知恵と戦いの女神アテナではなく、グラード財団総帥 城戸沙織が、その日の夕刻 城戸邸に連れてきたのは、背広を着た二人の男性だった。 一人は、見たところ 40歳前後、どこか神経質な印象の強い、線の細い男性。 もう一人は、30代前半だろうか、その印象は陽性、そして積極的かつ精力的。 背丈は どちらも日本人の成人男性としては標準的なものなのだが、彼等が対峙する者に与える印象は実に対照的だった。 すなわち、陰と陽、重と軽、静と動、マイナーとメジャー。そんなふうに。 沙織が瞬に『必ず、一人で来て』と指示したのは、瞬の仲間に脇から余計な発言をさせないためだったろう。 つまり、星矢の茶々や まぜっかえし、氷河の皮肉や嫌味、紫龍の批評・批判を排除するために、沙織は瞬に そう命じたのだ。 沙織の指示に従い 同伴者なしで 沙織の執務室に赴いた瞬は、初対面の二人に、 「はじめまして」 と、極めて常識的で 当たり障りのない挨拶をした。 自分が なぜ沙織に呼ばれたのか、この二人の男性は いったい何者なのか――皆目見当がつかなかったので、瞬の胸中は疑問符だらけだったのだが、一応 礼儀として。 線の細い男性の方が、瞳を輝かせ、瞬を見詰めてくる。 自分を見る彼の眼差しが、大抵の初対面の男性とは どこか違うものを たたえていることに、瞬は すぐに気付いた。 彼の視線には、瞬に初めて会った大抵の男性が見せる驚きのようなものがない。 今 瞬の前に立つ男性は、憧憬と称賛の混じった、どこか すがるような眼差しを瞬に向けてきていた。 まるで、抵抗する術も知らず 理不尽な暴力にさらされている無力で善良な一般市民が、突然その場に現れた正義の味方に 自らの命と運命を託そうとしているような。 しかし、まさか沙織が彼に瞬をアテナの聖闘士だと知らせているはずはない。 奇異に思い 僅かに首をかしげた瞬に、彼等は名刺を差し出してきた。 線の細い男性の方は、『グラード・コスメティクス社 フレグランス事業部 研究開発室室長 芳賀 馨』。 もう一人は、『グラード・コスメティクス社 広報部 商品宣伝課課長 多来 広宣』。 どうやら彼等は、グラード財団のグループ企業に在籍する社員であるらしい。 いったい何のために そんな人たちがと、瞬は一層 戸惑いを大きくすることになったのである。 そんな瞬に、沙織が、彼等の名刺には記されていない情報を知らせてくる。 「こちらの芳賀室長は、10代の頃からフランスのS社で修行してきた調香師なの。フランスで『ル・ネ』の称号を得て、10年前に日本に帰国。現在は、グラード・コスメティクスで 香水の商品開発に携わっているわ。ちなみに、『ル・ネ』というのは、フランス語で『鼻』っていう意味。フランスにおける最高のパフューマーに与えられる称号よ」 その称号を持つ者は 世界中に 二、三百人しかいない――と、沙織は説明してくれた。 それらの追加情報を与えられても、瞬には、世界で最も鼻の利く その人物が 自分にどう関わりがあるのか、当然のことながら まるでわからなかったのであるが。 「ええ。彼の鼻の素晴らしさ、彼の作る香りの価値は、もちろん 私も承知しているわ。でも、グラード・コスメティクスが行っているのは、芸術活動ではなく経済活動だということも厳然たる事実。彼には気の毒なのだけれど、グラードコスメのフレグランス部門の成績は ここ数年 不振を極めていて、部門自体の廃止の検討に入ったところなのよ」 沙織の言葉に、芳賀氏の表情が曇る。 一度 唇を噛みしめてから、彼は瞬に訴えてきた。 「しかし、私は、我が社のフレグランス部門を なくしたくないのです。それでなくても、日本の化粧品会社はフレグランスに力を入れていない。香水を開発・販売している会社も ごく僅かです。ここでグラードコスメのフレグランス部門が廃止になってしまったら、日本の香りの研究開発そのものが衰退しかねない。いずれ日本で流通する香水は すべて海外ブランドの輸入品ばかりになってしまうでしょう」 10代の頃にフランスに渡り、世界でも ごく少数の選ばれた人間にしか与えられない称号を得、現在はグラード・コスメティクス社のフレグランス部門の開発研究に携わっているというのなら、芳賀氏は これまでの人生の大半を“香り”に捧げ、生きてきたのだろう。 そして、今 彼は、その職場と生き甲斐を失おうとしているのだ。 彼の苦衷、憂い、彼の必死の表情の訳は、瞬にもわからないではなかった。 だが、瞬は彼へのコメントに窮してしまったのである。 とても言葉にする気にはなれなかったが、本音を言えば、瞬は――多くの日本人がそうであるように、瞬も――香水に興味を持ったことは これまで ただの一度もなかったのだ。 そんな瞬の困惑を知ってか知らずか、芳賀氏は懸命に瞬に訴え続ける。 「欧米人と違って、日本人は もともと体臭が薄い。香りで体臭を操作する必要性も希薄です。食事等、色々な場面で、マナーとして 香水が受け入れられないのも事実だ。日本では、無臭こそが最高の香りとされているのです。しかし、日本には日本の香りがある。日本人の好む香り、日本人に似合う香り、日本ならではの香りがあるのです……!」 「それは……そうでしょうね」 今の彼に、他に何が言えるというのか。 彼の迫力に押されて、瞬は彼に恐る恐る頷いた。 他にできることを思いつけなかったから。 「香水というものは、沈んだ人の心を浮き立たせ、言葉や行動では伝えられないものを伝え、衣料や化粧品同様、自分を演出するもの。慰撫であり、優しさであり、自己主張・自己実現の術であり、何より それは人生への愛そのものなのです!」 彼は、自分の仕事に意味と価値があると信じ、そのための努力もしている。 その努力と情熱が報われないのは、本当に気の毒である。 だが、だからといって、自分に何ができるのか。 彼は 自分に――彼は知らされていないにしても、一介の(?)聖闘士でしかない自分に――何を求めているのか。 瞬の困惑は大きくなるばかりだった。 救いを求めるように、視線を沙織の方に巡らせた瞬への沙織からの無言の指示は、『とにかく、彼の話を聞いてやって』。 だから――瞬は短く吐息して、再び芳賀氏に向き直ったのである。 「私は、日本の香りの発展の道を閉ざさないでくれと、総帥に直訴しました。総帥の返答は――」 「私の答えは、『結果を出してくれたらOK』よ。他に答えようがないでしょう。ちなみに、この場合の結果というのは、優れた香水を生み出すことではなく、その価値を より多くの人間に知らしめること――つまり、グラードコスメのフレグランス部門の売上をあげること」 「あの……それが僕にどういう――」 どういう関係があるというのか。 瞬はついに尋ね返してしまっていた。 いかにも部外者、第三者の顔と声で。 そんな瞬の質問を受けて、芳賀氏のスピーチが いよいよ熱を帯びる。 「私は、総帥に最後のチャンスをいただきました。私は新しい香りを作った。作品には自信があります。親しみやすいのに特別な香り、大衆的なのに特異で差別化された香り――。これまで私は、言ってみれば、世界で最も優れた女性――女王のための香水を作ろうとしていた。それが優れた香水を作ることだと思っていた。ですが、事ここに至って、私は その考えを改めました。世界に ただ一人の最高の女王のためではなく、どこにでもいるような、だが生涯ただ一人のひと――初恋のひとのための香水。美しく、懐かしく、いつまでも輝きを失わないひとをイメージした香りを作ることしたのです。そして、会心の作ができた。これほどのものが私に作れるとは、私自身も思っていなかった。自信作なんです」 「それは――」 『おめでとうございます』と言っていいものかどうか。 彼は彼の分野で満足できる仕事を成し遂げた――彼にできる範囲内で、彼にできることを やり遂げた。 だが、おそらく それだけでは彼の望みは叶えられないのだ。 彼の会心の作品が多くの消費者に受け入れられなければ――要するに、売れなければ。 となれば、今はまだ、『おめでとう』には早すぎる段階。 瞬は、直前で思い直し、口にしかけた言葉を喉の奥に押し戻した。 そのタイミングで、芳賀氏の演説が、グラード・コスメティクス社 広報部 商品宣伝課課長 多来氏に引き継がれる。 「商品が素晴らしければ、黙っていても売れるというものではありません。その商品を多くの人に買ってもらうためには、宣伝が必要になる。瞬さん。我々は、あなたに、彼の開発した新ブランド製品のイメージキャラクターを務めていただきたいのです」 「は?」 自分が何を言われたのか、瞬は すぐには理解できなかった。 というより、理解することを理性が拒否した。 できることなら、そのまま永遠に理解できないままでいたかったのである、瞬は。 だが、瞬の理性は 極めて健やかで性能がよく――まもなく瞬は 自分が彼等に何を求められているのかを明瞭明確に理解することになったのだった。 「私は、数ヶ月前、総帥と ご一緒に藤見の会に出席された あなたを拝見しました。その 可憐な佇まい、清楚な表情、控えめな所作――。あなたは 女王然とした総帥の側に 目立たぬよう ひっそりと控えていらした。にもかかわらず、あなたは 素晴らしく鮮やかで印象的だった。私は その様子に深い感銘を受けたのです。私は それまで、総帥のような人にふさわしい香りを作ろうとしていた。実際に そういう香りを作っていた。だが、そんな香水が売れるはずがない。女王のごとき存在は、この世界に ごく少数しかいないのですから」 “女王”ほどではないにしろ、この世界に ごく少数しかいない『ル・ネ』の称号の持ち主が、しみじみと語り始める。 「もちろん、あなたは総帥とは違う意味で、稀有な存在です。あなたも、この世界にただ一人の人だ。だが、何と言えばいいのか――総帥が おいでになる場所は 世界にたった一つだけの玉座。豪華な宮殿の奥にある輝かしい玉座です。しかし、あなたは違う。あなたの玉座は、すべての人間の心の中にある。私は、それを すべての人間の初恋のひとというイメージで捉えたのです。すべての人が持っている、すべての人にとって唯一無二の存在。そのイメージで、私は新しい香りを作った。ですから、瞬さん、あなたのお力をお借りしたいのです。あなた以外の誰かでは駄目だ。駄目なのです」 「それは本当に光栄なことだと思いますが、僕、そういうことは……」 「我々を助けると思って、お願いします! 今回の新ブランドの発売には、日本の香りの命運と、私の――私の人生がかかっているのです!」 「あ……」 困っている人は助けたい。 もちろん瞬は、彼の力になりたかった。――なれるものなら。 自分より はるかに年上の男性に思い詰めた目で懇願され、瞬の心は大きく揺れた。 力になりたいのである。 だが、人には、できることと できないことがある。 『僕には無理です』 言えるものなら、瞬はそう言っていただろう。 だが、今は それは 言えない言葉だったので――瞬は別の言葉を口にした。 「その……新ブランドの香水って、ユニセックスのものなんですか」 『メンズ製品なのか』と訊けない自分が悲しい。 しかし、瞬は そう訊くことはできなかった。 悲しいほどに――瞬は 自分の身の程を知っていたので。 自分の姿が、人の目に どう映っているのかを知っていたから。 「今回 発売する商品は、香水ではなくオーデコロンです。『乙女の祈り』というシリーズ名を考えています。キャッチコピーは『眠っていた乙女心が目を覚ます』。芳賀室長から作品コンセプトを聞いて、とにかく 若い女性に香りの意義と効能に気付いてもらいたい、目覚めてもらいたいという願いを込めて決定しました。『無垢』『夢』『憧れ』と3種類のラインナップを用意してあります」 「普通、オーデコロンの香りの持続時間は長くて2時間程度なんです。オードトワレ――いわゆる香水でも3時間程度。『乙女の祈り』は、香り自体の出来も秀逸と自負していますが、それだけではなく、非常に微かな香りが10時間以上 持続する新技術を用いて作った画期的なものなんです」 多来氏と芳賀氏の波状攻撃に、それでなくても言いたいことを言えずにいる状態の瞬が たじろぐ。 芳賀氏は、到底 言葉では新製品のよさを伝えきれないと考えたのか、持参のトランクの中から3つの箱を取り出した。 その箱から出したものを、沙織の執務用デスクの上に並べる。 「これが、『乙女の祈り』シリーズになります。右から、『乙女の祈り・無垢』、『乙女の祈り・夢』、『乙女の祈り・憧れ』――よろしければ、香りを お確かめください」 「持参のものは50CCのミニボトルになりますが、これとは別に200CCのものも売り出す予定です。それぞれの花言葉から、『乙女の祈り・無垢』は百合、『乙女の祈り・夢』はブバルディア、『乙女の祈り・憧れ』はフリージアを瓶の意匠に採用しました。発売前アンケート調査では、特に10代20代の女性に好評で、若い女性に香りの意義を知ってもらい 香水市場の土壌を培うという目的を必ず果たすことができると信じております」 芳賀氏と多来氏は、これから彼等が世間に その価値を問おうとしている製品に絶大な自信を抱いているようだった。 それはいい。 それはいいのである。 販売する側が 製品の価値を疑っていたとしたら、それは購入者を侮っているも同然。 二人の姿勢は大いに評価できる。 だが瞬は、本音を言えば、『乙女の祈り』というブランド名を聞いただけで もう泣きたくなっていた。 |