「気の毒に。あの兄ちゃん、メイド頭のおばちゃんに重い荷物運ばせるのは気の毒だと思って 親切心 発揮しただけで、別に瞬に近付こうとか、そんなんじゃなかったろうにさ」 「瞬が通りかかったことが、彼の不運だったな。何の下心もなく純粋に人様に親切をしようとしただけなのに、それで あんな目つきの悪い男に睨まれていたのでは、割りに合わない」 夏はまだまだ終わる気配を見せない。 城戸邸の空調は全開、フル稼働。 城戸邸ラウンジは 気温湿度共に最適の状態に保たれていて、かえって体温調整機能の低下を心配したくなるほど。 宅配便搬入のトラブルの一部始終を、3階まで吹き抜けになっているエントランスホールの2階回廊から眺めていた星矢が 溜め息交じりに紫龍にぼやいたのは、決して この状況の改善を図ろうとしてのことではなかった。 瞬に出会ってしまったせいで とんだ災難に見舞われた宅配便のお兄さんに 紫龍が同情を示すのも、決して氷河の反省を促すためではない。 そもそも肝心の氷河が、ワインの箱を持ってワインセラーのある地下に下りていき、今 この場にはいなかった。 星矢と紫龍は この手の騒ぎに すっかり慣れてしまい、事態の改善も氷河の反省改心も とうの昔に諦めていたのである。 氷河が、瞬への独占欲を隠せる程度に大人になってくれれば、こういう騒ぎは起こらなくなるのだが、大人になった氷河など、星矢と紫龍には想像を絶する代物だった。 星矢の溜め息と紫龍の溜め息が重なった ちょうどその時、荷物運びの仕事を終えたらしい氷河がラウンジに入ってくる。 「瞬は?」 氷河が一人なのを訝って、星矢が尋ねると、 「ワインセラーで、メイドとワインの瓶を棚に並べている。俺だと粗雑に扱うから、手伝わなくていいと追い出された」 という答えが返ってきた。 それが実に納得のいく答えだったので、星矢は しっかり素直に納得した。 氷河は自分の興味のあること以外のすべてのことに、呆れるほど大雑把なのだ。 「今ちょうど、宅配便の兄ちゃんが気の毒だって話をしてたとこだ」 「気の毒? ああ、ああいう仕事は大変だろうな。世間は まだ暑いし、車の駐車には気を遣うだろうし、配達先が留守で無駄足を運ぶことも少なくないだろうし、我儘な客も多いだろう」 あの 人のいい宅配便のお兄さんを 誰が“大変”にしたのか、氷河は自覚していないらしい。 氷河に“反省”などという高次な行為を期待するのは 土台無理な話なのだと、星矢と紫龍は再び揃って溜め息をつくことになったのだった。 「それにしても、おまえの焼きもち発動の条件って、よくわかんねーな」 氷河に反省など、期待するだけ無駄。 そんなことをして疲れを増す事態を避けるため、星矢は さっさと話題を変えた。 「それはどういう意味だ」 いくら氷河でも、自分の周囲で日々起こる騒動が、瞬に近付く男たちへの自分の焼きもちが原因だということくらいは自覚できているらしい。 氷河がここで『焼きもちとは何のことだ』と問い返してこないことに、星矢は少しばかり救われた気分になったのである(その程度のことで!)。 「ほら、こないだ、公園で、町内会主催の夜店ならぬ昼店イベントがあっただろ。星の子学園のガキ共を連れてったやつ。あん時、公園の脇に趣味の悪い黄色の外車で乗りつけて、イベントを眺めてた若い男がいたじゃん。なんか場違いだなーって思ってたら、急に車から降りて イベント会場に入ってきて、ガキ共を突き飛ばして 瞬に近付いてきた あんちゃん。多分どっかの金持ちのぼんぼんで、顔の造作は まあ それなりだったかな。あのあんちゃんが瞬を口説き始めても、おまえ、知らんぷりしてただろ。あのあんちゃん、瞬と遊んでもらいたがってたガキ共を怒鳴って追い払うような性格最悪男だったぞ。人のいい宅配便の兄ちゃんよりさ、ああいうのをこそ、焼きもち発動して、瞬の側から 追っ払うべきじゃないのかよ」 それなら、星矢とて、氷河の独占欲丸出しの暴挙にも 多少の爽快感を覚えることができるだろうし、合点もいくのである。 嫉妬からくる氷河の失礼不作法が、どう見ても善良な一般市民に対してのみ発動するから、星矢の気分は 否応なく悪くなってしまうのだった。 「あんなのが瞬に好意を持たれるはずがない。ゆえに、俺が妬く必要もない」 「でも、顔の出来もそれなりで、金もありそうな若い男だったぞ?」 「あの馬鹿野郎がガキ共に 優しく親切――とまではいかなくても、普通に接していたなら、俺は 速やかに あの馬鹿野郎を瞬の側から追い払っていたさ。だが、あれは、瞬にまとわりつくガキ共を足蹴にしかねないような男だった。あんなのには、瞬は絶対に好意を抱かない」 「そういう理屈なのかよ。んじゃ、瞬に軽くあしらわれた あのあんちゃんが諦めて引き下がったあとに現われた、50過ぎのデブハゲ脂性のおっさんに敵愾心 剥き出しだったのは――」 「あのデブハゲ男は、ガキ共が走り回っているところに落ちていた空き缶を拾って、ゴミ箱に捨ててやっていた」 「は?」 氷河の思考や言動を正しく理解できるわけではないし、完全に理解できるようになったら おしまいだとも思うが、空き缶と焼きもちの関連性が まるでわからない。 訝り 眉根を寄せた星矢のために、紫龍が通訳を買って出てくれた。 「贅肉が豊富で 毛髪に不自由している あの熟年男性は、子供たちが怪我をしないように気遣うことのできる好人物だった。当然の成り行きとして、瞬は彼に好意を持つだろう」 「だから、瞬の側から追い払ったってのか? あのデブハ……贅肉が豊富で 毛髪に不自由している熟年男性を?」 それで、筋は通っているのかもしれない。 ある意味、理路整然。それは極めて 合理的な対応なのかもしれない。 かなり無理をすれば そう思えないこともないのだが、それにしても氷河の思考と言動は普通ではなかった。 「それって、つまり、人徳者や親切な人間は瞬に近付けないけど、ろくでもない下種共は瞬に近付き放題ってことかよ? それって おかしくねーか。普通はさ、ろくでなしの下種共の方を追っ払うもんだろ。まあ、瞬に好意を持たれるような人間を 瞬から遠ざけたいってのは、焼きもちの焼き方としては正しいやり方なのかもしれないけどさ」 「瞬には迷惑千万な話だな。人間的に優れた者が遠ざけられ、付き合っても得るものがなさそうな者は接近OKというのは。バラの花から、蜜蜂は追い払うのに、アブラムシには好き勝手を許しているようなものだ。バラが枯れてしまう」 「その心配はない。瞬への養分は、俺が たっぷり与えてやっている」 反省もなければ 改善の可能性もない氷河は、仲間の苦言など どこ吹く風である。 自信満々の氷河の答えに、星矢は、腹の底から嫌そうに顔を歪めた。 「おまえの言い方は、いちいち やらしいんだよ。今 瞬に不足してるのは、そういうんじゃなく、もっと高次の 形而上学的な徳とか、道徳的な徳とか――」 事態の改善は望めないまでも、これ以上の事態悪化は避けたい。 そのために、嫌味の一つ二つをプレゼントして釘を打っておこうとした星矢は、とあることに気付いて、口にしかけていた嫌味を途中でやめたのである。 星矢が気付いた“とあること”。 それは、 「おい。それって つまり、俺たちが瞬といても、おまえが何も言わねーのは、俺たちが人徳者に分類されてねーってことなのかよ?」 ということだった。 氷河は、星矢に答えを返してよこさなかった。 星矢を鼻で笑っただけで。 それで星矢は、思い切り むっとしてしまったのである。 星矢とて、自分を人格高潔な人徳者だと思っているわけではなかったが、氷河に鼻で笑われるほど低レベルな人間ではないつもりだった。 「んなことしてると、そのうち、おまえ、瞬に煙たがられて、愛想を尽かされるぞ」 「だいたい、瞬に近付いていい奴と近付けない奴の選別を おまえがするのって、おかしな話だろ。瞬だって、付き合って得るものの多い人たちと親交を持ちたいに決まってるんだ」 「あんまり独占横暴の度が過ぎると、瞬は、おまえに隠れて 人と会うようになっちまうぞ。瞬が いつまでも おまえの言うことを大人しく聞いていると思ったら大間違いだ!」 改善や反省は期待していないが、言いたいことは腐るほどある。 そのうちの ごく一部を、星矢は氷河の前にぶちまけてやったのだが、氷河は仲間の怒声に動じた様子を全く見せなかった。 「瞬がどうしても親交を持ちたいという人物が現われたら、それを妨げるようなことはしないぞ、俺は」 「でも、おまえが見張りにつくんだろ。今だって、瞬がちょっと外出するにも、いちいち口出しするよな。瞬が自分の用事で外出するのに、なんで おまえの許可をもらわなきゃならないんだよ。そんなの変だろ」 「瞬の外出に俺が同行していいのなら、俺とて口出しはせん。俺が守ってやれるからな。だが、いつもいつも保護者同伴というわけにはいかんだろう。瞬にも立場や面目というものがある。だから俺は、本当は瞬についていきたいのを我慢して、許可制にしているんだ。これは、できる限り 瞬の自由と自立を認めてやろうという、俺の寛大さの現われだ」 「なにが 瞬の自由と自立を認めてやろうだよ! 詭弁もいいとこだ」 氷河の主張は、前提が まずおかしい。 瞬は、外出に保護者の同伴が必要なほど子供ではないし、氷河に守ってもらわなければならないほど弱くもない。 氷河に自由と自立を認めてもらう必要もない。 もし 今現在 瞬が自由でなく、自立もしていないというのなら、それは氷河によって自由と自立を阻害されているからに他ならないのだ。 なぜ 瞬は、こんな我儘男の横暴を許しているのか。 氷河に比べたら、瞬の方が はるかに大人で強いというのに。 星矢が氷河に 反省や改善を積極的に求めない本当の理由はそこにあった。 この事態を改善できるのは、氷河ではなく瞬なのだ。 瞬が氷河の干渉を退けさえすれば、氷河は瞬に何も言えなくなる――何もできなくなる。 すべての元凶は、氷河を甘やかし、氷河の横暴を許している瞬自身。 瞬が何も言わず、何もしないから、第三者である瞬の仲間たちは何も言えず、何もできないでいるだけなのである。 瞬が むやみやたらに我慢強く、なかなか本気にならない人間だということは、星矢も よく知っていたのだが。 |