「あなたなら、そう言ってくれると信じていたわ」
地上の平和を守るためなら、聖闘士の幸福などクールに切り捨ててのける決然たる女神アテナ。
そのアテナが、今は、我が子を見守る母親のような眼差しで、瞬を見詰めていた。
戦いの女神アテナが、今は 優しく幸福な母親――我が子に誇りを感じている母親――のような微笑を浮かべている。
「そんな健気な私の聖闘士の恋を、私が邪魔するわけがないでしょう」
「さ……沙織さん……?」
「ごめんなさい。意地悪するつもりはなかったのよ。私はただ、努力することを知らず、耐えることもしない人間に 無条件に祝福や加護を与える お人好しの女神ではないの」
アンドロメダ座の聖闘士の覚悟を確かめたかったのだと、沙織は暗に告げていた。
あなたには、女神の祝福と加護を受ける価値がある――と。

「それで、私、考えたのだけど。問題は、要するに、あなたたちの恋が“乙女”のファンの夢や憧れを壊さなければいいだけのことなのよ。そのためには、あなたたちの恋が 社会的公認を得るのが いちばんいいと思うの」
「社会的公認?」
「ええ。具体的にどうするかは、芳賀室長から説明してもらいましょう」
「え? 芳賀さん……?」
ここには いないはずの人の名を出され、瞬は驚いた。
沙織の視線を辿り後ろを振り返ると、そこには 確かに、そして いつのまにか、氷の棺の住人にされる事態を避けるために氷河から遠ざけられているはずの、グラード・コスメティクス社 フレグランス事業部 研究開発室室長と同社広報部 商品宣伝課課長の姿があった。
初めて出会った時同様、神経質で線の細い印象の芳賀氏が、その瞳に感謝の色をたたえて、瞬を見詰め、瞬に対して深く腰を折ってくる。
そして再び その顔を上げた時、彼は既に、窮地に追い込まれ 瞬の同情を欲していた線の細い男ではなくなっていた。
力強い口調で、芳賀氏が、今日の来訪の目的を 瞬たちに語り始める。

「実は、今度、グラード・コスメティクス社では『戦士の休息』というメンズのシリーズを出すことになりました」
「は?」
「『乙女の祈り』同様、アイテムは3種。『戦士の休息・勝利』『戦士の休息・幸運』『戦士の休息・愛』。9ヶ月前の藤見の会で、瞬さんの側にいる氷河さんからインスピレーションを受けて 作ったものです」
「は……あ……」
これは いったい何の冗談なのか。
万一 これが冗談ではないとしたら、いったい何なのか。
瞬は、激しい目眩いに襲われかけていた。

「瞬さんと氷河さんが一緒にいる姿を見てしまったら、メンズの香りを作りたくなるのは当然のことでしょう。二人が二人でいることで完璧になるように、私の作品も対で揃って初めて完成する」
「あ……あの……」
「日本中の女性に私の作った香りをまとってもらうのが私の夢なら、日本中の男性に私の作った香りをまとってもらうのは私の野心です」
「野心……?」
「私は、これまで、私の作るものが優れていさえすれば、それは万人に受け入れられるものと信じていた。だが、そうではなかった。『乙女の祈り』が多くの人に受け入れられたのは、総帥の寛容とご尽力、多来さんの企画力、グラード・エージェンシーのカメラマンの熱意、何より 瞬さんの優しい心、それらすべてが揃ったからでした。私一人の力ではない。私は傲慢だった。私が もっと早くに 自分の弱さや至らなさを認め 受け入れ、皆さんに協力を仰いでいれば、そもそもフレグランス部門は廃止の危機などに追い込まれなかった」
「あ……」
「自分の弱さ、無力を認め 受け入れたら、不思議なことに 私の中には新たな力が湧いてきたのです。『戦士の休息』は、自分の弱さを知っているからこそ強くなれる男のための香りです。私は、この香りを日本中の男性に まとってもらいたい。ですから、瞬さん。今一度、私に ご協力ください。あなたの力を貸してください」
「芳賀さん……」

芳賀氏は、初対面の時とは 人が変わっていた。
気負いがなく、追い詰められて切羽詰っている様子もなく、頑なでもなく、むしろ柔軟。
当たりは優しくなったのに、力強さを感じる。
今の彼なら、たとえ仕事に失敗しても、一家心中などということは考えまい。
彼は、今では、自分が自分一人の力で生きているのではないことを知っているのだから。
これは良い変化なのだろうと、瞬は思ったのである。
彼の力になれるものなら なりたいと。
だが。
「協力……って……」
メンズの香水の売り出しに、自分にどんな協力ができるというのか。
悲しいほどに 自分というものを知っている瞬は、芳賀氏の協力要請に戸惑うことしかできなかったのである。
戸惑う瞬に 答えを与えてくれたのは、芳賀氏の協力者、グラード・コスメティクス社 広報部 商品宣伝課課長の多来氏だった。

「『乙女の祈り』のコマーシャル・フィルムの続きを作りたいのです」
「あのCFの続き?」
「はい。あのCFでオルゴールの蓋を開け、乙女の眠れる恋心を目覚めさせた戦士を氷河さんという設定で。既にコンテは切ってあり、スタジオも押さえてあります」
「え……」
何か話の進み方が速すぎる。
瞬は、嫌な予感がしたのである。
もっと はっきり言えば、この続編作成の企画に陰謀の匂いを感じた。
地上の愛と平和を守る女神アテナの。
間違いない。
すべてのストーリーを書いたのは、知恵と戦いの女神にして グラード財団総帥 城戸沙織。
そう確信して、瞬が沙織を問い詰めようとした時。

「俺が瞬の恋心を目覚めさせるのか。悪くないな」
と、アテナの陰謀に 氷河が乗ってしまったのである。
氷河の気のありそうな反応に、多来氏は勢いづいた。
「続編にも瞬さんに出演していただくことで 違約金の件は不問――というのは どうでしょう」
そこに更に沙織が畳み掛けてくる。
「もちろん、氷河はただ働きよ。こんな美味しい役、こっちがお金を払ってほしいくらいだわ。日本中――いいえ、世界中の人々に、瞬との仲を公認させる仕事をグラードが請け負うようなものなんですもの」
「瞬との公認か。悪くない。まったく悪くない」

おそらく、この陰謀の最大のネックは、氷河をその気にさせられるかどうかということだった。
その最大の障害が あっさり消えてしまった今、もはや瞬の意思など 取るに足りない問題である。
実際、芳賀氏も、多来氏も、沙織も、氷河ですら――瞬への意向確認はしてこなかった。
氷河がOKといえば、それは決定なのである。
だから、それは決定だった。
グラード・コスメティクス社 初のメンズ・フレグランス『戦士の休息』シリーズは、華々しいキャンペーンを打って、鳴り物入りで発売されたのである。






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