「あ……」
青い空の下、青い海の前、白い砂浜の上に、瞬は立っていた。
たった今まで言葉を交わしていた氷河の姿は、今はもう どこにもない。
あるのはただ、残酷なほど美しいアンドロメダ島の佇まいだけ。
尋常の、当たりまえの、あるべき世界に戻ってきたというのに、瞬は呆然と その場に立ち尽くすことになったのである。

あの灰色の世界は幻だったのか――。
灰色の世界自体は夢でも幻でも構わなかったが、氷河は?
3年分 大人になった氷河、生きている氷河もまた幻だったのか。
あれは、懐かしい仲間に会いたいという自分の心が作り出した幻だったのか。
だが、だとしたら、なぜ氷河だったのか――。
キツネにつままれたような気持ちで――他に自分にできることを思いつけなくて――瞬はただ、氷河の瞳の色に似たアンドロメダ島の空と海を視界に映していたのである。

青い空と青い海のある風景の中で、どれほどの時間、そうしていたのか――。
尋常の、当たりまえの、あるべき世界――現実の世界――で、瞬の意識を現実に引き戻してくれたのは、
「瞬。おまえ、こんなところで何をしているんだい」
という、ジュネの声と言葉だった。
その口調が、あまりに現実的で、あまりに日常的すぎたので――瞬は やはり自分は白昼夢を見ていたのだと思わないわけにはいかなくなったのである。

「海が……海が青くて綺麗だと思って――」
「海が青い? なに 馬鹿なこと言ってるんだい。そんなの、当たりまえのことだろ」
「あ……そうですね。海が青いのは、当たりまえのことだ……」
まだ どこかぼんやりしている瞬の呟きを訝ったのだろう、ジュネが瞬に心配顔を向けてくる。
「どうしたんだい。ほんとに大丈夫かい」
「はい。大丈夫です」
瞬が首肯しても、ジュネは まだ少し心配そうにしていたが、瞬が笑顔を作ってみせると、彼女は 短く安堵の息を洩らした。
そして、まじまじと瞬の顔を見詰め、彼女自身も笑顔になる。
「まあ、確かに おまえは身体だけは強くなったね。この島に来たばかりの頃は、日中 30分も外に立っていたら、すぐに ぶっ倒れていたのに」

ジュネの言う通り、瞬は最近は修行をつらいと感じることは少なくなっていた。
肉体的には。
ただ、対戦方式での体術訓練だけが つらかった。
身体が弱く、戦闘技術を体得できていなかった頃には、対戦相手に叩きのめされていればよかったので 気が楽だったのだが、今はそうはいかない。

「強くなりました? 僕」
「ああ。体力はついたし、運動能力も格段に向上した。ただ、人を倒せないねぇ。今のままじゃ、おまえ、どうしようもないよ」
「聖闘士になれませんか」
「それは なんとも……。人が聖闘士になれるかどうかを決めるのは小宇宙の有無、聖闘士の強さと弱さを決めるのも小宇宙の質と大小だそうだから。強大な小宇宙を備えて 敵を圧倒すれば、敵の方から自発的に降ってくれて、敵と戦う必要がなくなるかもしれない」
「ええ……」
つまりは そういうこと。
瞬は、肉体的に強くなり、戦う術も 相当のものを身につけたが、対戦相手を圧倒できるほど強大な小宇宙はまだ体得できていない。
そこまでは強くなれていない――自分は まだ弱いのだ。
その事実に、瞬は切なく吐息した。

「小宇宙を鍛える術があったら、そうするんですけど、先生は、それは言葉で教えられることじゃないって おっしゃって――」
聖闘士になるために必要な小宇宙とは、いったい どういうものなのか。
意思が強いことではなく、試練に挫けないことでもなく、諦めないことでもなく――瞬は、その意味と感覚を 明確に掴めないことに焦れていた。
師を見ていると、それは正義を愛する心、他者に対する優しさのようなものなのではないかと思うのだが、そういったものを いったいどうやって育て鍛えればいいのかがわからない。
そもそも それは鍛えることのできるものなのかどうかも わからない。
そんな現状が、瞬は もどかしくてならなかったのである。
そんな時だったのだ。
会うはずのない人に、瞬が会ってしまったのは。

3年分成長した氷河と出会ったことは、白昼夢だったのか。
生きている仲間の姿を見ることができたのは、それが幻でも 想像の産物にすぎなくても嬉しいことだった。
本当に嬉しい。
だが、だからこそ、瞬は気になったのである。
『意地悪なのは おまえの方だ』
という、最後に聞いた氷河の呟きが。
その意味が。

あの灰色の世界は、いったいどういう世界だったのか。
瞬があの世界に行くことができたのは、氷河が呼んだせいだったのか。
それとも、あの出会いは、人の意思には全く関係のない、超常的な力の作用によるものだったのか。
瞬は あの世界の存在を知らなかったのだから、瞬を あの世界に運んだのが、瞬の意思でないことだけは確かだった。
実際、もう一度 行きたいと思っても、瞬は あの灰色の世界に行くことはできなかった。

やはり あれは白昼夢。
仲間を懐かしむ思う心がみせた幻影にすぎなかったのだと、氷河との再会を諦めた頃、瞬は再び 灰色の世界で氷河に会った。






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