「そうだな。こういう形で瞬を俺のものにするのも悪くはないか。少なくとも、ここにいる限り、俺は 瞬を他の誰かに奪われることはないわけだ」
俺が そう言ったのは、これ以上 邪神に余計なことを喋らせないため。
そして、
「氷河……本当にそんな取引をしたの」
と、切なげな目をして尋ねてくる瞬に、俺が何も答えなかったのは――実に無責任な話だが、邪神の条件を飲むと、はっきり答えたかどうかを、俺が憶えていなかったからだった。

みみっちい邪神には、瞬の身体だけでも ここに運んでくることは まず不可能だろうと、俺は思っていた。
瞬の抵抗やアテナの加護。それらを打ち破ることは、並のレベルの神にできることじゃないと。
まして、どう考えても並以下の みみっちい神には無理な話だと。
とはいえ、この邪神は その不可能なことを成し遂げるかもしれないという気持ちが 俺の中に毫もなかったとは言い切れず――本当のところが、俺自身にもわかっていなかったんだ。
それに、俺が何と答えようと、瞬が俺にどう応じてくるのかは、最初からわかっていたから。
俺の想像通りの答えを、瞬が俺に返してくる。

「僕は、邪神の言うことなんか信じない。氷河がアテナや僕たちを裏切るはずがない」
瞬に絶対の信頼を寄せられている無責任な白鳥座の聖闘士は、
「あまり、俺を買いかぶらない方がいい。俺はそれほど立派な男じゃない」
と答えるしかなかった。
瞬の前に、正直な男でいるために。
それでも、瞬の態度は微塵も変わらなかったがな。
「僕は氷河を信じてる」
そうだろう。
たとえ俺に殺されかけても 俺を信じていると言い、実際に信じ、信じたまま俺に殺される奴だ、瞬は。

「人を信じることが悪いとは言わんが、無条件に信じると裏切られて泣くことになるぞ。信じて馬鹿を見ることもある」
俺は、瞬のように、無条件に人を信じることはしないし、できない。
アテナのように 大上段に『人間を信じている』なんて断言したりもしない。
実際、俺は、俺が人を信じてるのか信じていないのか 自分でもよくわかっていないんだ。
これまで出会った邪神たちが口を揃えて言っていた通り、人間は醜悪な生き物だ。
全部が全部とまでは言わないが、利己的で 醜悪な人間が多いのは事実だ。
そんな人間たちのために、俺がアテナの聖闘士として戦い続けてきたのは、俺が守る“人間たち”の中に瞬がいたからだ。
人間の醜さにばかり目を向ける邪神共が、人類を滅ぼそうとするのも、地上の支配権を手に入れようとするのも結構だが、それで瞬まで滅ぼされ 奪われてしまってはたまらない。
ただ、それだけのことなんだ。

「氷河は、僕も信じないの」
俺を裏切者と思うことのできない瞬が、切なげな目をして俺に問うてくる。
俺は微かに左右に首を振った。
「おまえは別だ。おまえは特別。おまえは人を裏切るようなことをしない」
「無条件に人を信じると馬鹿を見るんでしょう。僕を信じても裏切られるかもしれないよ」
「おまえは特別だと言ったろう。おまえは そんなことはしない」
「僕だって、裏切るかもしれないよ」
「おまえが?」

つい笑ってしまった。
本当に、瞬は可愛い。
こんなシチュエーションで、俺を疑わない方がおかしいのに、瞬は俺を信じ続けるんだ。
本当に、本当に可愛い。
これほど可愛い人間を、俺は瞬の他に知らない。
同じようにアテナも『人を信じている』と言うが、彼女は『愛も正義もなく、ただ強い者が治め 邪悪に染まりながらも生きながらえる世界なら、滅んでもいい』と言い切るような神だ。
だが、瞬は違う。
瞬は、たとえ すべての人間に裏切られても、愚かなまでに人を信じることをやめないだろう。
だから、俺も瞬を信じるし、瞬を騙し裏切る奴等を許せない。
だから、俺は瞬が好きで好きでたまらないんだ。

そして、だからこそ、俺は 瞬の前では嘘をつけない。
「俺はおまえを手に入れるためになら、どんな卑怯も卑劣も厭わないがな」
正直に そう言って、俺は瞬を抱きしめた。
瞬が、一度 大きく びくりと身体を震わせ、それから全身を硬くする。
「ずっと こうしたかったんだ。アテナの聖闘士としての お勤めが終わる気配がなくて、できずにいた」
俺は、しみじみ、つくづく、心の底から、人類を滅ぼそうだの、地上世界を支配しようだのと 馬鹿なことを考える邪神共が嫌いだ。
奴等のせいで、これまで俺は 瞬の唇の このやわらかさを確かめることができずにいた。

「ん……っ」
瞬が 俺の名を呼んで、俺を責めたがっているようだったから、2、3分ほど瞬の唇と舌の感触を味わってから、俺は瞬の唇を解放してやった。
たった2、3分のキスで、瞬は自分が言おうとしていた言葉を忘れてしまったらしい。
その瞼も ほとんど閉じて、瞬は俺の胸に身体をもたせかけてきた。
信じていた俺に 断りもなくこんなことをされて気が動転し、身体から力が抜けてしまったように。

低く抑揚のない、あの声は聞こえなくなっていた。
姿を見せない 第二の邪神は、どこかで俺たちを見ているんだろうか。
そんなことはどうでもいいが。
奴は、自分を神だと言っていた。
神は人間じゃない。
人間でないものに、何を見られようと痛くも痒くもない。
蝶や月が見ているからと言って、恋人への愛撫を途中で やめる人間はいないだろう。






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