その日、沙織は、『氷河と二人で来て』と言って、瞬を彼女の執務室に呼んだ。 『乙女の祈り』契約時の悪夢が脳裏に甦り、瞬は尻込みせずにはいられなかったのだが、今度の呼び出しは氷河同伴。 もし また無理難題をふっかけられても、氷河がそれを払いのけてくれるだろう。 そう自分を説得して、瞬は沙織の執務室に向かったのである。 のだが。 「ああ、来たわね」 やたらに大きく重々しい執務デスクに着席している沙織の顔は、どこからどう見ても“渋面”としか言いようのないもの。 そこで瞬と氷河を出迎えた沙織の声と言葉も、その表情と同じように、渋さと苦さを極めていた。 「瞬。あなた、まずいことをしてくれたわね」 「え?」 「あなた、先週末、氷河と一緒に、銀座のPミュージアムの香水瓶展に出掛けたでしょう」 「あ、はい。あのCFは見たくないんですけど、芳賀さんが持ってきてくれた香水瓶はとっても綺麗だったから、興味があって――ガレやラリックの作品が展示されてるって聞いたので」 それがどうしたというのか。 訝る瞬の報告を受けて、沙織は その表情を ますます渋く苦いものに変えてみせた。 「あなたと同じように『乙女の祈り』のせいで香水瓶に興味を持った あなたのファンが、その日、Pミュージアムにいたのよ。氷河といる あなたに気付いた彼は、その様子を こっそり撮影して、『俺たちの乙女が男と歩いていた』というタイトルで、某動画サイトに その映像をアップした。加工もせず、顔もそのまま映していたので、肖像権侵害だと言い立てて、動画はすぐに管理会社に消させたのだけど……。その動画を見付けたのが グラードコスメの調査員だったから よかったけど、こんなことがマスコミに知れて報道されたら、大変なことになるわよ」 「何が大変なんです。僕はただ――」 沙織の言う“大変なこと”の意味が、瞬にはわからなかったのである。 『乙女の祈り』のCFに出演している乙女には 多くのファンがついているらしく、オーデコロンだけでなく キャラクター商品も大いに売れているという話は聞いていたが、“瞬”は“乙女”とは別人、別キャラなのだ。 “瞬”が何をしようと、それが人の噂になろうと、それは『乙女の祈り』の乙女にも グラード・コスメティクス社にも関わりのないこと、“瞬”の勝手である。 瞬はそう思っていた。 そんな瞬の前で、沙織が大袈裟なほど深く長い溜め息をついてみせる。 「瞬。あなた、グラードコスメとの契約書を読んでいないの? あの中に『向こう1年間、“乙女”のイメージを保つため、恋愛禁止』という条項があったでしょう。人目のあるところで堂々とデートなんて、歴然たる契約違反よ」 「は?」 恋愛禁止条項――それは いったい何なのか。 事情が呑み込めず、二度三度と瞬きを繰り返した瞬の前に、 「コピーだけど」 と言って、沙織が一枚の書類を指し示す。 それは、瞬が初めて芳賀・多来両氏に出会った日に 瞬がサインした契約書の写しだった。 沙織が指で示した箇所に、確かに『向こう1年間、恋愛禁止』の記述がある。 それだけならまだしも。 もし契約に違反する行為が為された場合には、瞬はグラード・コスメティクス社に5000万の違約金を支払うことになっていたのだ。 「そんな……」 瞬は、一瞬、頭の中が真っ白になってしまったのである。 芳賀氏の捨て身の懇願に負け、つい(?)サインしてしまった契約書。 その中に、こんな条項があったとは。 呆然と その場に立ち尽くすことになった瞬に、沙織が その契約の有効性と無効性を説いてくれた。 「サインは本物。これは疑いようがないわ。当然、あなたは、この契約書の内容を すべて承知した上で、グラード・コスメティクス社と契約を結んだことになる。問題は、恋愛禁止という条項が法的に有効かどうかということになるのだけど……。もちろん、この契約書が法的に無効だと言い立てることはできるわよ。恋愛禁止なんて、基本的人権を侵害した条項だと。でも、裁判になったら、必ず勝てるとは限らない。何といっても 過去に判例のないことだから、結論が出るまでには長い時間がかかると思うわ。おそらく、この契約書の恋愛禁止義務期間が過ぎても結論は出ないでしょう。だとしたら裁判に訴えるのは無意味よ。既に契約から4ヶ月半が過ぎているわけだし――」 だから、あと7ヶ月と半月を 恋をしていない振りをして過ごせと、沙織はいうのか。 瞬は恐くて、自分の隣りに立っている氷河の様子を確かめることができなかった。 その“恐いもの”を正面から見ているはずの沙織が、なお一層 氷河の怒りを煽るようなことを言い募る。 「記者会見を開いて、氷河は恋人ではなく友人だと言い張る手もあるわ。でも、それは、あなたが公に向かって、『氷河は恋人ではなく友だちだ』と言い張ることを許すという大人の対応が 氷河にできるか否かという問題を生じる。本音を言えば、私には、氷河が そんなことを許すとは思えないわ。というか、もし あなたがそんなことをしてしまったら、氷河が何をしでかすか。氷河は、日本を氷河期に突入させるくらいのことはするのではないかしら」 「わかっているようで、なによりだ」 瞬の隣りから、地獄の底から湧きあがってくるような氷河の声が響いてくる。 その声を聞いただけで、瞬の全身の血は凍りついた。 『さすがはアテナ』と言うべきか。 その場で、沙織だけが、余裕に満ちた穏やかな微笑を浮かべていた。 「私としては、日本に香りの文化を浸透させるべく努力してきた芳賀室長の希望を断ち切るようなことはしたくないのよ」 「芳賀さん……」 瞬とて、それは沙織と同じ気持ちだった。 彼の積年の夢が叶いつつあるのだと思うからこそ、瞬は 自分が“乙女”扱いされる屈辱の日々を耐えてきたのだ。 彼の夢を断ち切ることなど、絶対にできない。 「本当は、芳賀室長と多来課長は 直接 あなたに会って話したいと言っていたのだけど、そんなことをしたら、彼等が氷河に氷の棺の住人にされてしまいかねないから……」 そう言って、沙織が取り出したのは、一台の小型ボイスレコーダー。 沙織が再生ボタンを押すと、その機械は芳賀氏のメッセージを瞬に届けてきた。 『私は、契約違反がどうこうというようなことは言いたくない。頼みます、自重してください。清らかな乙女に憧れ、幸せな恋を夢見て『乙女の祈り』の香りを身につけている女性が、日本には大勢いるんです。彼女たちを幻滅させ、夢を奪うようなことはしないでください。お願いします……!』 「夢を奪われるのは、むしろ瞬にイカれた男共の方だろう」 芳賀氏の切なる懇願は、瞬の胸に鋭い痛みを運んできたのだが、それは氷河の心を動かすことまではできなかったらしい。 氷河の冷やかな声を聞いて、瞬は身体を縮こまらせた。 もともと氷河は、『乙女の祈り』の企画に瞬が駆り出されることに憤慨していたのだ。 『乙女の祈り』に関する新しいニュースが届くたび、瞬は、『契約更新しなければ、これきりだから』と言って、懸命に 怒れる氷河をなだめてきたのである。 「契約書の内容をちゃんと確認しなかった僕の非は認めますが、そんなこと言われても、僕――僕と氷河は――」 「そうねえ。あの契約書にサインする前から、あなたと氷河は仲良しだったものねえ」 『仲良し』とはまた、実に微妙な言い回しである。 二人のことが沙織に知られていないわけがないと思ってはいたが、改めて そう言われると――しかも、そういう言い方をされると――瞬は恥ずかしくてならなかった。 真っ赤になって俯いてしまった瞬に、沙織が警告を重ねてくる。 「とにかく こうなってしまったからには、氷河だけでなく、星矢や紫龍と外出するのもやめてちょうだいね。それでなくても、あなたは今 日本で最も注目されている存在なの。あなたの正体を突きとめようと、“乙女”のファンだけでなく、マスコミも躍起になっている。同じ家の中に男子同伴で消えていく場面を誰かに見られでもしたら、契約違反どころの騒ぎじゃ済まなくなるわ」 「で……でも、星矢や紫龍は何も――」 「その代わり、この家の中でだけなら自由に振舞っていていいわ。手をつなごうが、キスしようが、同衾しようが構わない。好きなだけ いちゃついてくれて結構よ。でも、外では自重して。出掛ける時は必ず一人で、できれば車で出てちょうだい」 「で……でも、沙織さん。敵襲があったらどうするんです。一人で戦うのも、僕だけ置いてきぼりも、僕は嫌です」 「その場合のことは考えなくていいわ。一般人が、あなたたちが戦っているところを見ても、それをデートだとは思わないでしょう。それ以前に、危険だから近付いてこないわ」 「……」 それはそうである。 少なくとも、恋愛禁止条項は、アテナの聖闘士としての活動の妨げにはならない。 その点では、瞬も心を安んじることができたのだが――否、瞬の気持ちは やはり晴れなかった。 重く曇ったままの表情の瞬に、沙織が更に重い雲を運んでくる。 「一応、言っておくけど、聖域に――ギリシャに避難しても駄目よ。『乙女の祈り』は、CF画像共々、既に海外市場にも出回っているから。瞬の容姿って、世界中のどこの国でも好まれるのよね。世界中どこにいっても、清らかな処女で通るし。日本のあなたのファンは、最近では、各国で出回っている『乙女の祈り』のポスターや購入特典のコンプリートに血道をあげているそうよ」 「そんな……聞いてないです……」 青ざめた瞬に、沙織が至ってクールに――氷河など及びもつかないほどクールに、 「いっそ、違約金を支払う?」 と訊いてくる。 『私が払ってあげる』と言ってくれないことからして、沙織の意思、沙織の希望は明白だった。 彼女は、“乙女”が巻き起こした大ブーム、驚異的な売上(というより利益)を歓迎しているのだ。 その成功と実績の前では、彼女の聖闘士たちの恋が ままならない状態になることなど、大した問題ではないと思っている――。 「さ……沙織さんは、香水の売り上げと地上の平和の どっちが大切なんですか」 「もちろん、地上の平和よ。決まっているでしょう。でも、『乙女の祈り』の売上にも、芳賀室長の20年間と夢と人生がかかっている。どちらも大事だわ。私はね、瞬。ほしいものが複数ある時、どれかを捨てたり諦めたりしないの。すべてを手に入れるわ、必ず」 『あなたの聖闘士の幸福は !? 』と、瞬は沙織に問いたかったのである。 『それは、あなたのほしいものの候補にも挙がらないものなのか』と。 諦めなければならないものなら、諦めてくれて構わないのである。 地上の平和のためなら、アテナの聖闘士個人の幸せが切り捨てられることは、もとより覚悟の上。 沙織は――アテナは、常に彼女の聖闘士たちより つらい選択を強いられてきた“人間”なのだから。 ただ瞬は 悲しいだけだった。 真っ先に切り捨てなければならないものであっても、沙織はそれを――彼女の聖闘士たちの幸福を――願ってくれているものと、瞬は勝手に信じていたから。 だが、沙織は、瞳に涙をにじませた瞬を 執務机の椅子から、あくまでクールに見詰めているばかりだった。 「わかりました。沙織さんの言う通りにします。あと7ヶ月半だけ 我慢すればいいんですよね」 瞬としては、そう答えるしかなかったのである。 氷河は、理不尽な話だと激怒するかもしれないが、瞬の人生のプライオリティは、まず『地上の平和』、『人々の幸福』、そのあとにやっと『自分(たち)の幸福』。 それが定位置だったから。 しかし、瞬がそう言って項垂れた時、沙織の表情は一変した。 |