常人の理解の範疇を超えているとしか言いようのない思考回路を持つ氷河は、本当に、沙織に窓を閉めるよう忠告するためにラウンジを出ていってしまった。
氷河の姿の消えたラウンジで ぽかんとしていた星矢は、やがて気を取り直し、そして、瞬の表情が妙に暗く沈んでいることに気付いたのである。

「瞬。おまえ、なに しょんぼりしてんだ? まあ、氷河のすることが理解できなくて疲れる気持ちは わかるけどさ。ほんと、嵐を呼ぶ男だよな、氷河の奴は」
だが、瞬は そんな男に愛想を尽かすことなく付き合い続けることができるほど、強靭な精神力を備えた人間のはずである。
でなければ、氷河と 理無(わりな)い仲になど なれるはずがないのだ。
それとも、瞬の精神の強靭さにも限界はあったのだろうか。
少し心配顔で尋ねた星矢に、瞬が首を左右に振り、力ない笑みを返してくる。

「あ、ううん……。そんなんじゃないんだ。ただ、僕、氷河に 詰まらない子だと思われてるのかなぁ……って」
「へっ」
いったい瞬は急に何を言いだしたのか。
すぐには合点がいかず、星矢はきょとんと 瞳を見開いた。
「そ……そりゃまあ、おまえは 人と争うのが嫌いで、基本的に大人しくて、情熱的ってのとは違うかもしれないけど……。歯に衣着せるってことができずに 言いたいことを言いまくって、敵を作ってばかりの氷河の おもりをさせられてるようなもんだけど……」
だが、それは、いつのまにか 自然にそうなっている、いわゆる役割分担というものである。
大きな勢力の台風が温帯低気圧に変わるには、気団の存在が不可欠。
熱帯低気圧に変わるには、時間の経過が必要。
瞬は、氷河という台風を大人しくさせるための気団、もしくは時間なのだ。

「いいじゃん。氷河は自覚してないみたいだけど、あいつみたいに、まるで周囲を見ないで毎日騒がしいのって、周りにいる奴等は滅茶苦茶 疲れるだろ。おまえがいなかったら、俺や紫龍は過労で死んでるぜ」
自覚がないのは、星矢も氷河とさほど変わらない。
二人の仲間の やりとりを脇で聞いていた紫龍は、まるで 自分は騒ぎを引き起こして仲間を疲れさせたことはないと言わんばかりの星矢の発言のせいで、多大な 疲労感を覚えることになった。
これ以上、疲労を募らせたくないと考えた紫龍が、星矢には何も言わず、瞬の方に向き直り、告げる。
「おまえは いつも周囲の人間の心を気遣うから、奔放になれないだけだろう。詰まらないということはない。おまえがついていないと、氷河は――破滅するか、それに近い状態になるぞ。奴は、とにかく後先を考えない男だからな」
「でも……奔放で情熱的じゃないと、愛されてるって思えないんでしょう? 物足りないって感じるって――」

瞬は、氷河が自分を正当化するために告げた言葉を自分に当てはめて、その齟齬に懸念を抱くことになってしまったらしい。
だが、それは瞬が案じるようなことではなく――ましてや、瞬が落ち込むようなことではなく、どちらかが是、どちらかが非と決められるようなことではないのだ。
それは、単なる個性の問題である。
「一瞬 激しく燃え上がる炎のような恋をする人間もいれば、大地を覆う融けない氷河のように長く静かに愛する者もいるだろう。どちらがいいとか悪いとかいうようなことはない」

そう告げてしまってから、紫龍は、氷河と瞬の名が体を(実体と実質を)表していないという皮肉な事実に気付いた。
瞬は 融けない氷河のように穏やかで、氷河は 瞬間的に燃え上がる炎のように激しい――のだ。
すぐに、星矢が、氷河は その分類に当てはまらないと指摘してきたが。
「短期決戦型と長期戦型、燃焼タイプと熟成タイプってとこか。あ、でも、氷河は、普通の人間が一瞬しか保てないような高いテンションを いつまでもキープし続ける奴だよな。年がら年中 興奮気味でさ。よく疲れないもんだって、呆れちまうぜ」
呆れたように言う星矢に、紫龍もまた呆れる。
普通の人間が一瞬しか保てない高いテンションを いつまでも維持し続けて疲れを知らない星矢が、どの口で そんなことを言うのか――言えるのか。
人間というものは、つくづく自分というものを知らない生き物である。

紫龍が その点を星矢に指摘しなかったのは、第一に、これ以上疲れないため。
第二に、では瞬は どれほど自分を知っているのかということに、彼の興味が移っていったためだった。
が、その時には 瞬の心は、自分の上から、恋多き男に名曲を作らせた女性の正体の方に向かい始めてしまっていた。
「エリーゼは誰だったのかな……。ベートーヴェンが あんなふうな曲を作って捧げた人は、どんなひとだったんだろう。炎のように情熱的に恋するひとか、融けない氷河のように静かに愛するひとか――」
「それは私も興味があるわね。瞬、確かめていらっしゃい。氷河と一緒に」
「え……」

ラウンジのドアの前に、いつのまにか沙織がやってきていた。
その後ろに、ひどく気まずそうな顔をした氷河が立っている。
氷河に知られてはならないこと、アテナを煩わせてはならないことを、二人に聞かれてしまったかと、瞬は慌てることになったのである。
だが、どうやらそうではなかったらしい。
彼等がラウンジにやってきたのは、たった今。
彼等が聞いたのは、エリーゼの正体は誰だったのかと呟いた瞬の言葉だけ。
沙織が興味を抱いているのは、あくまでも エリーゼは誰なのかということで、『その正体を探ってこい』という命令の目的は、氷河への意趣返しであるようだった。

「ベートーヴェンが“エリーゼのために”を作曲した頃のウィーンに行けるよう、クロノスに話をつけてあげるわ」
「なぜ俺たちが そんなことをしなければならないんだ。エリーゼの正体が わからないと世界が崩壊するとでもいうのならともかく、そんなことは――」
「音楽界の有名な謎の答えを私たちだけが知っているというのもいいじゃない。私の演奏をヒステリックと評するほどの耳を持つ あなたなら、芸術家の心を探り当てることも容易でしょう」
「う……」
どうやら氷河は、沙織の前で口を滑らせ、言ってはならないことを言ってしまったらしい。
“嵐を呼ぶ男”の面目躍如。
瞬は、思い切り その とばっちりを受けることになってしまったのだった。


身から出たサビ、自業自得にもかかわらず、アテナの命令に従う気はないと言い張っていた氷河が、結局 音楽界の謎の解明に挑むことになったのは、エリーゼの正体を知りたいと、瞬が訴えてきたから。
『氷河がついてきてくれないなら、一人でも行く』と言い出した瞬に 抗しきれなかったからだった。






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