なぜ、どんな力によっても自分が この世界に運ばれるのかはわからない。
再び、突然 目の前に現れた旧友の姿に怪訝そうな目を向けてくるところを見ると、氷河も そのあたりの事情は わかっていないのだろう。
ならば、そんなことを話し合っても無駄である。
自分が いつまで この世界に留まっていることができるのかもわからないのだ。
前回のように、いつ また元の世界に引き戻されるかわからない――この世界から追い出されてしまうか わからない。

だから瞬は、『なぜ僕はまたここに?』と言うことはせず、
「どうして、僕が意地悪なの」
と、氷河に問うたのである。
尋常の、当たり前の、現実の世界で、瞬の上を過ぎていったのと同じだけの時間が 氷河の上でも流れたのなら、二人の今は、最初の突然の再会と別れから半月後ということになる。
その時間を無視して――半月の時間が1秒にすぎなかったように、瞬は氷河に尋ねた。

氷河の上でも、あれから半月の時間が過ぎていたのだろう。
その時間を無視したような瞬の問い掛けに面食らったらしい氷河は、一瞬 戸惑いの色を その瞳に浮かべた。
その時差を調整するのに2分。
時間の感覚の調整を終えると、氷河は瞬の質問に答えてきた。
「あの時、おまえは、俺に、同じ時間の中にあるはずのないものとは何か――と訊いただろう」
「う……うん……」
それが、氷河には“意地悪”に感じられたのだろうか。
不安に眉を曇らせた瞬の前で、氷河は その腕を伸ばし、灰色の海の沖の一点を指し示した。
「あそこに沈みかけた船があるのが見えるか」
「沈みかけた船?」
その船は、前に来た時も同じ場所にあった。
あれが沈みかけた船なのなら、“今”も沈まずにいるのは奇妙なことである。
この世界では、時間が流れていないのだろうか。

“沈みかけた船”が沈んでいないことを、瞬が奇異に思ったことに気付いていないわけではないのだろうが、氷河は この世界での時間の流れ方については何も説明してくれなかった。
ただ、
「日本に渡るための船だ。あの中にマーマがいる」
と言っただけで。
それだけで、瞬には十分だったが。
この世界の時間は、現実世界にリンクしていないのだ。
ここには、“過去”がある――。

「俺を救命ボートに乗せて、マーマ自身は船に残った」
「氷河……」
この世界は、どちらが北で どちらが南なのか わからない。
次に氷河が指差したのは、氷河を起点に120度ほど左にまわった場所。
「あっちの白い氷の海。あの海の底にもマーマがいる――死んだあとのマーマだ」
「あ……」
氷河の言った“意地悪”の意味を、やっと瞬は理解した。
自分は、訊くべきではないことを氷河に訊いてしまったのだ。
氷河にとっては つらい問い掛けをし、氷河を悲しませた。

「ご……ごめんなさい。僕――」
そんなつもりはなかったのだと弁解して 何になるだろう。
そんな言い訳をされて、傷付いた氷河の心が癒えるわけではないというのに。
瞬は、唇を噛みしめた。
小宇宙というものが、正義を愛する心、他者に対する優しさの具現なのであれば、確かに自分は 聖闘士には ほど遠い、未熟すぎる人間だと思う。

「人は……こんなふうにして、人を傷付けるのかな……」
傷付ける つもりはないのに。傷付けたくなどないのに。
これまでに 自分が“傷付いた”と感じた幾つもの場面を思い出し、瞬は悲しい気持ちになったのである。
瞬は これまで、自分は常に 人に傷付けられる側の人間で、自分が人を傷付けることはないと信じていた。
だが、そうではなかったらしい。
そうではなかったことを、瞬は今 初めて知らされた。
瞬の苦しそうな顔を見て、氷河が首を横に振る。
「ひどいことを訊く奴だと思ったが、俺より おまえの方がつらそうだ。すまん。おまえは知らなかったのに、勝手に傷付いた俺が悪い。その上、おまえは悪くないと思えるようになるまでに 半月もの時間がかかるなんて――」
「え……?」

氷河が 『瞬は悪くない』と思えるようになったから、自分は再び この世界に来ることができたのだろうか。
氷河が許す気になったから?
では、この世界に入れる者、入れる時を決めているのは氷河の心なのか。
そして、氷河は許してくれるのか。
「ごめんなさい。ありがとう……」
「謝るな。おまえは悪くない」
そう言われても――氷河が許してくれたとしても――瞬は、心を安んじることはできなかった。
そんなつもりはなかったにしても、自分が氷河を傷付けたことは紛れもない事実なのだ。
打ち沈み、瞼を伏せたままの瞬を見て、氷河は――氷河も困ってしまったらしい。
しばしの沈黙のあと、彼は唐突に話題を変えてきた。

「どうせなら、二人で暮らしていた頃のマーマが、この世界にいてくれればいいと思う。なのに、生きているマーマは ここにはいないんだ」
「あ……ここには 生きているマーマはいないの?」
「いない」
「どうして?」
「――」
氷河が すぐに答えを返してこなかったので、瞬は また自分は無神経な――氷河を傷付けるようなことを尋ねてしまったのかと 不安になった。
日本でなら十分に子供と見なされる歳の氷河が、大人のそれではないが、子供のそれでもない表情を瞬に向けてくる。

「ここは……俺が傷付き苦しむためにある世界なんだ、多分」
「氷河が……傷付き苦しむためにある世界?」
「ああ。でなければ、誰かが俺を罰するために作った世界だ――その“誰か”は俺自身なんだろうと思っていた。ここで おまえに出会うまでは」
おまえの登場で わからなくなったんだ――と、氷河は言った。
「ここは俺だけの世界のはずなのに、石ころ一つ 俺の自由にはならない世界なんだ」
と。
そして、
「本当に――どうせ作るのなら、幸せな世界を作ればいいのに――と思っていた」
と。

「もっとも、ここが俺が傷付くための世界、俺を罰するための世界なのだとしたら、ここに おまえがいても不思議はないか……。俺は、一輝と引き離されて、デスクィーン島と大差ない環境の島に送られることになった おまえに、何もしてやれなかったし」
「氷河……」
氷河は、無力な幼馴染みを救えなかったことに罪悪感を感じているのだろうか。
それこそ“氷河のせいではない”こと、“氷河は悪くない”――というのに。
「そんなの、氷河のせいじゃないよ……」
俯き、くぐもった声で そう応じながら、瞬は氷河の言葉に傷付いていたのである。

氷河にとって、自分はそういう存在なのだろうか。
“氷河が傷付き苦しむための世界”“氷河を罰するために作られた世界”にいても、不思議ではない存在。
氷河がもし幸せな世界を作ることになったなら、彼は、彼のマーマが生きていて、彼が本当の不幸を知らなかった頃の時間や場面を色とりどりの積み木のように組み立てて、その世界を作るのだろう。
彼が、“瞬”という人間の存在を知らなかった頃の時間、“瞬”という人間に出会う以前の場面を並べ、積み重ねて。
氷河が作る、氷河が幸せな世界には“瞬”は いない。
“瞬”は“氷河”の幸せに、豪も関わりのない場所にいる存在なのだ――。
そう思ったら切なくて――もし ここが“氷河が傷付き苦しむための世界”“氷河を罰するために作られた世界”なのなら、自分は こんな世界にはいたくないと、瞬は胸中で叫んだのである。

「瞬 !? 」
氷河の声が聞こえる――氷河の姿はなく、その声だけが聞こえる。
だが、すぐに瞬は、本当に自分は氷河の声を聞いたのかどうかを怪しむことになった。
瞬は、いつのまにか――またしても突然に、アンドロメダ島の光景の中に戻っていたのだ。






【next】