CFのテレビオンエアと駅貼りのポスターの展開が始まったという連絡が 瞬の許に入ったのは、それから しばらく経ってから。 広告宣伝費の予算が少ないため、CFのテレビオンエアは主に深夜早朝が多くなるという話だったが、そんなものを わざわざ夜更かしして見る気にもなれず――むしろ積極的に避けて――瞬は自分が出演したCFを見ることはしなかった。 これも予算の問題なのか、外出先で問題のポスターを見掛けることもなく、世界は これまで同様 静かで平和。 悪夢の契約と悪夢のCF撮影の記憶は 瞬の中で徐々に薄れ、瞬は 以前の平和な時間を取り戻しつつあった。 芳賀氏が新境地を開拓して作った香りは、それなりに大衆に受け入れられたのだろう。 対売上予算で102パーセント前後を推移しているらしい。 それでも、これまでの製品は売上予算比40パーセントを超えたことはなかったというのだから、十分に黒字ラインに乗ったと言える。 コロンは なぜか男性の購入者が多く、プレゼントとしての需要を掘り当てたのかもしれないと、多来氏からの報告もあった。 この売上での推移が継続すれば、グラードコスメのフレグランス部門廃止の件は 決定が先送りになり、いずれ立ち消えになるだろうと。 微力ながら、芳賀氏の力になることができたのかと、瞬も ひとまず心を安んじることができたのである。 とにかく、この一件で、瞬は平和の価値を思い知り、アテナの聖闘士として戦うことの意味と意義を再確認することになった――再認識することができた。 仲間たちと過ごす 穏やかな日々を心から 嬉しく思いながら、4時間超の強行撮影は苦しかったが それも悪いことばかりではなかったと思うことができるようになっていたのである。 瞬が つらい試練を乗り越えて取り戻した平穏な日々が 再び嵐によって乱されることになったのは、どこぞのインターネットサービス会社が定期的に実施している 男性対象の化粧品アンケートの結果が発表された時だった。 アンケートの内容は、『女性につけてもらいたい香りは何か』。 これまで不動の1位をキープしていた『つけない』が その地位から転げ落ち、『乙女の祈り・夢』『乙女の祈り・無垢』『乙女の祈り・憧れ』が、フランスのC社、C・D社、Y・S・L社等、並み居る海外有名ブランドを押しのけて、トップ3を独占するという、前代未聞のアンケート結果が公表されたのである。 アンケート対象は10代から60代の日本在住の男性5000名。 そのアンケートにおいて、アンケート回答者の中で『乙女の祈り』を購入したことのある男性の8割が、購入者特典目的で購入したという事実が判明。 アンケートの意見欄には、『オーデコロン自体は女性の友人にプレゼントし、それを気に入ってもらえたことが きっかけで彼女として付き合うことになった』という報告や、同じ経験をした別の男性から『付き合い始めた彼女から、本当はコスメの類を押しつけられるのは嫌いなのだが、“乙女の祈り”は押しつけがましい香りでないのが気に入ったと言われた』等のコメントが記されていたらしい。 そのアンケート結果を受けたグラード・コスメティクス社が追跡調査を行なったところ、『乙女の祈り』の購入者の実に7割が男性であるという事実、駅貼りポスターや電車の吊りポスターは そのほとんどが、テレビでオンエアされたCFで瞬のファンになった男性陣に盗まれていたという事実が判明した。 グラード・コスメティクス社のお客様相談室には、『乙女の祈り』のポスターを譲ってほしいという問い合わせが1000件以上あり、当初は顧客サービスの一環として無料配布していたのだが、在庫が尽きた時点で そのサービスを停止、相談室在籍社員からポスター販売を始めてはどうかという提案が出ていることもわかった。 瞬が出演したCFは受けていたのである。 本来 想定されていた購入者層ではなく、主に全年代の男性陣に。 世はネット社会である。 情報の伝達速度は異様に速い。 そのアンケート結果は、本来 想定されていた購入者層であるところの女性陣の注目を集めることになり、『乙女の祈り』は、あれよあれよというまに対売上予算800パーセントを達成した。 発売開始後の最初の四半期で 2年間分の売上予算をクリア。 もともと大ヒットが予想されていたわけではなく、売上予算も決して高く設定されていたわけではなかったのだが、ともかく『乙女の祈り』シリーズが日本のフレグランス市場で驚異的な売上を記録したのは事実だった。 男性も女性も、その目的は違うにせよ、『乙女の祈り』をこぞって購入、品薄情報が彼等の購入意欲に更に拍車をかけた。 異例の香水大ブームということで、芳賀氏は各種ファッション誌やテレビ番組に駆り出され、多来氏も ブームの火付け役ということで各種経済誌にインタビュー記事が載り、ネット上に その名が出ない日はない――といった ありさま。 瞬に付き合ってテレビCFの視聴を避けていた星矢たちも、好奇心に負けて それを見てしまったらしく、 「おまえ、まじで すげー美少女! あれはさ、あれは――怒んなよ。男なら誰だって、あんな美少女に あんな表情させてみたいって思うと思う。まじで超キヨラカな超々オトメだった!」 「ファンタジーRPGと乙女ゲームの中間の世界だな、あれは。にもかかわらず、おまえ自身はCGでは絶対に表現できない何かをたたえていて――実に上手い作りだ。オーデコロンの香りを実際に嗅いでみれば、その謎が解けるんじゃないかという気にさせられる。あのCFの中では、コロンは魔法のアイテムなんだな。もちろん課金しなければ手に入れることのできないアイテムなんだが、ゲームの乗りで つい買ってしまう者は多いかもしれん」 「あのオルゴールの蓋を開けた男の手が気に入らん。実に気に入らん」 というのが、それぞれ順に、星矢、紫龍、氷河のコメント。 仲間たちの評を聞いて、瞬はますます 問題のCFを避けるようになったのだった。 多忙を極めているにもかかわらず 月次の状況報告を続け、『ありがとう』を繰り返す、芳賀、多来両氏の律儀さがなかったら、瞬の精神は早々に崩壊してしまっていたかもしれない。 自分は彼等の力になれたのだと思うことで、瞬は なんとか精神の安定を保つことができていたのである。 だというのに。 だというのに――嵐は みたび瞬に襲いかかってきたのだ。 |