そういうわけで、氷河と瞬が送り込まれた 1810年 春のウィーン。
場所は、ベートーヴェンの交響曲第1番の初演会場として有名なブルク劇場の真正面だった。
晴れた午後の空。
気温は暑くもなく、寒くもなく。
劇場の前の通りを行き交っているのは、もちろん 自動車ではなく馬車である。

1810年現在、オーストリア帝国の皇帝は、ハプスブルク家のフランツ1世。
ヨーロッパは、ナポレオン戦争の嵐のただ中にあった。
同年4月1日、皇帝の娘マリア・ルイーザが人質にとられるも同然の形で ナポレオンの許に嫁ぎ、ハプスブルク家が、アウステルリッツの戦いでの敗北以上の屈辱にまみれていた頃。
ナポレオンを賛美するために作曲した交響曲第三番完成直後、終身統領だったナポレオンが 世襲のフランス皇帝位に就いたという報を受け 激怒したベートーヴェンが、曲につけていたナポレオンへの賛辞を破り捨てたエピソードは有名である。
通りを行き交う人や馬車が帝国の首都にしては少ないのは、今がオーストリア帝国の屈辱の時代だからなのかもしれなかった。

「大丈夫かな。僕、ドイツ語、わからないわけじゃないけど、得手でもないのに」
「喋れても――ベートーヴェンは どうせ難聴なんだし」
「そうか……そうだったね……。それでもたくさんの名曲傑作を作って――モーツァルトみたいに天才だったっていう話は聞かないから、ベートーヴェンって とっても努力家で、とっても音楽を愛していたんだね」
「ベートーヴェンは、女に振られまくりだったんだろう? その鬱憤を創作意欲に変換させていたんじゃないか」
音楽史に――否、歴史に名を残す楽聖ベートーヴェンに対しても、氷河の口の悪さは変わらない。
どれほどの大物が相手なら、氷河は畏れ入ってみせるのか。
相手が不世出の英雄ナポレオンであっても 平気で毒づいてみせそうな氷河に、瞬は嘆息を禁じ得なかった。

「でも、ベートーヴェンって、どこに行けば会えるのかな。この劇場で演奏会の予定でも聞いてみる?」
「そんなものがわかっても、俺たちはこの劇場に入れないだろう。この時代の金を持っていないんだから」
「そ……そっか……」
劇場の入場料どころか。
この時代の貨幣を持っていないということは、空腹になっても食べ物を手に入れることさえできないということである。
さっさと仕事を終えて現代に帰らなければ、飢えて死ぬしかないということ。
自分たちが どういう状況に置かれているのかを 初めてまともに自覚して、瞬は真っ青になった。
「や……やっぱり、自宅を訪問するのが いちばん確実かな」
「そうは言っても、ベートーヴェンは とんでもない引っ越し魔だったそうだからな。ウィーン在住の30年間に70回以上 引っ越しをしたらしい。奴が今 どこにいるのかを突きとめるのは、かなり骨の折れる仕事だぞ」

あまり楽しくない情報を提供され、瞬が ますます不安を募らせた時。
まるで建物に車が突っ込んだような大きな音が辺りに響き渡り、何が起こったのかと顔をあげた瞬の前に、長さが2メートル近くある長方形の箱が転がってきた。
20メートルほど先で、馬車が一台、実に珍妙な動きで停車(というのだろうか)しようとしている。
2頭立て4輪の、人だけでなく荷物も運べるタイプの比較的大型の馬車――いわゆるキャリッジ。
いななく馬を黙らせようとして、その馬車の御者らしき男が、馬より大きな声を辺りに撒き散らしていた。
瞬の前に転がってきた鉛製の長櫃は、その馬車の落し物だったらしい。
どうしたものかと、氷河と瞬が その場に棒立ちになっていると、馬や御者の声も耳に入っていない様子の男が一人、馬車から飛び降りて、途轍もない勢いで二人の方に駆けてきた。
そして、獲物に飛びかかるライオンのように 落し物の長櫃に取りついて、櫃の具合いを確認し始める。

馬車の立派さには不釣り合いな服装の その中年の男性を、瞬は最初は下男の類かと思ったのである。
見事に ぼさぼさの、それこそライオンの鬣のような髪。
白いシャツに、少々 着古したもののように見える黒い上着。
遅れて駆けてきた御者が、石畳の道の上に転がっている長櫃を見て、
「旦那様、どうしましょう。人を呼んできましょうか」
と尋常でない大声で叫ばなければ、瞬は彼が使用人ではないことに気付けなかっただろう。
「なにしろ重くて、人足たちも馬車の荷台に載せるのに苦労していましたから、載せられたことに安心して、ちゃんと固定しなかったんですな」
長櫃は相当 重いものらしく、御者は自分の手で馬車に載せることを最初から諦めているようだった。

「蓋が開かなくてよかった。馬車と櫃は 私が見ているから、おまえは人足を呼んで来い」
使用人ではないらしい男が、御者に命じる。
瞬は、少し たどたどしいドイツ語で、彼を引き止めた。
「僕たちがお手伝いしますよ。あの馬車の荷台に載せればいいんですか?」
「ご親切は有難いが、それは無理――」
「氷河、そっちの方、持ってくれる?」
「一人で十分だ」
長櫃に掛かっていた瞬の手を外させて、氷河が軽々と落し物を持ち上げる。
棺並みに大きい箱だったが、持つ場所さえ間違わなければ、それは 聖闘士には容易に運ぶことのできる荷物だった。
氷河がその落し物を馬車の荷台に載せる様を、使用人でない男と御者が ぽかんと見詰めている。

「なんだ? ここに載せるものではなかったのか?」
ぽかんとしている二人を振り返って、氷河が問うと、使用人ではない ぼさぼさ髪の男は、微妙に立ち位置を変えて、首を横に振ってみせた。
「あ、いや。ありがとう。これは力自慢の大男たちが三人掛かりで馬車に載せたものだ。よく持てたな。重かっただろう」
氷河の正面に回り込んで、使用人でない男が氷河に礼を言う。
白鳥座の聖闘士の顔を真正面から見ると、彼は二度感心したように、
「これはまた……」
と、短い息を洩らした。
顔をまじまじと見詰められることが不快だったらしい氷河が、仏頂面になる。

「さほど。だが、中に入っているのは衣類の類ではなさそうだったな」
「紙だよ。楽譜がぎっしりと入っている」
「楽譜?」
その単語に先に反応したのは瞬の方だった。
広い額。ライオンの鬣のように ぼさぼさの髪。
到底 身なりに気を遣っているとは思えない、40歳前後の男性。
なにより、他愛のない穏やかな(?)会話を交わしているというのに、たった今も人生や運命に挑んでいるような厳しい彼の目つき。
二人のアテナの聖闘士を、クロノスがこの場所に運んだわけが、瞬にはやっと わかったのである。

「失礼ですが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンさんですか?」
「ああ」
自分が有名人だということは自覚しているらしい。
楽聖ベートーヴェンは、見ず知らずの人間に名を呼ばれても、全く驚いた様子を見せなかった。
否、驚いた様子は見せた。
瞬を見て、
「素晴らしい目だ。澄み切って……何という瞳だ……!」
と。
そして、急に、それこそ獲物を見付けたライオンのように気負い込み、口調を変えて瞬と氷河に話しかけてくる。
「ぜひ、礼をさせてくれ。もし何か急ぎの用があるのなら、君たちを我が家の今夜の夕餐に招待したい」
そう告げてから、彼は、
「今日 引っ越しを済ませたばかりで、我が家と言えるほど親しんではいない屋敷だが」
と、言葉を継ぎ足してきた。

1810年、40歳の楽聖ベートーヴェン。
30歳になるまでは普通に聞こえていたのだから、喋る方は流暢なものだった。
しかし、彼の耳は既に ほとんど聞こえていないはずである。
「僕たちの声が聞こえているんですか? あの……お耳が不自由だと伺っています」
「その通りだが、ドイツ語か英語であれば、何を話しているのかは、唇を見ていれば 大体わかる」
彼は、対峙する者の唇の動きを読んでいるらしい。
先程から見せていた僅かに不自然な動きは、対峙する人間の顔を真正面から見るためだったのだ。
音楽家の耳が聞こえない。
それは、聖闘士が小宇宙を燃やせなくなるような惨酷である。
瞬は、偉大な音楽家の苦悩が刻み込まれたような眉間が切なかった。

「旅行者なので、急ぎの用などはありませんが」
「では、私の招待を受けてくれ」
「あ……でも……」
瞬にしてみれば、それは願ったり叶ったりの申し出なのだが、引っ越しを済ませたばかりの家に押しかけていくのは さすがに迷惑なのではないか。
ベートーヴェンは聴力を失った代わりに、唇だけでなく――言葉だけでなく――人の心を読む術も手にいれたのかもしれない。
瞬の中に楽聖の招待を受けたい気持ちがあることを見透かしたかのように、彼は 瞬のためらいの表情を無視した。

「私は耳には支障があるが、幸い 目はしっかりしている。おかげで、君たちが美しいことがわかる。引っ越し早々、これほど刺激的なムーサに出会えるとは、幸先がいい。今度の屋敷には長く落ち着けそうだ」
ベートーヴェンは かなりの偏屈で、激しい気性の持ち主と聞いていたが、それは喜怒哀楽 すべての感情において そうであるらしい――喜びも素直に表面に出すタイプの人間であるらしい。
彼は、ムーサに出会えたことを喜んで、瞬の前で満面の笑みを作ってみせた。
瞬が、少々戸惑うほど。
「ムーサって、芸術の女神でしょう。僕たちは――」
「そうだな。君たちは アポロンとカリオペーといったところか。男装は用心のためか? 見たことのない型の服だな」
「……」
音楽の世界に燦然と輝く金字塔を打ち立てた楽聖ベートーヴェンも、ご多分に漏れず、瞬を少女と誤解しているらしい。
途端に、瞬は、彼の招待を遠慮する気力を失った。

「音楽の神アポロンと 叙事詩を司る女神カリオペーは、吟遊詩人にして竪琴の名手オルフェウスを生んでいる。君たちのように、素晴らしい美男美女だったのだろうな」
「ベートーヴェンさんは、ご自身の恋からインスピレーションを得ているのだとばかり――噂ですが」
「その噂は完全な間違いではないが……。確かに恋は曲を生む一つの動機ではある。だが、それは別に自分の恋でなくてもいい。君たちほど美しい恋人たちを、私は見たことがない。私はご覧のように美男子とは程遠い男だ。それに今は私は 自分の恋からインスピレーションを得ることはできない状況にあるのでね。それで、引っ越しして心機一転を図ろうと考えていたわけだ」
楽聖は、たった今 出会ったばかりの見ず知らずの他人に、自身のプライベートを あけすけに語ってきた。
“エリーゼのために”が作曲された時、彼はテレーゼ・マルファッティとの恋に破れたばかりのはず。
そのせいなのかと尋ねることは さすがにできなかったが、彼は どうやら今、少々 創作意欲が落ちている時だったらしい。

「家具の類は既に引っ越し先の屋敷に運び込んである。楽譜だけは自分の手で運ばなければ不安だったんだ。屋敷に着いたら、馬車から下ろして、また邸内に運び入れなければならないし、ぜひアポロンの力を借りたい」
それは旅行者たちに遠慮をさせないための言葉、そして、氷河への(主に、その美貌への)称賛の言葉でもあったろう。
アテナに敵対する音楽の神に 例えられた氷河は 大いに機嫌を損ねているようだったが、彼は楽聖の招待を断ろうとはしなかった。
アテナの聖闘士たちが19世紀のウィーンにいる理由と、現時点で自分たちが一文無しだという現状を考慮すれば、楽聖の招待を断ることは得策ではない。
氷河は 分別を 不愉快に優先させて、瞬は エリーゼの正体を知りたい気持ちに負けて――ベートーヴェンの招待を受けることにしたのだった。






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