エリーゼのために






「あれ、珍しい」
瞬が そう呟いたのは、聞こえてきた曲が“エリーゼのために”だったからだった。
楽聖 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、もはやクラシックというよりポピュラーと言った方がいいほどポピュラーな曲。
どれくらいポピュラーかというと、『クラシックなど煮ても焼いても食えない詰まらないもの』という認識の星矢が、
「あれ、“エリーゼのために”じゃん」
と、即座に曲名を口にできるほど。

城戸邸の音楽室の防音設備は、もちろん完璧。
今 アテナの聖闘士たちがいるラウンジにまでピアノの音が聞こえてきたのは、沙織が音楽室の窓を開けて演奏しているからだったろう。
8分の3拍子の美しい旋律は 陽光が跳ねるように軽快なリズムで、優しく弾けば優しい印象を持たせることもできる曲なのだが、今日は沙織は 妙に力んで その曲を弾いているようだった。

「どう聞いても、リストの超絶技巧曲を弾きこなせない怒りを紛らすために弾いているようとしか思えないな」
氷河の辛辣なコメントに、瞬は どう対応すべきかを迷ってしまったのである。
ショパンやドビュッシーを得意分野にしている沙織が、昨日 リストの超絶技巧練習曲“マゼッパ”に苦戦していたことは、瞬も知っていた。
だからといって、ここで氷河に同調して笑うのは 沙織に失礼であるし、かといって 氷河の推察を事実だろうと思うだけに、彼を たしなめることもしにくいのだ。
自分のとるべき態度に迷った瞬が、その答えを出さずに済んだのは、星矢が、
「そーいや、“エリーゼのために”のエリーゼって、誰なんだ?」
という素朴な疑問を提示してくれたからだった。
もっとも、星矢の疑問の答えは、瞬も知らなかったのであるが。

幸い、アテナの聖闘士たちの中には、役に立つことから 役に立たないことまで、広い分野の雑学を頭の中に収納している龍座の聖闘士がいた。
彼が、その知識を仲間たちに披露してくれる。
「エリーゼの正体については、今のところ、有力な説が二つあるな。“エリーゼのために”は、1810年、ベートーヴェンが40歳の時に作られた曲なんだが、ベートーヴェンは、その自筆譜に『エリーゼのために、4月27日、思い出に』と記している。その年は、ベートーヴェンがブルンスヴィック伯爵令嬢テレーゼ・マルファッティとの恋に破れた年だ。悪筆のベートーヴェンが『テレーゼのために』と書いた文字が“エリーゼのために”と誤読されたのではないかというのが、第一の説。第二の説は、愛称がエリーゼだったドイツ出身のソプラノ歌手エリザベート・レッケルが、エリーゼの正体だとする説。彼女は、ベートーヴェンの臨終時、彼から遺品を受け取るほど、ベートーヴェンとは 長く深い親交を結んだ女性だ。もちろん、ベートーヴェンとは別の男と結婚しているが」

「テレーゼとエリザベート、どっちなのかは わかんないのかよ? その頃、ベートーヴェンの本命はどっちだったんだ?」
芸術作品を生み出すなどという面倒な行為は、好きな人のためでなければできないものと、星矢は決めつけているらしい。
星矢に問われた紫龍は、軽く肩をすくめた。

「なにしろ恋多き男だからな。比較的 明るく軽快な曲だから、失恋した相手に捧げた曲とは考えにくいが、『思い出のために』というメッセージは、親交が続いている人物に捧げるメッセージとしては少々 不自然だ。ベートーヴェンの研究家たちも 結論には至れずにいるようだな」
「“エリーゼのために”って、なんていうか こう、晴れた日の午後に光が跳ねているみたいな明るい感じがする曲だよね。でも、ちょっと嵐を感じさせるような情熱的な旋律もあって――」
「ベートーヴェンは、案外 テレーゼでもエリザベートでもなく、心に思い描く理想の女性のために作ったのかもしれないぞ。基本的に明るく快活、時に嵐のように情熱的。まあ、理想の恋人と言っていいんじゃないか。恋多き男は、夢見がちな男でもあったのかもしれない」
「紫龍は、そういうのが理想なの? 時に嵐のように情熱的なところのある人が?」

瞬に、からかうようにではなく、至って真面目な顔で問われたことに、紫龍は少しばかり戸惑ったようだった。
長く付き合った仲間でなければ気付けないほど微かに、そして、ごく短い時間、彼は慌てた様子を見せた。
「一般論だ。いや、芸術家に対する一般的見解というべきか。ベートーヴェンは偉大な芸術家だ。彼には、彼の芸術にインスピレーションを与えてくれる芸術の女神(ムーサ)が必要だったろう。貞淑で大人しいだけの女性では、物足りなかったのではないか」
「物足りない?」
「平和で穏やかな生活も悪くはないが、毎日が それでは詰まらないだろう。刺激のある毎日の方が、生きているのも楽しい。そう考える人間は多いと思うぞ」
「……そういうものかな」

紫龍の意見に全面的に賛同しているようには見えない瞬の顔を、星矢が横目で窺い見る。
彼が、
「ま、氷河みたいに年がら年中、落ち着きのない台風みたいなのも傍迷惑だけどな」
と言ったのは、瞬が刺激のありすぎる毎日に辟易している可能性を探るためだったろう。
そして、紫龍が、
「だが、おかげで 瞬は退屈だけはしていないだろう。毎日が楽しいんじゃないか? 瞬は 時々、考えても詮無いことを思い悩む性癖があるからな。毎日が慌ただしい方が、余計なことを考えずに済むだろう」
と言ったのは、刺激のありすぎる毎日にも 良い点はあることを瞬に知らせるため。
そんな仲間たちに、
「え……? あ、うん、そうだね……」
と、少々 曖昧にではあったが、それでも瞬が頷いたのは、もちろん その場に氷河がいたからだった。
“落ち着きのない台風みたいな”と評される当人の前で、『傍迷惑だ』『楽しくない』とは言えないし、実際 瞬は氷河と共に過ごす毎日が楽しかったのだ。

瞬の返事が歯切れの悪いものになったのは、だが、彼の恋人が“穏やか”とは言い難い性質の持ち主だからではなかった。
「氷河も、そういう人がいいの? 穏やかな人より、情熱的な人の方が?」
「ん? まあ、そういうところもあった方が退屈しないんじゃないか? 感情を完璧に制御し、その心を他人に隠し通す人間よりは、表に出してくれた方が わかりやすくて安心できる。それが恋人なら、愛されているという実感も得やすいだろう」
「そう……」
クールな聖闘士を目指しながら、その実 感情を制御する行為になど全く縁のない氷河。
自分を否定しないために、彼は そう答えないわけにはいかなかったのだろう。
氷河の苦しい立場を察して、星矢と紫龍は、氷河に気取られぬよう 胸中で苦笑することになった。

「その点、沙織さんのピアノは 実にわかりやすい。今日は彼女に近付くのは危険だと、俺たちに教えてくれる」
氷河が沙織のピアノ演奏に言及したのは、おそらく、白鳥座の聖闘士の問題を 女神アテナの問題に すり替えるため。
氷河はアテナ(の演奏)に対しても、歯に衣着せなかった。

「そうだね。沙織さんは、基本的には落ち着いていて優しいけど、情熱的で激しいところもあるよね」
瞬が、氷河の言葉に同意し 首肯する。
瞬は決して歯に衣を着せているわけではないのだが、今日の沙織を危険物と断じる氷河への同意が、むしろ沙織への褒め言葉になっているところが、瞬の瞬たる ゆえん。
瞬の言動は、嵐を静める方向に向かうのが常だった。
そして、氷河は、そんな瞬とは対照的に、常に嵐を起こす方向へと突き進んでいく。
「まあ、何にしても、これでは防音設備の存在意義がないな。沙織さんに、窓を閉めるよう言ってくる」

「氷河、おまえ、なに言ってんだ?」
たった今、今日の沙織に使付くのは危険だと言ったのは誰だったのか。
それが危険な行為だということがわかっていながら、自分から嵐の中に飛び込んでいくような氷河の振舞いに、星矢は呆れてしまわないわけにはいかなかった。
というより、星矢は、氷河の思考と言動の関連(むしろ矛盾)が、まるで理解できなかったのである。
理解したいとも思わなかったが。






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