それから しばらくの間、瞬は その世界に行くことはできなかったのである。1年 もしくは それ以上。
どうすれば そこに行けるのかがわからないのだから、それは二人が出会うための条件が満たされなかっただけのことなのかもしれなかったが、少なくとも瞬は氷河に会いたくないと思った時は一瞬もなかったのに。
小宇宙を生み、燃やすことも、瞬は 自らの意思でできるようになっていた。
にもかかわらず、二人が会えないのは、氷河の身に何かあったからなのか。
逆に、何もないから、会う必要がなくて、二人は会えないのか。
どうやら後者だったらしいことを、瞬は、その世界への四度目の訪問時に知ることになった。

「瞬! おまえ、生きてるのかっ !? 」
前回の出会いと別れから、1年以上の時間が過ぎていた。
氷河は、瞬の姿を認めるなり、『久し振り』の一言もなく、そう尋ねてきたのだ。
「えっ」
「生きてるか」
「うん」
「その証拠は」
「証拠?」
いったい氷河は突然 何を言い出したのか。
氷河は、彼の前に立つ幼馴染みを幽霊か何かなのではないかと疑ってでもいるのか。
今 ここに存在し、彼と言葉を交わしていることが生きている証拠にならないのなら、それをどうやって示すことができるのか。
戸惑う瞬に、氷河は重ねて尋ねてきた。

「昨日、何をした? おまえの――現実世界で」
「昨日? アンドロメダ座の聖衣を手に入れるためには、サクリファイスという試練に挑戦しなきゃならないってことを、僕の先生に教えてもらったよ。それから、大きな岩を砕こうとして、飛び散った石のかけらで 肘に怪我をした。ほら、ここ」
この灰色の世界に来ている自分は実体なのか。
あるいは 実体はアンドロメダ島に残り、心だけが ここに飛んできているのかを、瞬は これまで気にしたことがなかった。
だから その怪我のありか――あるはずの場所――を氷河に指し示してから、瞬は少し慌ててしまったのである。
実体にせよ零体にせよ、その怪我は今の“瞬”というものに付随する一要素であるらしく、幸い それは瞬の左手の下腕の内側に確かにあった。
氷河が、その傷の存在を確かめるように、指先で幾度も触れ、撫でる。

「生きてるんだな、ちゃんと」
そう言って 氷河が洩らしたものは 確かに安堵の息だったと思うのに、瞬が生きていることを確かめても、氷河は一向に心を安んじた様子は見せなかった。
「何か……あったの」
瞬の 問い掛けに、氷河が一瞬、つらそうに顔を歪める。
瞬の生きている証から手を離し、氷河は その指で、彼の灰色の世界の海の沖の一点を指し示した。
彼の母の船が浮かぶ場所とは違う場所。
氷河が指し示した そこには、灰色の海があるきりで、他には何もなかった。
少なくとも、瞬の目には何も映らなかった。

「あの海のどこかに、俺の――俺のせいで死んだ修行仲間が沈んでいる、多分」
「え……」
この1年、氷河の世界では何もなかったのだ。
どうしても瞬に会いたいと思うようなことは。
そして、多分、今の氷河には“瞬”が必要だから、“瞬”はここに来ることになったのだ――。
「確かめたの?」
「いや。だが、多分……」

“自分が傷付き苦しむための世界”、“自分を罰するために作られた世界”。
この灰色の世界は そういう世界だと、氷河は思っているようだった。
事実はどうなのかを、氷河自身も知らずにいるようだった。
だが、別の可能性に、氷河は思い至ったのだ。
おそらく氷河は、ここは死んだ者が来る世界なのではないかと疑ったに違いない。
だから、氷河は瞬をここに呼んだ。
氷河は、“瞬”が生きていることを どうしても確かめたいと思ったのかもしれない。
生きている瞬の前に、氷河はまるで、自分を死神か疫病神だとでも思っているような目をして立っていた。

「僕は、生きてるよ。僕は、現実の世界で 氷河に もう一度会えると信じてる」
「俺に関わった人間は みんな、死ぬ」
「僕は死なないよ」
「この世界に、俺は――おまえは、俺が呼んだんだ。俺はおまえが好きだったから。現実の世界で会うことが叶わないなら、せめて ここに来てくれと願った。だから――死なないでくれ」
以前会った時より、格段に氷河の小宇宙は強くなっていた。
氷河が口にする言葉には ちゃんとした脈絡がなく、感情と思いつきの羅列のようだったが、彼が何を訴えたいのかは、彼の小宇宙が はっきりと強く明瞭に教えてくれた。
『死なないでくれ』
『おまえは生きていてくれ』
氷河の心は、ただ それだけを幾度も叫び、訴えていた。

「死なないよ。僕は、必ず聖衣を持って日本に帰る」
この数百年の間、アンドロメダ座の聖衣を身にまとう資格を手に入れる者は一人も現れなかったと、師は言っていた。
サクリファイスを克服した者はいないと。
自分にはサクリファイスを乗り越えられる力があると思えるほどの自信は、瞬の中にはなかった。
だが、今の氷河に『必ず生きて帰る』以外の言葉を言うことができるわけがない。
必ず、生きて、聖衣を持ち帰ると、瞬は氷河に断言した。
らしくもなく強い言葉を口にした反動のせいで、瞬の中では すぐに生来の気弱が頭をもたげてきてしまったが。

「でも、もし僕が死んだら、僕を この世界の住人にしてくれる?」
そうなれば、自分の死にも、少しは救いがある。
それは、自分の生と死を完全に無意味なものにしたくないという思いが生んだ言葉だったのだが、氷河は 瞬のささやかな逃げ道を 断固とした口調と態度で ふさいでしまった。
「駄目だ! おまえは こんな世界の住人になっちゃいけない。訪問者でいい。俺は こんなところに おまえを呼ぶべきじゃなかった。おまえは生きていてくれ」
それは、『絶対に、俺はおまえの死を受け入れない』という明確な意思表示であり、決意であったが、また 同時に それは、『おまえは死なないでくれ』という懇願でもあった。
実体なのか幻影にすぎないのかも わからない瞬の身体を、実体なのか幻影にすぎないのかも わからない氷河の腕と胸が抱きしめる。
実体なのか幻影にすぎないのかも わからない瞬の身体の心臓は、実体なのか幻影にすぎないのかも わからない氷河の腕と胸の中で、どきどきと強く速く高鳴り始めた。

日本に――城戸邸にいた頃の氷河は、ひどく無口で無愛想な子供だった。
ほとんど言葉を発しないので、瞬は最初のうちは、彼は片言程度にしか日本語を解さないのだと思っていたほどだった。
実は普通に日本語を話せるということを知ってからは、彼は 自分のことを他人に わかってもらいたい、他人と触れ合いたいという欲求が希薄な子供なのだろうと思うようになった。
母との死別によって負った傷が深すぎて、彼は人と関わりを持つことに臆病になってしまった。
あるいは 恐れるようになってしまったのだ――と。
城戸邸に来る以前に瞬がいた施設にも、その原因は様々だったが、そういう子供たちが多くいたから。

だが、そうではなかったのかもしれない――そうではなかったのだろう。
心底では、氷河はいつも誰かを求めていたのだ。
とはいえ、その“誰か”は“誰でもいい”わけではない。
氷河は少々 選り好みが激しくて、大多数の人間を、“誰か”以外の人間――どうでもいい人間――に分類してしまっていただけだった――のかもしれない。
その推察の真偽はどうあれ、母を失った時の悲しみ、つらさ、喪失感を、また氷河に味わわせるわけにはいかない。
だから、自分はどうあっても死ぬわけにはいかないのだと、瞬は思ったのである。






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