「瞬! もう来てくれないかと思った……!」 三度目の灰色の世界で 瞬を出迎えてくれたものは、氷河の嬉しそうに弾んだ声だった。 そして、“傷付き苦しむための世界”“自身を罰するために作られた世界”には そぐわない、明るく輝く青い瞳。 瞬が この世界に二度目に来た時から、10ヶ月以上の時間が過ぎていた。 そこに瞬がいることに気付くなり 軽快な足取りで駆け寄ってくるところを見ると、氷河はどうやら 彼の昔馴染みの来訪を喜んでいるようで――もしかしたら 彼は、瞬に この世界に来てほしいと、ずっと願っていてくれたのかもしれなかった。 10ヶ月前には、『行きたい』と願っても 来ることができなかった この世界。 いったい なぜ、今日は来ることができてしまったのか。 瞬は、この世界の仕組みが わからず、灰色の世界の真ん中で しばし戸惑った。 この世界に続く扉を開くスイッチのようなものがあるのか。 氷河以外の人間が この世界に入るために満たされなければならない条件があるのか――。 それには、小宇宙の力が関わっているのか。 いずれにしても、この世界は、この世界を作った者(氷河)と この世界を訪問したい者(瞬)の どちらか一方の意思で来たり来れなかったりする世界ではないようだった。 「最初は、おまえに会いたいと願ったら おまえが来てくれて、一緒にいるのが嫌だと思ったら おまえは消えてしまった。だから、俺の意思で おまえを この世界に招いたり、出ていかせたりできるんだと思っていたのに、いくら会いたいと願っても おまえが来てくれないから、俺は途方に暮れていたんだ」 「え……」 氷河のその言葉が事実なら、ここは氷河の世界なのに、氷河自身の意思(だけ)で制御されている世界ではないということになる。 この世界の法則が、やはり瞬には理解できなかった。 二人の波長が合えば、会えるものなのか。 あるいは、実は 満たされる条件も法則性もなく、運命が気まぐれに二人を会わせたり引き離したりしているだけなのか。 もし そうなら、氷河が自分に『来てくれ』と願い、自分が氷河に『会いたい』と願った途端に 再会を果たした自分たちは、運命の気まぐれを凌駕したということなのか。 答えに到達できるとは限らないことを考え続けるのは、瞬の悪い癖だった。 氷河は、『こうしてまた会えたのだから、なぜ また会えたのかなどということを考える必要はない』というスタンスでいるらしい。 氷河は、“運命”や“意思”を あれこれ推し量ることなく、彼の用件を切り出してきた。 「そんなつもりはなかったんだが――二度目に おまえが ここに来た時、もしかしたら 俺も意識せずに おまえを傷付けてしまったんじゃないかと、ずっと考えていたんだ。俺は無神経だから、多分そうなんだろうと思った。だが、なぜ俺が おまえを傷付けることになったのか、それが いくら考えても わからなくて――」 「え……」 「俺は、本当に おまえを傷付けるつもりはなかったんだ。人を傷付けたくないと思ったら、人は何も言わず、何もせずにいればいいんだろうが、人間は生きているから、そういうわけにもいかない。面倒で難しいな、生きるってことは」 「氷河……」 10ヶ月もの間、氷河はずっと そんなことを考えていてくれたのだろうか。 自分がなぜ幼馴染みを傷付けたか、そして、傷付けずにいるには どうすればいいのか。 自分がなぜ彼の幼馴染みを傷付けることになったのか、氷河は その答えには辿り着けていないようだったが、そんなことはどうでもいいことだと、瞬は思った。 氷河が 自分のことを気に掛け考えてくれていたという事実が、瞬は嬉しかった。 それだけで、瞬の傷心は瞬時に癒された。 「ごめんなさい……。僕……僕は一人で勝手に傷付いたの。僕は、この灰色の世界に来ることはできても、氷河の幸せな世界の住人にはなれないんだって思って、それだけで。氷河は悪くない」 瞬の告白を聞いた氷河が、城戸邸にいた頃の――まだ完全に子供だった頃の彼に戻ったように、瞳を大きく見開いて きょとんとする。 それから、彼は半分大人の彼の表情に戻って、 「俺がもし 俺の幸せな世界を作るとしたら、そこにいるのは マーマとおまえだけだろう」 と、瞬に言った。 「氷河……」 それは、瞬には意外な言葉――思ってもいなかった言葉だった。 「マーマがいて、僕がいて――他は?」 「他はない。マーマが死んでからずっと、俺は幸福な人間じゃなかった。城戸邸で おまえと一緒にいる時にだけ、俺は マーマがいないことを忘れていられた。他に、幸せだった時はない」 「……」 それは喜んでしまっていいことなのだろうか。 氷河のマーマの他には、自分だけが彼の幸せな世界の住人だということ――は。 喜んではいけないことのような気がしたのである、瞬は。 だが、当の氷河は、それが事実なのだから どうしようもないという顔で、変えようのない事実には それ以上言葉を費やさず、瞬に尋ねてきた。 「おまえは、こういう世界を持っていないのか。現実とは違う、悲しい世界も幸せな世界も」 「う……うん」 氷河の言う通り、瞬は持っていなかった。 “自分が傷付き苦しむための世界”も“自分を罰するために作られた世界”も“自分にとって幸せな要素だけでできた世界”も。 瞬にあるのは、ただ現実の世界だけ。 その世界で、瞬は傷付き苦しみ、自分を責め、幸せも感じる。 それがいいことなのか悪いことなのかは わからなかったが、瞬にとっては それが変えようのない事実だったので、瞬は正直に氷河に頷いた。 瞬が首肯すると、氷河は、 「誰もが持っているわけではないのか。こういう世界は」 と呻くように言い、しばし何事かを考え込む素振りを見せてから、 「俺が こんな世界を作ってしまったのは、俺が弱いからなのか」 と、低い声で呟いた。 瞬は、そうではないだろうと思ったのである。 だから、首を横に振った。 「弱いなら――弱い人間は、それこそ 幸せな世界を作って、そこに逃げ込むものじゃないの? 僕は そう思うけど」 「そういうものか? 俺は……実際のところ、この世界が何なのか わかっていないんだ」 「氷河にわからないのなら、僕には なおさら わからないけど――それが つらい世界でも幸せな世界でも、普通の人は そこに誰かを呼んだり入れたりはしないんじゃないかな。呼べるなんて思わないだろうし」 この世界での最初の出会い。 氷河は、『おまえに会いたいとと願ったら おまえが来てくれた』と言った。 この世界が 何のために存在し、どんなふうにでき、どんなもので できているのかは わからないが、この世界があるのは事実。 それこそ、変えられない事実である。 ならば、それは 考えても詮無いことだろう。 瞬のように 答えに到達できるとは限らないことを考え続ける悪癖を持ち合わせていない氷河は、瞬でさえ“考えても詮無いこと”と思うことを 深く考えるつもりはないようだった。 だからなのか どうなのか――彼は、ふと思いついたように話の方向を変えてしまった。 「一輝が こんな世界を持っていたら、おまえは いちばんに飛んでいくんだろう?」 「それは……そうできたらいいんだけど……。僕は、兄さんは生きていてくれると信じることしかできない」 「多分、生きている。俺と違って、おまえの兄は こんなふうに自分が逃げ込む場所も作らず、強く生きているんだろう」 「だといいんだけど」 氷河の慰撫の言葉――慰撫なのだろう――に 浅く頷いてから、瞬は首を左右に振った。 「氷河だって、別に逃げ込むために作ったんじゃないでしょう、この世界を」 瞬は、この世界を作ったのは 氷河の弱さというより罪悪感のような気がした。 氷河は、彼の母親の死に、そこまで負い目を感じているのだ。 そんなことを指摘したくなくて――瞬は、氷河の答えを待たずに、その場に座り込んだ。 灰色の雪と氷だけでできているような、この世界――この浜辺。 だが、実際には ここには温度がない。 灰色の雪と氷は冷たくはなかった。 沖にある沈みかけた船に一瞥をくれてから、氷河もまた瞬に倣う。 温かくもないが冷たくもない灰色の浜辺に並んで座り、瞬は氷河に尋ねた。 「ねえ、氷河。氷河は、小宇宙の感じ、掴めてる?」 「さあ。毎日、肉体の鍛錬ばかりだ」 「そうだね。氷河は たくましくなったね」 「おまえは細いままだ」 「それなりに鍛えているし、僕、これでも 城戸邸にいた頃に比べると はるかに運動能力は向上したんだよ。でも、小宇宙がどんなものなのかが はっきりとは わからなくて――わかりかけてるような気もするんだけどね。小宇宙って こんなものなのかなあ……って、ぼんやりとではあったけど、初めて思った日に、僕は ここに来たんだ」 「そうだったのか? おまえ、何も言わないから」 「氷河、僕のこと、何も訊かなかったから」 瞬は決して責めるつもりで そんなことを言ったのではなかった。 氷河に何も訊いてもらえないことに物足りなさを感じないわけではなかったが、詮索好きな京雀のように 人の境遇を根掘り葉掘り訊いてくるイメージは、氷河にはない。 決して責めるつもりはなかったのだが、瞬に そう言われた氷河は、少し きまりの悪そうな顔になった。 それから、 「訊いてほしかったのか?」 と、真顔で問うてくる。 自分が他人に あれこれ詮索されることを好まない氷河の中には、そういうことを望む人間がいるという考え自体が、そもそもなかったのだろう。 瞬に『これまで どうしていんだ?』と尋ねないことは、氷河には一種の礼儀礼節で、親切でさえあるのかもしれなかった。 瞬とて、人に あれこれと自分の境遇を詮索されることは好きではなかった。 詮索したいとも思わない。 それが、興味ある人、自分の好きな人でもない限り。 「僕のことに――そういうことに興味がないのなら仕方がないよ」 「興味がないわけじゃないんだが」 「無理しないで」 倒れた人には 手を差しのべるのが親切だと思っていた。 だが、必ずしも そうとは限らない。 対峙する人間の境遇を知ろうとする行為も、ある人には 気遣いになり、他の ある人には詮索になる。 親切になるか侮辱になるか、気遣いになるか詮索になるか、すべては自分が相手の心情を思い遣っているかどうかに かかっている。 そして、この10ヶ月の間、氷河が自分の心の 有り様を考えていてくれたという その一事だけで、瞬には十分だった。 十分に――瞬は、氷河を優しく思い遣りのある人間と思うことができた。 「訊きたいことはあるんだ」 「なに? どんなこと?」 「おまえ、なんでそんなに可愛いんだ?」 「……」 氷河は本当に優しく思い遣りのある人間か。 本当に優しく思い遣りのある人間なら、ここは やはり『可愛い』ではなく、『強い』『たくましい』等の言葉を口にするものではないのか。 それとも、そんな言葉の選択を望む自分の方が 図々しく思い上がっているのか。 対応に窮した瞬は、氷河と自分のために、氷河の“気遣い”には触れないことにした。 「僕が この世界に来れることに小宇宙が何らかの形で影響しているのなら、兄さんや星矢や紫龍が この世界に来るってこともあるのかな」 城戸邸に集められた子供等が 聖闘士になる修行のために離れ離れになってから、4年近い月日が経っている。 いっそ ここで同窓会が開けたらいいのに。 そんなことが実現すると、本気で思ったわけではない。 それは ちょっとした思いつきと軽口だった。 その軽口に、氷河が思いがけないほど険しい反応を返してくる。 「来なくていい。おまえだけで」 「え」 瞬の思いつきに、氷河は立腹しているようでさえあった。 その硬い反応に、瞬は少なからず驚いてしまったのである。 氷河が『来てくれ』と望んだだけでは来ることのできない世界。 瞬が『行きたい』と望んだだけでは来ることのできない世界。 二人の意思や小宇宙の共鳴が必要なのか、それとも そんなものは全く無関係なのか。 どんな時、どんな条件が揃えば出会えるのか わからない この世界。 ただ、ここが氷河の世界で、氷河が来てもいいと思った人間しか訪れることのできない場所であることは 事実なのだろう。 この世界で、瞬が氷河以外の仲間たちに会うことはなかったから。 |