低い唸り声のように、大地を揺るがして響く音。
それは海鳴りだったらしい。
遠くで嵐が海面を打っている音。
海が凍り、膨張した氷が せり上がって ぶつかり割れる音でもあるようだった。
空はともかく 海の灰白色は、氷と雪が この世界の薄闇を映している色だということに、まもなく瞬は気付いた。
そんなふうに音も色も寒々しい世界なのに、身体は寒さを感じていない。
モノクロームの写真のような、灰色の世界。
そこは不思議な世界だった。
そんな世界に 突然、白と黒と灰色以外の色から成るものが現われたから――瞬はびっくりしたのである。
しかも、それが人間だったから。

そんな色の髪を持った人間を、瞬は一人しか知らなかった。
瞬の師や姉弟子であるジュネも美しい金髪の持ち主だったが、南方の人間の金髪と北方の人間の金髪は明確に違う。
ふんだんに降り注ぐ陽光に染まったような金髪と、稀少な陽光に恋い焦がれる心が生む金髪。
一方は、明るく華やかな金色、もう一方は、強さと儚さを併せ持っているような金色。
灰色の世界に ふいに現れた その人間は、北方の金色をたたえた髪の持ち主だった。
「氷河……?」

城戸邸で彼と別れてから3年の月日が経っていた。
だから彼の姿は、3年分 成長していた。
しかし、それは妙なことである。
瞬は、3年前に仲間たちと別れてから、一度も彼に会っていなかった。
当然、3年分成長した彼の姿を知らない。
だというのに、確かに彼は3年分成長しているのだ――。

ここは いったいどこなのか。
アンドロメダ島での聖闘士になるための厳しい修行。
かろうじて耐えているつもりだったのに、実は自分は とうの昔に命を落としていたのかと、瞬は思ったのである。
死は究極の自由。
死んだ者の心はどこにでも――どんな場所にでも、どんな時にでも――自由に飛んでいけるだろうと。

だが、だとしたら なぜ ここなのかがわからない。
瞬は 兄の生死を案じたことはあったが、兄以外の仲間の生死を心配したことはなかったのだ。
特に氷河のシベリア行きは、彼の故郷に帰るようなもの。
彼が死んだりするはずがないと、瞬は思い込み――否、決めつけていた。
今 その金色の髪を見るまで、瞬は彼を思い出したこともなかった。
“仲間たち”に思いを馳せることはあっても、“氷河”を思ったことはなかった。
死んで自由を手に入れたとしても、瞬の心が彼の許に飛んでいくはずはないのだ。

では、もしかしたら、自分は氷河に呼ばれて ここに来たのだろうか。
そう、瞬は思ったのである。
だが、そうではなかったらしい。
「瞬……?」
そうではないことを、瞬は氷河の、
「俺以外の人間が、ここに来ることができるとは思わなかった」
という呟きによって知らされた。

『俺以外の人間が、ここに来ることができるとは思わなかった』
氷河が そう言うということは、つまり、氷河もまた どこかから ここに来ているということになる。
ここが氷河のいるシベリアではないということ。
ここは現実の世界ではないのか――。
「ここはどこ……」
それは、氷河に向かって問うた言葉だったのか、不安が言わせた独り言だったのか。
瞬の不安。
それは、死んだのは自分だけではないのかという疑念だった。

「ここがどこなのか、この世界は何なのか――おまえに会ってわからなくなった」
「え」
「ここは俺だけの世界だと思っていた。俺一人しか来ることのできない世界だと思っていたのに――そうではなかったのか……?」
氷河は、ここに来るのは、これが初めてではないらしい――これまでに 幾度も来ているらしい。
彼が、この世界を“俺一人しか来れない世界”だと思っていたのなら、ここに人は氷河しかいないということなのだろうか?

「ここは夢の中?」
瞬が氷河に そう問うたのは、『ここは死後の世界なのか』と尋ねることができなかったからだった。――恐くて。
氷河が、左右に首を振る。
「違うだろうな。夢というのは、普通は断片的なものだろう。目覚めると、夢の中であった あらかたのことは忘れている。だが、俺はこの世界から出ても、この世界で見聞きしたことを忘れない」
『この世界から出ても』
どうやら、この世界は“出る”ことのできる世界であるらしい。
氷河には、ここではない氷河の世界――彼が現実に生きている世界――があるのだ。
この世界が何なのか、それは、氷河にも わかっていないようだった。
興味のないことには徹頭徹尾 無視無関心を貫く氷河のこと、彼は この世界の正体を詮索せず、ただ“不思議な世界”で片付けてしまっているのかもしれない。
そう思った途端に、瞬の心は ふっと軽くなり、そして、瞬の唇からは自然に笑みが零れることになったのである。
いっそ見事といっていいほどの、氷河の変わらなさに。

「あれから3年が経った。おまえもそうか?」
変わらない氷河が、“不思議な世界”で、少し不思議そうに瞬に尋ねてくる。
瞬は、咄嗟に その質問の意味が理解できなかった。
数秒後、それが『俺の上を過ぎていったのと同じだけの時間が、おまえの上でも経過したのか』という意味の問い掛けだということを理解する。
現実世界でないなら、ここは異世界である。
つまり、現実世界とは違う場所。
もしかしたら、この世界は、“空間”だけでなく“時間”までが捩じれた世界なのではないかと考えて、氷河は それを確かめようとしているのだ。
瞬は、氷河に頷いた。

「うん」
「じゃあ、おまえは、3年後の今も まだ生きているんだな」
「まだ?」
氷河にそう言われた瞬は、一瞬、ここがどこなのかを考えることを忘れてしまった。
楽しいわけでも嬉しいわけでもないのに、唇と目が 勝手に(半分苦笑めいた)微笑の形を作る。
「すぐ死んじゃうと思ってた?」
氷河が、自分を侮っていたわけではないだろう。
氷河だけが、自分を侮っていたわけでもない。
自分は、そう思われても仕方のない子供だったのだ。

氷河は、瞬の反問自体には否とも応とも答えなかった。
ただ、真顔で、
「これがおまえに会える最後の時になるかと思って、城戸邸を出る日、俺は 特におまえの姿を目に焼きつけたんだ」
と告げてくる。
「それは……ありがとう――と言うべきなのかな?」
あるいは『馬鹿にするな』と?
そんなふうに突っかかっていっても 何の益もないことは わかっていたので、瞬はもう一つの言葉の方は口にしなかった。
だが、重ねて、氷河に、
「おまえ、ますます 女の子じみてきたな」
と言われるに及んで、やはり その言葉を言ってしまおうかと、瞬は思ったのである。
それでは あまりに子供じみていると思い直し、代わりに、
「氷河は、もしかしたら すごく意地悪になった?」
と、嫌味で返す。

氷河は、その嫌味にも否とも応とも答えを返してよこさなかった。
代わりに、
「ここでは、言いたいことを我慢したり、本音を隠したりする必要がないんだ。現実世界じゃないから。ここでは、『辰巳のハゲ野郎』と叫んでも、奴は俺を殴りにこれない」
という、開き直ったような弁明を返してくる。
そう答える氷河の態度が あまりに堂々としているので、瞬は吹き出してしまいそうになったのである。
これが氷河でなかったら、瞬は、YESかNOかを答えない大人のずるさを 氷河は身につけたのだと思ってしまっていたかもしれない。
それが氷河だから――彼は、罪の意識や きまりの悪さをごまかすために そんなことを言っているのではなく、真面目に現状を説明しているだけなのだと、瞬は思うことができた――そう思うしかなかった。
氷河は、いつも真面目なのだ。
自分が意地悪をした自覚はなく、もちろん悪気もない。
瞬は、彼の失言を不問に処すしかなかった。
そして、瞬自身も真面目に氷河に問う。

「ここは現実世界じゃないの?」
「違う。同じ時間の中にあるはずのないものがある」
「え」
「同じ時間の中にあるはずのないもの……って、なに?」
「――」
瞬に そう問われた氷河が、ふいに黙り込んでしまう。
3年分だけ大人になった氷河――おそらく 大人になりきれていない氷河――は、黙ったまま 瞬をじっと見詰め、やがて、
「意地悪なのは おまえの方だ」
と、低い声で言った。
「え……?」

灰色の世界。
一瞬、瞬は、氷河の青い瞳までが、その冷たく沈鬱な色に染まったような錯覚――錯覚だろう――を覚えたのである。
そんなことがあるはずがないと思い、瞬は氷河の瞳の色を確かめようとした。
残念ながら、瞬は そうすることはできなかったが。
瞬がそうしようとした時、瞬の前から氷河の姿は消えてしまっていたのだ。

だが、もしかしたら、実は、消えたのは瞬の方だったかもしれない。
あるいは、氷河が瞬を彼の世界から追い払ったのだったかもしれない。
瞬が確かめることのできた“青”は、アンドロメダ島の空と海の青。
瞬は、いつのまにか、見慣れたアンドロメダ島の光景の中に戻っていた。






【next】