「イメージキャラクターって、何をすればいいんです。僕に務まるとは、到底――」
そんな無謀な企画は、何が何でも諦めてもらわなければならない。
問題は、務まるかどうかではなく、務まってはならないということなのだ。
瞬にも、一人の男子としての面目、体面というものがあるのである。
遠慮・尻込みという婉曲的な形で逃げを打とうとした瞬の行く手は、だが、多来氏によって素早く ふさがれてしまった。

「まず、テレビで流すコマーシャル・フィルムの撮影。これは編集して、ネットでも使わせていただきます。雑誌掲載用の写真と、店頭に置くリーフレット用の写真、それから駅貼りのポスター。購入者特典として、コロンの活用法を解説したDVDをつける予定ですので、そのパッケージ写真。特典DVDにはCFの特別バージョン版も入れようかと思っています。それと、PC用のスクリーンセーバー、壁紙に使用できるショットを数枚――」
「あ……」
瞬には、戦う力も小宇宙を燃やす術も持たない善良な一般人の方が、強大な力を備えた邪神より、はるかに恐ろしい脅威だった。
アテナの聖闘士は、なにしろ、彼等と戦い、彼等を倒すわけにはいかないのだ。
こうなると、頼れるのはグラード財団総帥の権威権力だけである。
瞬は、自身の執務デスクの椅子に腰をおろし、自身の意見は口にせず、事の成り行きを見守っている沙織に すがらざるを得なくなった。

「沙織さん。ど……どうでしょう。乙女の祈りなら、シャカに頼むというのは」
「いやだ、瞬。本気で そんなことを言っているのなら、あなたの感性って、あまりマトモではないわよ。どう見たって、シャカは乙女っていうイメージじゃないでしょう」
「それでいったら、僕は乙女じゃありません! 『乙女の祈り』なんて……女の子の恰好をさせられるのなら、僕は絶対に嫌です!」
沙織になら、婉曲的にではなく はっきり 嫌だと言うことができる。
芳賀氏と多来氏の両名に正面から直接ではなくても、拒絶の意を示せたことに、瞬は 微かな安堵の息を洩らした。
だが、多来氏と芳賀氏は、アテナの聖闘士並みに 諦めの悪い人物だったのである。

「我々が欲しているのは、あなたの その澄んだ瞳、可憐な面立ち、清らかな印象です。リボンやレースで飾り立てた衣装を着けてもらう気はありません。飾り気のない純白のチュニック一枚で十分、むしろ そうでなければならない」
「作った香りのイメージが あなたに重なったのではなく、あなたのイメージで作った香りなのです。私は、あなたを香りで表わそうとしたのだ。そして、私は新しい香りのあり方に開眼した。あなたの協力が得られないなら、私は この作品を世に出すつもりはありません――出すことができない」
「そ……そんな……」
悪意も害意もないからこそ、善良な一般人の攻撃は悪質である。
瞬は、彼等に対して拳を放つことはできない。
小宇宙を燃やすこともできない。
抵抗の術を持つことのできない瞬は、手足をもがれた人形同然だった。

そんな瞬の前に、今度は多来氏が彼のブリーフケースから一枚の書類を取り出す。
「契約書を用意させていただきました。1年間 弊社専属、他社のコスメ分野には関わらないでいただきたい。なにしろ、廃止検討部門のことですので、広告宣伝費は あまり取れず、契約金は、少なくて申し訳ないですが 200万しか提示できません。現状では これが精一杯です。その代わり、年間の売上が 対予算比で5パーセントを超えるごとに100万ずつ追加で支払いをさせていだきます。対予算105パーセント超で100万、110パーセント超で200万、150パーセント超で1000万、200パーセント超で2000万、2000万を上限とするレベニュー・シェアになります」
提示された契約金が高いのか安いのか、あるいは標準的な額なのかということすら、瞬にはわからない。
契約する気はないのだから わかる必要もなかったのだが、瞬が契約内容を理解していないことを察した沙織が その契約の妥当性を瞬に説明してくれた。

「タレントでもない無名の一般人が相手の契約であっても、1年間の専属契約を結ぼうというのに 200万の契約金は異例の安さよ。でも、上限の2000万は有名俳優並。これをどう判断するかは あなた次第だけど、グラードコスメ・フレグランス部門の現状を考えれば、これは極めて妥当な条件といっていいと思うわ」
「成功を前提とした契約にも思えますけど……部門廃止の危機というわりに、強気なんですね」
“強気”というより“夢見がち”の方が、より正確に彼等の気持ちを表わす言葉なのかもしれない――と、瞬は思った。
さすがに そう言ってしまうことができず、瞬は あえて“強気”という言葉を用いたのである。
だが、瞬が“夢”という言葉を避けなくても―― 芳賀氏は、その契約の半ば以上が夢でできていることを承知しているようだった。

「人は、希望を捨てては生きていけない生き物なんですよ。仕事も生き甲斐も――すべてを失っての一家心中を予想するより、起死回生の大逆転を夢見たがるのが 人間というものだ。でないと、人は何事かに挑戦する気が起きない――それ以前に生きていることができない」
「い…… 一家心中 !? 」
まさか、いくら期待通りの業績をあげられなかったからといって、沙織が グラード麾下の企業の責任者に心中を選ぶしかないような冷酷を示すはずがない。
そう瞬は思ったのだが、すぐに瞬は その考え――夢見がちな考えを放棄せざるを得なくなった。
この場合 問題なのは、沙織が――グラード財団が、芳賀氏をどう処遇するかということではなく、芳賀氏当人の価値観――それは“誇り”と言い換えてもいい――なのだ。

たとえば、フレグランス部門の廃止を決定したグラード・コスメティクス社の人事部が、食品関係の香料研究を芳賀氏の新しい職務として提示したとする。
そうなった時、世界でも数百人にしか与えられていない名誉ある称号を持つ彼が、そんな研究に携わることを よしとするだろうか。
生活のために 不本意な仕事に従事することに、彼は耐えられるのか。
無理なことのような気がしたのである、瞬は。
「香りの世界に、私は20数年間 身を置きました。日本中の女性に私の作った香りを まとってもらうのが、私の夢だった。今回のプロジェクトには、私のこれまでの20数年間のすべてがかかっている。これまでの私の生と努力が報われるか、否か。すべては無駄無意味だったのか、否かが」
芳賀氏の その言葉が、瞬の不安を更に大きなものにした。
瞬とて、力になれるものならなりたいのである。
だが、これは、敵を倒せば解決するような単純な問題ではない。
不屈の闘志を持ち、命がけで戦って、それで どうにかなるような事柄ではないのだ。
瞬は、沙織に救いを求めた。

「さ……沙織さんは、どうお考えなんです」
「私の答えは決まっているわ。『結果を出せればOK。出せなければ、フレグランス部門は廃止』よ。ただ、これまでグラード財団が、グラード・コスメティクス社のフレグランス部門に 多額の研究費と人材と時間を費やしてきたのは事実なのよね。利益を生まない部門の見切りも大事だけれど、できれば これまでの投資を無駄にしたくはないという考えもある。芳賀室長が、香りへの姿勢を変えて生んだものの価値を世に問うてみたいという思いもあるし」
「ぼ……僕は本当に素人で――」
「わかっています。でも、あなたでなければ駄目なんです。瞬さんの協力を得て、それでも駄目なら、私にも諦めがつく。お願いします……!」
「あ……」

芳賀氏が手にしていたコロンのボトルを、机の上に戻す。
彼が素人の子供の前に土下座をしようとしてことに気付き、瞬は 声にならない悲鳴をあげた。
『やめてください!』と、瞬が声に出して叫ぶ前に、最初から そうなることを見越していたとしか思えない沙織が、高価そうな万年筆を瞬に差し出してくる。
「じゃ、ここにサインして」
沙織の その一言で、すべてが決した――すべては決してしまったのだ。

芳賀氏は 涙を流して喜び、多来氏は 調理し甲斐のある食材を手に入れた料理人のように爛々と瞳を輝かせて瞬を見詰めてくる。
堅苦しく仰々しい契約書に、確かに自分の手で記された名を呆然と見詰めながら、今になって 瞬は、沙織に何と言われても 仲間たちを この場に連れてくるのだったと後悔していた。
そうすれば、仲間たちが――特に氷河が――アンドロメダ座の聖闘士が とんでもない企画に巻き込まれてしまう事態を阻止してくれたはずなのだ。
自分は 沙織の計略にはめられたのだと、今になって気付いても、あとの祭り。
乙女の祈りプロジェクトの話を聞いた星矢と紫龍は呆れ、氷河は激怒したが、とにかく すべてはあとの祭りだった。






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