マーガレット






『私は信じています。アテナの聖闘士たちが、必ず あなたの野望を打ち砕くでしょう。アテナの聖闘士がいる限り、 邪悪が勝利することなどありえないのです』
地上世界を守るため 自ら囚われの身となったアテナが、囚われの身でありながら確信に満ちて そう言い放った相手――神は誰だったんだろう。
「アテナと人間たちの理屈では、あれも邪神ということになるらしいが」
おそらく彼自身も“邪神”なのだろう その男――仮に、第二の邪神とでも命名しておくか――は、吐き出すようにそう言った。
「神であるアテナが人間を信じると言い放つ、あの言葉が気に入らなかったから、余は、アテナの聖闘士にアテナを裏切らせることにしたのだ。アテナの目を覚ましてやるのは、神である余の務めであろう」
と。

第二の邪神は、姿を見せない。
ここは異次元なのか、それとも、こいつの支配する、いわゆる神の領域というやつなんだろうか。
ともかく、奴は、得体の知れない薄闇の中に、その声だけを響かせている。
茫漠と広い空間の中に大理石の高く太い柱が何本か見えるから、俺と第二の邪神がいる場所は、その薄闇の世界の内に建つ神殿の中なんだろう。
邪神の声は木霊を作っていた。
低く静かな声だ。
言っていることは とんでもないのに、落ち着き払った声。

地上で この声に『来い』と言われた俺が、大人しく その声に従ったのは、特にその お誘いを断る理由がなかったから。
こいつが地上世界に害を為す邪神なら、その正体を探っておいた方がいいだろうとも思ったしな。
『どこへだ』と問い返した時には、俺はもう この薄闇の世界に運ばれていた。
そして、こいつの目的を知らされたんだ。
アテナが信じている人間にアテナを裏切らせたい――という、こいつの目的を。

アテナの言葉を誰がどう思おうと、俺の知ったことじゃないが、随分勝手な神もいたもんだと、俺は呆れた。
俺は てっきり、人類を滅ぼそうとか、地上世界を我が物にしようとか、そういう大層な目的を持った神なんだろうと思って、この声の誘いに乗ってやったのに、アテナの聖闘士を一人、裏切者にすることが目的とは。
神にしては、志が低すぎるってもんだろう。
俺は、この志の低い邪神に、『直接 アテナに、人間を信じることの愚を説いた方がまだ ましだぞ』と忠告してやりたい気分になった。
まあ、そんな親切心を発揮してやる価値もない神のようだから、俺は その忠告を口にすることはしなかったが。

「裏切者候補に俺を選んでくれるとは、実に光栄だな。貴様も神なのか? 何を司る神なんだ」
「余が何者なのかなど、そなたが知っても詮無いこと。詮索しないことだ。余は、そなたが望むものを何でも与えよう。だから、アテナを裏切れ」
「裏切れと言われても、アテナに真っ向から戦いを挑んでいったら、俺は5秒とかからず、アテナの小宇宙の前に屈服させられることになるだろう」
「アテナと戦えというのではない。アテナのために戦うのをやめろと言っているのだ」
「積極的反逆ではなく、サボタージュというわけか。それくらいなら、俺にも できないことはないが――」
できないことはないが、みみっちいな。
俺は、そんな恰好の悪いことはしたくないぞ。
だいいち、そんなことをして 俺に何の益がある。
それで、瞬に軽蔑されでもしたら、益どころか、自ら望んで甚大な被害を被るようなものだ。

「俺の望むものを何でも与える――とは、随分と太っ腹だな。本当に俺の望むものを何でも与えてくれるのか。その力が貴様にはあると?」
とりあえず訊いてみた俺に、第二の邪神は、
「無論。何でも、どんな望みでも、叶えてやる」
と、自信満々で答えてきた。
アテナの聖闘士を一人、裏切者にする。
そんな みみっちい野心をしか抱けない神が、俺のどんな望みでも叶える力を 本当に持っているのか? 
途轍もなく 疑わしいんだが。
そもそも、夢や望みなんてものは、自分で努力して叶え 手に入れるから価値があると思えるものだろう。
欲しいものが 努力せずに自分の手の中に転がり込んできたとして、人は それを喜べるものだろうか。
あぶく銭は身につかないと、俗に言うぞ。

腹の底で そんなことを考えていた俺は、やがて そんなことを真面目に考えている自分が おかしくなってきた。
『アテナと戦え』じゃなく『仕事をさぼれ』。
そんなみみっちいことを思いつく神が、『どんな望みでも叶えてやる』と偉そうに言ったところで、いったい何ができるというんだ。
大したことができるとは、到底 思えない。
だから、俺が奴に、
「そうだな。俺は瞬を俺のものにしたい。できるか」
と言ったのは、それが俺の唯一の望みだからというより、奴の『どんな望みでも叶えてやる』が口先だけのものだということを確かめるためだった。
欲しいものが 努力せずに自分の手の中に転がり込んできた時、はたして 人はどんな気持ちになるのか、興味深い――と思う気持ちも少しはあったが、その興味深い体験が実際にできると期待していたわけじゃない。

「瞬? アンドロメダ座の聖闘士のことか」
「そうだ」
案の定、第二の邪神が黙り込む。
やはり、その願いを叶えるのは無理ということか。
こいつは、俺が、太っ腹の神サマに小銭でも無心すると思っていたんだろうか。
それとも、俺が 美味いメシを奢れと願うとでも思っていたのか。
いずれにしても、俺の願いを聞いた邪神は、俺の望みを叶えてやると答えてはこなかった。
『瞬をおまえのものにさせてやる』とは。
まあ、そうだろうな。
ならば、こんなところにいても仕様がない。
俺が そう思った時だった。
第二の邪神が薄闇の中に再び その声を響かせたのは。

「欲がないな。大きな富や権力でも望むのかと思っていたが。たとえば そなたを不老不死にしてやることも、余にはできるのだぞ」
『瞬をおまえのものにしてやることは できない』と、はっきり言いたくなかったのか、そんなことを言いだした神とやらを、俺は つい鼻で笑ってしまった。
「不老不死? そんなものを望んで何になる。終わらない命を生き続けることに、いずれ飽きるだけだ」
「ならば訊くが、いつかは死ぬ者を得たいと望んで何になる」
俺に瞬を与えることもできないくせに――名すら名乗らない邪神は、生意気に そう言い返してきた。

「物や力は、望んで努力すれば手に入れることができる。だが、人の心はそうじゃない。だから欲しいんだ」
お偉い神様に、人間ごときが努力すれば手に入れられるものを望むのは失礼というものだろう。
俺は、“神”を名乗る奴の顔を立てて、その望みを望んでやったんだ。
その大欲を『欲がない』と評するなら、さっさと俺の望みを叶えて見せろ! と、俺は言いたかった。
実際、そう言おうとしたんだ。
だが、第二の邪神は、意外や素直に、自分の力の限界を認めてきた。

「アンドロメダの心……それは無理だ。余の力はまだ完全ではない。完全な力を得れば、一人二人の人間の心を捻じ伏せるくらいのことはできるだろうが、その力は、そなたのためではなく余の望みを叶えるために使う」
「できないのか? 俺の望むことを何でも叶えると大きなことを言っておきながら。話にならんな。俺は帰るぞ」
大きなことを言っているのは、実は俺も奴と同じだったかもしれない。
なにしろ俺は、『帰る』と言っても、ここがどこなのかを知らなかったし、だから当然、帰り方もわかっていなかった。

「人の心は、神にも操ることはできない。少なくとも、完璧に支配することは容易ではない。余にできるのは、アンドロメダを ここに さらってきて、元の世界に戻れなくすることくらいだ。そなたが元の世界に戻ろうとしなければ、一生 ここに二人きりでいられる」
“心”ではなく“物”なら――身体だけなら――どうにかなるということか。
それが、この邪神の限界というわけだ。
俺は、少し考え込んで、
「瞬を手に入れることができるなら、それもいいな」
と応じた。
瞬の身体だけでも手に入れることができるなら――と思ったわけじゃない。
俺の中には、まもなく また大きな戦いが始まるという予感があった。
その戦いが始まる前に、瞬と二人になる機会が得られたら、それは悪いことじゃないと思ったんだ。
もっとも、それ以前に、瞬をここに さらってくる力を 本当にこいつは持っているのかと、俺は疑っていたんだが。

瞬は、俺とは違って、生きることにも戦うことにも、常に真剣に取り組んでいる人間だ。
要するに、糞真面目。
邪神に『来い』と言われても、俺みたいに『断る理由がない』なんて ふざけた理由で神の酔狂に付き合うような子じゃない。
世にもみみっちい邪神が、そんな瞬の 身体だけでも ここに運んでくることができるかどうか。
瞬の強硬な抵抗に合って、すごすご手ぶらで帰ってくるのが関の山だろう。
そう 俺は思っていたんだ。
瞬には、アテナの加護もあるしな。

それでも、どうやら奴は その難事業に挑むことにしたらしい。
「ここで待て」
と言い残して、第二の邪神の声と気配は 薄闇の世界から消えていった。






【next】