生きている人間のための その部屋には、石壁の冷たさや硬さを覆うためでもなく、陽光を遮るためでもない薄い薔薇色のカーテンで区切られた一画があって――いかにも何か価値のあるものが隠されていると言わんばかりの一画があって――無言で、その中にあるものを確かめろと、俺に指図していた。
その指図を あえて無視するほどの臍曲がりでもなかった俺は、その薄いカーテンを払いのけて、意味ありげな その空間の中に足を踏み入れたんだ。
そうしたら。

「氷河……!」
おい。俺は確かに、瞬の身体だけでも運んでこれるなら運んできてみろと、あの邪神を挑発した。
挑発することはしたが、ここまでのサービスを求めはしなかったぞ。
まさか、あの邪神、あとから俺に追加のサービス料を請求してくるつもりじゃないだろうな。

その意味ありげな場所、いかにも何か大切なものが隠されていそうなカーテンの向こう。
そこにあったのは 大きな寝台で――しかも天蓋付きときた――その上には瞬がいた。
なぜ自分がそこにいるのかわかっていない顔で。
ちょうど その寝台を出ようとしていたところだったらしく、俺の登場に気付くと、瞬は仲間の名を呼んで俺の側に駆け寄ってきた。

聖衣は身につけていない。
これも、俺が瞬の身体だけでも手に入れたいと望んでいると勘違いした邪神のサービスなのか?
だとしたら、余計なことをしてくれたもんだ。
瞬は、聖衣着用時より 未着用時の方が 格段に強いというのに。
瞬の聖衣は、瞬の本来の力を抑え込むための鎧、生身の拳を使わないための抑制ツールだぞ。
瞬から それを奪ってしまったら、瞬の敵(この場合は俺のことだ)の身が、かえって危ない。
サービスのつもりで、客(俺のことだ)を不利な立場に追い込むとは、あの邪神はサービス業や接客業には からきし向いていないな。

「氷河、大丈夫なの。怪我はしてない? 正体のわからない声に、氷河を捕えたって言われて、僕――」
心配そうに俺の顔を見上げてくる瞬の瞳を見て、俺は、あの邪神がどうやって瞬をここに連れてきたのか、その経緯を理解した。
あの野郎は、俺を捕えたと言って瞬を騙して――俺を人質にすることで、瞬の抵抗や攻撃を封じやがったんだ。
いや、『騙した』という言い方は、少し違うか。
確かに、俺は今、あの邪神に囚われている状況にあるのかもしれない。
そして、この神殿のこの部屋は、瞬を――瞬と俺を閉じ込めるために用意された豪奢な牢獄といったところか。
そうだな。
瞬と二人きりでいられるなら、ここに大人しく囚われていてやってもいい。――かもしれない。
4、5日くらいなら。

「氷河、ひどいことされてない? 氷河を捕まえたって、僕に言ってきた あの声は何――誰なの?」
俺は、あのみみっちい神に捕まえられたんじゃない。捕まってやったんだ。
――と言おうとして、俺は 結局 そうするのをやめた。
確かに 俺は、あの邪神との戦いに敗れて ここに囚われたわけじゃないが、事情はどうあれ、現に 俺は この薄闇の世界に囚われているわけだしな。
『深い考えもなく のこのこと邪神についてきて、結果的に邪神に囚われた形になっただけの いい加減な仲間のために、おまえは ここに連れてこられたんだ』なんて、本当のことは知らせにくい。
『あの邪神が、まさか俺を人質扱いにして、おまえを さらってくるなんて思ってもいなかった』なんて本当のことを瞬に言ったら、俺は邪神の嘘の片棒を担いだ悪党ということになるし、瞬は瞬で、いもしない人質のために自らを窮地に追い込んだ間抜けな聖闘士ということになってしまう。
それは、さすがにできない。

特に後者。
おまえは、白鳥座の聖闘士を捕えたという邪神の言葉を疑いもせずに信じて のこのこと こんなところまでやってきた、お人好しの大間抜け聖闘士だ――なんて、本当のことだけに、絶対に瞬には言えないことだった。
それくらいなら、白鳥座の聖闘士を、邪神との戦いに手も足も出せずに敗れ、打ちのめされ、虜囚の屈辱を味わうことになった みじめな敗残者にしておく方が、ずっとましというもんだ。
死ぬほど恰好悪いが、瞬を間抜けな聖闘士にするよりは、絶対にその方がいい。
そう 俺は思ったんだ。
だから、俺は、おそらく今も俺たちの様子をどこかで窺っているに違いない あの邪神が、『おまえは騙されて、ここに連れてこられたんだ』と瞬に告げることを何より恐れていた。

あの邪神は――俺が察していた通り、俺と瞬のやりとりを盗み聞いていたらしい。
そして、まさか俺の心を読んだわけでもないだろうが、俺が最も瞬に知らせたくないと思っている事実を 瞬に告げることはしなかった。
まあ、だからといって、俺が 心を安んじることができたわけでもないがな。
奴は、事実を瞬に知らせない代わりに、とんでもない大嘘を瞬にぶちかましてくれたんだ。
“大嘘”という言葉は、正確じゃないかもしれない。
奴は、それを事実だと思っていたのかもしれないからな。
どう言うのが、最も適切だろう。
それは微妙な嘘であり、同時に 微妙な事実でもあった。

奴は、敵地に囚われていた仲間の身を案じている瞬に、言ったんだ。
どこから響いてくるのか わからない、あの低く抑揚のない声で。
「キグナスは、そなたを自分のものにできるなら、アテナのために戦うことをやめるという取引を 余と交わしたのだ」
と。
邪神の嘘を疑いもせずに信じて、こんなところに連れてこられた お人好しの瞬。
アテナの聖闘士として どうなのかという以前に、一人の人間として その不用心無防備はどうなんだと問い質してやりたいほど 猜疑心の持ち合わせが少ない瞬は、だが、今度は邪神の言葉を信じなかった。
「何を言ってるの。氷河がそんなことするはずがないでしょう」
「そなたの信頼は裏切られたということだ」
勝ち誇った邪神の声が、室内に満ちる。
本当に、この声はどこから響いてくるんだ。
耳障りなこと、この上ない。

「氷河、嘘だよね。ううん、もし本当に氷河が そんなことを言ったのだとしても、それは僕に助けに来てほしいから、この場所を僕に知らせるためには そうするしかなかったから、そう言ったんだよね」
物事を好意的に解釈することでは右に出る者のいない瞬が、ここぞとばかりに その力を発揮する。
瞬は決して愚鈍な人間ではないんだが――むしろ観察眼も洞察力も人一倍あって、感受性も豊かだし、判断力も優れているんだが――基本的な立ち位置が極端な性善説なせいで、論理の組み立て方が 時折とんでもなく的外れになる。
そんな瞬の前で 嘘をつかない誠実な人間でありたい俺は、『もちろん、俺は潔白だ』と断言してしまえないんだ。
瞬をさらってこれるものなら さらってきてみろと、俺は邪神を挑発した。
少なくとも、瞬に手を出すなとは言わなかった。
あの時、俺の中に、『身体だけでも瞬を俺のものにできたら』という気持ちは皆無ではなかった。
そうなるのも悪くはないという気持ちは、確かにあった。
だから――瞬に嘘をつかないために、俺は、『そうだ』という答えも『違う』という答えも返さなかった。
代わりに、邪神を侮る言葉を吐いた。

「まさか、俺を人質にして騙して連れてくるとはな。力づくか、もしかしたら精神技でも使うのかと思っていたんだが、貴様が 人の心までは操れないというのは事実のようだな。神といっても大したことはない」
「心を操られている人形が欲しかったのか、そなたは」
人を疑うことをしない お人好しの瞬を騙して さらってくるような せこい神が、意外や鋭いところを突いてくる。
この声の主は、ただの馬鹿というのではなさそうだ。
まあ、自分の力の限界を知っている奴が、本当に馬鹿であるはずがないか。
「いや」
俺としては、そう答えるしかなかった。
いくら綺麗でも、心のない人形を愛玩して喜ぶ趣味は、俺にはない。
俺には、ピュグマリオン・コンプレックスの気はない。
そこまで倒錯もしていなければ、そこまで無欲でもないんだ。






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