェンの“エリーゼのために”が遮る。 楽聖ベートーヴェンの その有名なピアノ曲は、瞬のスマホの着メロだった。 「あ、氷河からメールだ!」 「氷河からメールだあ !? 」 よりにもよって、このタイミングで氷河からのメールとは。 星矢は 思い切り脱力してしまったのである。 そんな星矢とは対照的に、瞬は元気いっぱい夢いっぱい。 盆と正月とクリスマスが一度にやってきたような はしゃぎようだった。 「わあ。来週末、ウチの大学に招かれたサンクトペテルブルク国立総合大学の言語学部の教授が第二言語習得研究の講演をするんだって。一緒に行かないかって。大学がつけた通訳より上手く通訳してくれるって。すごい、氷河が僕だけのために通訳してくれるなんて、いいのかな」 「……やけに嬉しそうだな。男相手に」 幼い頃から常に一緒だった親友の気持ちがわからない。 星矢は、不審感にまみれて、瞬に尋ねた。 瞬が、にこにこしながら頷いてくる。 「氷河は綺麗だもの」 「でも、男だろ」 「そうなんだ。あんなに綺麗なのに、僕と違って女の子に見えないの。すごいよね」 「そうじゃなくて、合コンってのは、普通は、女の子を引っかけ――」 「ぜひ ご一緒させてくださいって、返事出さなきゃ。わー、どきどきする!」 「……」 星矢は、男からもらったメールに、恋する乙女のように頬を上気させている瞬の気が知れなかった。 むしろ、あまり理解したくはない。 が、だからといって、『男からメールをもらって喜ぶのはやめろ!』と言うわけにもいかない。 何といっても、瞬にそんなことを言って『どうして?』と問い返された時、それがなぜ悪いのか、星矢には説明することができそうになかったから。 今、星矢にできることは せいぜい、 「のんびりしてると遅刻するから、メールの返事は学校についてからにしろ」 と、瞬に言ってやることだけだった。 |