変人かつ偏屈として有名な男。
だが、ウィーンで最も敬愛されている音楽家。
ベートーヴェンには、モーツァルトとは違って困窮の話はない。
その 身なりの構わなさから察するに、そもそも彼には浪費癖がなかったのだろう。
もしかしたら、引っ越しが彼の生涯における唯一の贅沢だったのかもしれない。
彼の引っ越し先の屋敷も、城戸邸ほどではないが、かなり広い屋敷だった。
屋敷だけでなく 庭も広く、多くの木が植えられている。
ただし、花壇の類はなかった。
それがウィーン風、ハプスブルク風であるはずがないので、ベートーヴェンの新居の庭の佇まいは彼の好みなのに違いなかった。
馬車から見える庭の光景に、瞬は歓声をあげた。

「わあ、木漏れ日がとっても綺麗! 地面に宝石が散らばってるみたい」
「なるほど。これなら、どれだけ庭が広くても、庭師を雇う必要がないな」
「氷河……」
自分が感動したものに、身も蓋もないコメントを寄せられて、瞬が顔をしかめる。
そんな瞬の反応に、氷河もまた心外という顔を作った。
「褒めてるんだ。余計な出費が抑えられるのは結構なことだと」
氷河は、本気で、自分の発言が褒め言葉になっていると信じているらしい。
彼は彼の褒め言葉を、この屋敷の主人の前で、実に堂々と日本語ではなくドイツ語で言ってのけた。


偏屈で有名な大作曲家は、氷河の褒め言葉が気に入ったのか、あるいはアポロンとカリオペーに敬意を表してのことなのか、ベランダから庭を一望できる上等の広い部屋を客室として 瞬たちに提供してくれた。
エリーゼの正体が判明したら すぐにこの時代から退散するつもりでいた瞬は、長期滞在を念頭に置いているようなベートーヴェンの厚意に戸惑うことになったのである。
それ以前に、荷物らしい荷物もないのに、様々の家具付きの広い部屋を提供されても活用のしようがない。
「氷河。日が暮れる前に、庭を歩いてみない?」
楽聖の過剰な親切が息苦しいというわけでもなかったのだが、瞬は客室に案内されるなり、氷河を散歩に誘った。

この屋敷の以前の住人は どういう人物だったのか。
それなりの広さがあるにもかかわらず、見事に樹木しかない庭。
木々の間には、人の足で踏み固められてできた細い道が あちこちにあり、しかも要所要所にベンチが置かれている。
ベートーヴェンの引っ越し先の 以前の住人は、庭の散策と 休憩しながらの木々の観察を趣味にする人物だったのかもしれなかった。

「ベートーヴェンさん、恋を失ったばかりで、気を紛らせる相手がほしくて、それで 僕たちを招待してくれたのかな……」
それなら、見知らぬ旅行者に長期滞在を期待しているようなベートーヴェンの親切も納得できる。
そう瞬は考えたのだが、氷河の意見は違っていた。
「おまえが綺麗だからだろう」
「……」

『綺麗だ』『可愛い』という類の言葉を、瞬は言われ慣れていた。
そして、それは 瞬にとって決して嬉しい言葉ではなかった。
仮にも男子、仮にもアテナの聖闘士、どうせ褒められるなら もっと別の言葉がほしいと思う。
氷河に その手の言葉を言われても、瞬が不愉快にならないのは、氷河にとっては それは褒め言葉ではなく、単なる事実(彼にとっての事実)の陳述でしかないのだということがわかるからだった。
言われて嬉しいわけではないのだが、(氷河にとっては)事実の陳述にすぎないものに 腹を立てても仕方がない。
そして、この点がいちばんの問題なのであるが。
氷河にそういった言葉を囁かれることを、瞬は 嬉しいと感じるわけではないのだが、決して嬉しくないわけでもないのだ。
瞬の心は複雑だった。

「世界中の人から愛されている大作曲家なのに、失恋しちゃうんだ……」
「テレーゼは貴族の令嬢なんだろう? ベートーヴェンは、この時代に既に十分有名な作曲家だが、貴族ではない。身分違いの恋というわけだ」
こればかりは仕方がないというように 肩をすくめる氷河が、瞬には意外だった。
「で……でも、氷河なら、そんなことで諦めたりはしないよね?」
「おまえが貴族のお姫様で、俺が平民の貧乏学生か何かか? おまえがハプスブルク家の皇女だったとしても、俺は おまえを諦めない」
「せめて皇子様って言って」
わざと顔をしかめて文句をつけても、氷河のきっぱりした断言が嬉しい。
瞬のその気持ちがわかっているのか、氷河は 彼が口にした仮定文の不適切箇所の修正は行わなかった。

「俺はベートーヴェンと違って、恋多き男じゃないからな。人を好きになるのは面倒だ。覚悟が要る。おまえに振られたら、もう恋などしないと決めて、一生 落ち込んで過ごすことがわかっている。おまえだけ、おまえ一人だけだ。代わりの人間がいないんだ。執着もするさ」
「氷河……」
そう言われることが嬉しいわけではない。
人が そういう考え、そういう姿勢で生きることを 好ましいとも思わないし、正しいとも思わない。
決して嬉しいわけではないのだ。
だが、嬉しい。
本当に、瞬の心は複雑だった。
今は特に。

「きっと、僕、そんなふうなことを言えないから、詰まらないんだね……」
「詰まらない? 何のことだ」
「氷河にそんなふうに言ってもらえると、僕、嬉しいんだ。でも、僕は、氷河みたいに 氷河を喜ばせるようなことは言えないから――氷河、詰まらないでしょ」
「……」
瞬が何を言っているのかわからない。
氷河は そういう顔をした。
眉根を寄せ、微妙に唇を歪め――いつまでも そういう顔をしていた。
やがて、気を取り直したように(だが、まだ合点がいっていない顔で)瞬に尋ねてくる。

「おまえは、俺とのことが ご破算になったら、さっさと別の恋を探すのか?」
「え?」
よりにもよって今この時、なぜ氷河は そんなことを問うてくるのか――自分が 最も恐れていることを尋ねてくるのか。
そんなつもりはなかったのだが、瞬の瞳からは涙の雫が一粒二粒 零れ落ちた。
「例え話でも、そんなこと言わないで。ご破算なんて――そんなの、僕が氷河に嫌われた時か、僕か氷河のどちらかが死んだ時の話でしょう」
「それ以外のパターンはないのか?」
「他にどんなパターンがあるの」
「ん? それはまあ……いや、俺にも思いつかないが」
その二つのパターン以外に、二人の恋が失われる道が もしあったなら、憂いの種が更に増える。
氷河に嫌われるか、死別するか。
その二つ以外に 二人の恋が消滅する要因は考えられないと 氷河に言われ、瞬は安堵した。
問題が解決したわけでも 消滅したわけでもないので、完全に安堵することはできなかったが、ある程度 安心した。






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