あれは、俺たちがまだ城戸邸にいた頃。 いつもの調子で 星矢が辰巳に逆らっていき――その時 辰巳が星矢に投げつけた、ちょっとした言葉が俺の勘に障った。 それで俺は辰巳に何か毒づいた。 奴が星矢に投げつけた一言が どんな言葉だったか、俺が奴に 何を言い返したのかは憶えていない。 竹刀で したたか辰巳に打ち据えられ、その後で瞬と交わした言葉、その時の瞬の様子は、細大洩らさず憶えているのに。 ガキの頃の俺が素直で可愛い いい子だったとは、俺自身も思っていない。 俺は確かに生意気で可愛げのないガキだった。 だが、だからといって、10歳にも満たない丸腰のチビを、でかい図体をした大人が、一つの痣が別の痣でみえなくなるほど竹刀で打ち据えるなんて、尋常な人間のすることじゃないだろう。 あの やり方で身体が鍛えられるということもない。 あれは、へたをすると子供を不具にしかねない暴力だった。 まあ、それはいいんだ。 実際、俺は不具にはならなかったし、障害が残るほどのことをされたのでない限り、身体に負った傷は いつかは癒える。 だが、あの時 俺は、時間にも薬にも癒されることのない傷を、奴に負わされた。 いわゆる、心の傷というやつだ。 生意気で可愛げのないガキを ヒステリックに打ち据えながら、辰巳の野郎は、俺を母親に捨てられた子供だと言ったんだ。 こんなに反抗的で可愛げがないから、おまえの母親も おまえに愛想を尽かしたんだと。 何事も程度問題だが、身体に負った傷よりも 心に負った傷の方が より痛いというのは事実だな。 辰巳に そう言われた その瞬間以降、俺は奴に幾度 竹刀で打たれても、まるっきり痛みを感じなくなっていたから。 すぐ医務室に行った方がいいという仲間たちの忠告を無視して、俺が一人で裏庭に向かったのは、空意地を張ったからでも、自分の足で歩けることを仲間たちに示すためでもなく――泣いているところを奴等に見られるわけにはいかなかったからだ。 まあ、瞬には見られていたんだろうがな。 楡の木の下で 声を押し殺して泣いて、やっと涙が止まった その時を見計らったように、瞬が俺の側に歩み寄ってきたことを考えると。 「辰巳さんは、本当のことは何も知らないんだよ」 言葉にも暴力にも、時には 他人の負った傷や、人の悲しみや苦しみ、優しさにまでも傷付き、すぐに泣き出す瞬。 毎日 ぐずぐず泣いてばかりいる瞬を 俺たちが嫌っていなかったのは、瞬が 自分の負った傷にだけ夢中になる子供ではなかったからだ。 瞬が、自分の負った傷や痛み以上に、仲間の傷や痛みに敏感で、そして優しかったから。 言ってみれば、傷付くことのプロフェッショナルといっていい瞬は、俺が何に傷付いたのかを的確に見抜いていた。 ……プロの前で虚勢を張っても仕様がないからな。 俺は、瞬の前で、素直に正直に項垂れたんだ。 「マーマは――俺が嫌いだから、船に残ったのか」 「氷河……」 若い身空で でかいコブつき。 しかも、それが まるで可愛げのない憎たらしいガキ。 重い荷物を背負って生きることに、おまえの母親は うんざりし、疲れ果てていたんだろう。 毎日、おまえさえいなければと考えながら。 だが、母親として子供を殺すわけにはいかないから、自分が死んで人生の重荷から逃げることにしたんだ。 おまえは自分の母親を殺した子供。 生きて、そこに存在するだけで、迷惑な子供なんだよ。 振り上げた竹刀を俺に叩きつけるたび、辰巳は そんなことを言っていた。 聞き苦しい胴間声。 時折 裏返って、何を言っているのか聞き取れない言葉もあったんだが、その大意と 途轍もない悪意だけは、嫌になるほど俺にも感じ取れた。 「そんなことないよ。氷河は、自分の目より、氷河のマーマのことを何も知らない辰巳さんの言葉を信じるの」 そんな辰巳の声に比して、瞬の声は優しく温かく、俺の心を包み込むようで――だが、優しさだけでは人の心の負った傷は癒せない。 「マーマの本当の気持ちは、マーマにしかわからない。俺には確かめられない。俺はどうせ子供だし、大人にしか わからない大人の考えっていうのが、大人たちにはあるのかもしれない」 「氷河……」 そう、俺はマーマ以外の大人は大嫌いだったが、世の中には、マーマを含めた大人たちが 子供には知らせようとしない大人だけの都合や理屈があるということは知っていた。 大人には、大人にしかわからない、大人同士の秘密があるんだ。 実際 俺は、マーマと死に別れて日本に来るまで、マーマが経済的に困窮していたことを知らずにいた。 マーマは いつも綺麗で優しくて、俺を愛してくれていて、俺はマーマと暮らしている間、俺の家には何かが足りないなんて思ったことはなかった。 マーマは大人だから、自分たちが貧しいってことを、子供の俺に感じさせないようにしていたんだ。 俺が子供であるように 瞬も子供で、だから瞬の言葉には説得力がなかった。 瞬の優しさは、俺を納得させるだけの力を持っていなかったんだ。 「ねえ、氷河。氷河のマーマって、綺麗な人だったんだよね」 「ああ。だから、辰巳が言っていたように、俺さえいなかったら、マーマは もっと自由に、好きなように生きて幸せに――」 「じゃあ、綺麗な お花に訊こう」 「なに?」 瞬が何を言いだしたのか、一瞬 俺にはわからなかった。 一瞬どころか、1分経っても 俺にはわからなかった。 花に訊く? 花が口をきくわけがない。 毎日 泣きたくなるようなことばかりが続くせいで、瞬は いつのまにか気が違ってしまっていたのかと、俺は半ば 本気で思った。 俺の懸念をよそに、瞬は ほのかに微笑して俺に手を差しのべてきた。 狂人には持ち得ないだろう優しさと思い遣りをたたえた 小さな白い手――。 「それは どうせ 生きている人間にはわからないこと、確かめられないことでしょう。なら、綺麗なお花に本当のことを教えてもらおうよ」 「おまえ、なに言ってんだ」 「こっち」 そう言って瞬が俺の手を引っ張って連れていったのは、城戸邸の裏庭の更に奥。 表の庭の薔薇や菊や藤や牡丹みたいに、人に見せるための花が咲いている場所じゃなく、スミレやコスモスや萩――言ってみれば あまり手のかからない野草の類が咲いている一画だった。 その中を、俺の手を引いて歩いていた瞬は、白と黄色でできている花の群れの前で立ち止まった。 「やっぱり、マーガレットだよね」 「おい、瞬」 「あのね。菜の花は4枚、梅や桜は5枚。お花って、花びらの数が同じものが多いでしょう。でも、マーガレットは そうじゃないんだよ。マーガレットの花は、花びらの数が決まっていないんだ。だから、花占いには いちばんいいの」 花占い? 花に教えてもらおうというのは、そういうことだったのか。 俺は正直、気が抜けた。 悪魔を呼び出して悪魔に訊いてみようと言われた方が、実現可能かどうかということを考えなければ、はるかに信憑性がある。 瞬は、俺の脱力には まるで気付いていないようで、 「これがいい。ごめんね、1本ちょうだい」 花の群れに話しかけて、中から1本のマーガレットを摘んで、俺の前に その花を指し示した。 「ほら、占うよ。ちゃんと見ててね」 「瞬……」 馬鹿らしいから やめろと、言おうとしたんだ、俺は。 花占いなんかで本当のことがわかるわけがないと。 だが、瞬は占いを始めてしまって――。 「氷河のマーマは、氷河のことを好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い――」 俺は、やめさせようとした。 花占いなんて馬鹿らしい。 馬鹿らしいのに、もし『嫌い』で終わってしまったら、俺はその占い結果を信じてしまうだろう。 やめろと叫ぼうとしたんだ、俺は。 だが、俺は そうすることができなかった。 白く細い指で 花びらを1枚ずつ摘まむ瞬の目が あまりに真剣で――気休めのためにしているようにも ふざけているようにも見えなかったから。 瞬の真剣さに呑まれ、瞬と共に息を止めて待つ最後の花びら。 それが、 「好き」 で終わった時。 本当に馬鹿だと 自分でも思ったが、俺の目からは涙が迸り出ていた。 「氷河、泣かないで。ほら、氷河のマーマは 氷河のこと好きだって。氷河のマーマは、氷河のことが大好きなんだよ」 泣き顔を見られたくなくて顔を俯かせたのに、瞬が 俺の顔を見上げ覗き込んでくる。 人を疑うことをしない澄んだ瞳。 高価な宝石のような その瞳が温かく感じられるのは、瞬の瞳が いつも誰かを――人を映しているからなんだと、その時 俺は初めて気付いた。 瞬の瞳には、瞬の花占いで救われた馬鹿なガキの姿が映っていた。 「お花はね、嘘をつかないの。絶対に嘘をつかないんだ。嘘をついたら、綺麗でいられなくなるから。氷河のマーマは、氷河のこと、ほんとにほんとに大好きだったんだよ」 決して嘘をつかない花。 嘘をつくと綺麗でいられなくなる花。 瞬が――誰よりも綺麗な花が そう言うから、俺は花の言葉を信じたんだ。 |