楽聖ベートーヴェンには 人を驚かす趣味があるのだろうか。 ラブシーンをじっくり観察された直後に彼と顔を合わせるのが気恥ずかしく、夕方の祈りの鐘から30分近い時間をおいて戻ったベートーヴェンの新居。 正面の玄関から邸内に入った途端、瞬の耳に飛び込んできたのは、一つの聞き慣れた旋律。 光が跳ね歌っているような、“エリーゼのために”の演奏だった。 ピアノの音を辿り、その曲が生まれている部屋に、瞬は脱兎の勢いで駆け出したのである。 瞬が ベートーヴェンのいるピアノ室に辿り着いたのは、優しくきらめく光の会話のようなメロディの繰り返しのあと、情熱的な嵐が静まって、再び やわらかな光を感じさせつつ、曲の演奏が終わった、まさに その時だった。 瞬は、部屋の中に駆け込み、ベートーヴェンの正面にまわって、 「今の曲、“エリーゼのために”ですよね!」 と叫んだのである。 ベートーヴェンが一瞬呆けたのは、彼が瞬の質問の意味がわからなかったからというのではなく、瞬の勢いに驚いたからだったろう。 たった今 自分が弾いた曲に、これほど人を興奮させる要素があるとは、彼には考えられないことだったのかもしれない。 少なくとも、瞬の大声に驚いたからではない。 聴覚を失った彼は、その目で、瞬の声と言葉を見た(だけの)はずだったから。 「エリーゼ? もしかしたら、それが君の本名なのか? 今の即興曲がどうか?」 「即興曲?」 ベートーヴェンのその言葉に驚くことになったのは、今度は瞬の方だった。 “即興曲”。 では、名曲“エリーゼのために”は、たった今 生まれたばかりだということなのだろうか。 だとしたら、いったい この曲は誰のために 今 生み出されたのか。 たった今 生まれたばかりの曲だというベートーヴェンの発言が真実であることを示すように、譜面台に置かれた楽譜は、確かに まだ書きかけだった。 大きく瞳を見開いた瞬を見詰め、楽聖は大きく ゆっくりと頷いた。 「君たちは若く、そして実に美しい。君たちの話している言葉はわからないのだが、君たちが 決して崩れることのない信頼で結ばれ、深く愛し合っていることは、私にも わかる。今の曲は、君たちを見ていたら、急に楽想が湧いてきて――急いでピアノの前に走り、作ったのだ」 「僕たちを見ていたら?」 楽聖の言葉に、瞬は きょとんとした。 曲を耳にした時点で既に 自分に驚ける分を驚いてしまっていたので、突然与えられた謎の答えに、瞬は更に驚くことができなかったのである。 “君たち”。 それが“エリーゼ”の正体だというのか。 そんなことが あるだろうか。 否、あっていいのか。 背後に氷河の気配。 瞬は、少し遅れて その場にやってきた氷河を振り返る形で、彼の顔を見上げた。 「あんな重いものを軽々と持ち上げるし、君たちの身のこなしは どう見ても 普通の市民のそれではない。もしかしたらフランス軍の兵かスパイなのではないかと疑っていたのだが、冷静に考えてみれば、フランスの軍人が私に近付いてきたところで、何も得るものはない」 「ぼ……僕たちは そんなんじゃありません」 「わかっている」 まさか、ベートーヴェンに そんな疑いを抱かれていたとは。 瞬の困惑した表情を見やり、ベートーヴェンは自身の疑心に苦笑してみせた。 「スパイなのではないかという疑いは、すぐに捨てた。でなければ、今日 出会ったばかりの異邦人を自宅に招待したりはしない。そんな野暮な疑念を捨てて、次に私は 君たちを 2種類の美しい光でできた 理想的な恋人同士だと思った。明るく、美しく、互いの心を固く信じ合っている幸福な恋人同士、幸福な恋。私には わからない光の言葉でのやりとり。だが、そんな二人の間にも、時には小さな嵐が起こり、互いの愛情が その嵐を静める。――私も、君たちのような恋をしたかった」 「ベートーヴェン……さん……」 音楽の歴史を語る時 必ず言及される――彼の存在を無視して音楽を語ることは不可能なほど――偉大な作曲家に 憧憬と羨望の眼差しを向けられ、瞬は戸惑った。 自分が この高名で偉大な人物に 羨まれるような存在だと思うことは、瞬には困難すぎるほど困難な大事業だったから。 「私は、ひどく短気で、自分の意見を曲げることができない。それが いかんのだろうな。もちろん容姿や身分の問題もあるが、私の恋が続かず 実らない最大の問題は私の性格にある」 「あ……」 ベートーヴェンは恋多き男だが、その恋が結婚という形で結実することは ついになかった。 婚約に至った女性もいたし、同棲同然に暮らした女性もいた。 だが、彼の すべての恋は最後には破れ消えていった。 そして、彼は多くの名曲傑作を生んだのである。 もしかしたら、彼の恋がすべて実ることなく失われていったのは、彼が素晴らしい曲を生み出すために必要な成り行きだったのかもしれない。 恋が実らないこと、聴力を失ったこと、決して平穏を得ることのできない激しい気性。 すべては、彼の生み出す幾つもの曲のために あったことだったのかもしれない――。 そんな考えを抱くのは、だが、瞬が ベートーヴェンその人ではないから。 他人だから。 長い時を経ても その価値を失わず 一層輝きを増す彼の功績を知る未来の人間だからである。 傍で、すべてのことが過ぎ去ってからなら、人は何とでも勝手なことを言えるのだ。 反論は返ってこないのだから。 楽聖ベートーヴェンは、もしかしたら、多くの人に称賛される偉大な功績を残すことより、たった一つの素晴らしい恋が実ることを、何にも増して強く望んでいたのかもしれない。 聴力を失うことより、愛を失うことの方が つらかったのかもしれない。 乾いた心を潤し満たす愛に 我が身を浸すことのできない自分に 涙する夜もあったのかもしれない。 なかったと言い切ることはできないだろう。 彼が生んだ たくさんの作品たちは、その中に彼の愛と彼の心を宿しているからこそ、多くの人の胸を打ち、愛され続けているのだから。 だが――。 瞬が今 彼のためにできることは ただ、 「あなたを愛している人は たくさんいます。あなたの生んだ多くの曲も、たくさんの人に永遠に愛され続けます」 と、その事実を彼に知らせてやることだけだった。 「永遠に?」 楽聖に問い返された瞬が、慎重に、 「すべての人間が死に絶える、その時まで」 と言い直す。 だからというわけではないのだろうが、ベートーヴェンは 瞬の言葉を 軽々しい その場限りの慰撫の言葉ではないと――それ以上のものだと――思ってくれたようだった。 「その澄んだ瞳で訴えられると、本当にそうなるような気がしてくるな」 「そうなります」 ベートーヴェンの憧れ、切なる願いが込められた美しい曲。 「素敵な曲。少なくとも、僕は死ぬまで忘れません」 書きかけの楽譜を見やり、瞬は そう言った。 「そうか。気に入ってくれたか。君に気に入ってもらえたのなら、私は嬉しい」 短気で気難しい激情家が、生まれて初めて歌った歌を 母親に褒められた子供のような笑顔を作る。 そうして彼は、ピアノに向き直り、もう一度 その曲を奏で始めた。 きらめく光が会話を交わしているような旋律。 幸福な恋の情景。 時に嵐が起きることもあるが、やがて愛が勝利し、再び幸福の時が訪れる――。 その曲が終わった時、瞬たちはもう19世紀のウィーンにはいなかった。 おそらく、エリーゼの正体を突きとめるという目的が果たされたからではなく――1810年4月27日にウィーンで 彼等が果たさなければならなかった務めが終わったから。 楽聖ベートーヴェンに その曲を生ませるという務めを、二人は無事に果たし終えたのだ。 |