「“アイドルなのに、歌がうまい”?」 「ええ、それがキャッチコピー」 「歌がうまくて、アイドルになれるんですか」 紫龍の素朴な疑問に、グラード財団総帥 城戸沙織――今は、知恵と戦いの女神アテナではない――は苦笑した。 城戸邸ラウンジに集められたアテナの聖闘士たちは、それを ごく自然なことのように受けとめたのだが、その実 彼等は、沙織の顔が なぜ苦笑の形を作ったのか、その本当の訳がわかっていなかった。 沙織の苦笑の真の意味を理解しないまま、星矢もまた 紫龍の疑念に同調する。 「だよなー。アイドルなのに歌がうまいなんて、滅茶苦茶 矛盾してるよなー」 「あなた方も、大概 きついわね、まあ、こちらも、その矛盾を売りにしていたのだけれど。コンセプトが“アイドルらしくないアイドル”。アイドルなのに、歌がうまい。アイドルなのに、ダンスはしない。アイドルなのに、この春には K大法学部に一般入試で現役合格」 「へー。アイドルなのに頭もいいんだ」 沙織の説明に 一応感心してみせながら、星矢は なぜ自分が――自分たちが――沙織に そんなアイドルの説明をされていのか、まるでわかっていなかった。 わかっているのは、それが、2年ほど前にグラード・エンターティメント社からデビューしたアイドルの紹介であるらしいということだけ。 地上の平和と安寧を守るアテナの聖闘士たちには 何の関係もなさそうなアイドルの紹介。 アテナの聖闘士たちは もちろん、アイドルなどという人種に興味はない。 彼等が それを大人しく拝聴していたのは、そのアイドルらしくないアイドルが アテナの聖闘士になれるほどの小宇宙の持ち主だったことが判明したとか、あるいは 邪神に関わりがあることがわかったとか、そういう展開が アイドル紹介に続くのだろうと思っていたからだった。 「で、そのIDL4がね――」 かなり順番が前後していたが、沙織が初めて、そのアイドルの名を口にする。 その名を聞いた星矢は、短く口笛を吹くことになった。 「IDL4! それなら、俺でも、名前 聞いたことあるぜ! てことは、かなり売れてんだ、その4人組!」 多少は自分も俗世間のことを知っているのだと自慢するように言う星矢に、沙織は嘆かわしげに頭を横に振った。 アテナの聖闘士にアイドルオタクになられるのは困るが、グラードで売り出しているアイドルの知名度が低いのも喜ばしいことではない。 沙織の心情は複雑だったかもしれない。 「本当に名前しか知らないのね。いいえ、一人よ。IDL4はユニット名ではないわ」 「ユニット名じゃない? それって一人のアイドルの名前なのか? なら、なんで4なんだよ」 実に真っ当で、妥当な星矢の質問。 沙織も その質問の妥当性は認めたのか、彼女は あまり渋い顔にはならずに、IDL4の名の由来をアテナの聖闘士たちに説明してくれた。 「IDL4の名前は、イギリス経験論哲学の祖フランシス・ベーコンが、その著書『新オルガノン』で提唱した4つのイドラからとったものよ」 「ヒドラなら知ってるけど、イドラ? 何だ、それ」 「アイドルの語源は、ラテン語のイドラだということは知っている? 偶像という意味よ。フランシス・ベーコンは、その著書で、人間の陥りやすい偏見、先入観、誤りを4つのイドラとして定義づけたの。この場合は、“偶像”というより“幻影”と訳した方が適切ね。4つのイドラというのは、すなわち、種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、洞窟のイドラ。ちなみに、種族のイドラというのは――」 沙織は、フランシス・ベーコンが提唱した4つのイドラの内容を、それぞれ説明しようとしたらしいのだが、その作業を実行に移す前に、それらの概念を今ここでアテナの聖闘士たちに説明しても意味がないことに気付いたらしい。 結局、彼女は、イドラについて それ以上の言葉を重ねることはしなかった。 「まあ、要するに、“アイドルなのに小難しい名前”というわけ。本名を使ってもよかったのだけど、彼の本名は小川拓斗と言って、へたに略称なんかつけられると『オタク』になっちゃうでしょう。実際、中学の時に そう呼ばれていたことがあるから、本名を名乗るのは避けたいとかで」 「小川拓斗、略してオタクかー。アイドルの略称って、誰が決めるのかは知らねーけど、オタクが嫌なら、オガタクとでもすればいいのに」 「オガタクじゃ、アイドルっぽくなってしまうじゃない」 なぜ そんなこともわからないのかという顔で、沙織が星矢を見やる。 わかって たまるかというように、星矢は口をとがらせた。 「アイドルらしくなさを追求するのも、なかなか大変なようですね」 二人を執り成すように そう言ったのは、龍座の聖闘士。 「ええ。なかなか苦労しているようよ。グラード・エンターティメントも」 僅かに唇の端を上げて、沙織は この場にいない彼女の部下たちを ねぎらった。 「歌がうまいといっても、正式に声楽を学んでいたわけではないの。お父様は声楽家だったそうだけど」 「え……」 その言葉に 誰よりも早く反応を示したのは、沙織の話が本題に入る時を――アイドルが どうアテナの聖闘士に関わってくるのかの説明が始まる時を――辛抱強く待っていた瞬だった。 瞬は、沙織の説明が過去形であることに引っかかったのである。 この春K大に現役合格したというのなら、IDL4の年齢は18か19。 その父親となれば、その年齢は40代と判断するのが妥当だろう。 声楽家の引退の年齢としては、どう考えても若すぎるのだ。 「声楽家だった……って、過去形なんですか」 瞬の指摘に、沙織が 深い溜め息で答える。 瞬は、逆に息を呑むことになった。 「彼は6歳の時に お父様を病気で亡くしているの。ピアノ教室を開いていた お母様に、女手ひとつで育てられたのだそうよ。ご両親が音楽に関わっている家庭だったから、彼も歌は好きだったけれど、お父様が亡くなって以降、せいぜい お母様を慰めるために 歌を歌うくらいで、音楽関係の仕事に就くつもりはなかったようね。弁護士志望で、そのつもりで勉強していたそうだから」 「弁護士志望? アイドルなのに?」 「ええ。で、高校1年の時、某社主催の全国模試受験のためにH公会堂に行って、そこでグラード・エンターティメントのスカウトマンにスカウトされたの」 「模試会場でスカウト? 徹底してアイドルらしくない奴だな」 「それは意図してのことじゃないのだけど、まあ、そうね。公会堂の大ホールは中規模のコンサート会場として使われることもあって、彼を見付けたスカウトマンも、たまたま そこに下見に行っていただけだったそうだし。彼は芸能界に入りたかったわけではないのだけど、それが ちょうど、もともと 身体が弱かったお母様がピアノ教室を続けるのが難しくなっていた時で、自分で稼ぐことができるのならと、スカウトを受けたわけ。で、まあ、顔の造作がよかったものだから、アイドルになるしかなかった、と」 『顔の造作がよかったから、アイドルになるしかなかった』 アイドルや芸能界に興味はない。 ゆえに、アイドルが いかなるものなのか、芸能界がどんな世界なのか、知りたいとも思わない。 そんなアテナの聖闘士たちでも、さすがに沙織の その発言を奇異に思わないわけにはいかなかった。 星矢が、アテナの聖闘士を代表して、沙織に確認を入れる。 「アイドルって、そういう理由でなるもんなのかよ? ゲーノーカイって よくわかんねーとこだな」 「へたに実力派なんてものを目指して首尾よく売れたとしても、顔がいいから受けているだけだと言われて つらい思いをするだけよ。アイドルの方が クラシック歌手なんかより、てっとり早くデビューできるし、稼げるでしょ。ともかく、そういう経緯で、彼はアイドルとしてデビューしたわけ」 「はあ。そういう経緯で」 アイドルらしくないアイドルが、やっとデビュー。 アテナの聖闘士たちは、IDL4なる人物が いつになったら地上の平和と安寧に関わる存在になるのか、その時が なかなか訪れないことに少々 焦れ始めていた。 「ええ。そういう経緯で。だというのに、そのアイドルが歌を歌えなくなってしまったの」 「歌を歌えなくなった?」 「彼は、早くにお父様を亡くして、お母様に女手ひとつで育てられたと言ったでしょう。なのに、そのお母様までが、先日 交通事故で亡くなってしまったのよ」 「え……」 「なにしろ星矢でも名前を知っているくらいの売れっ子でしょう。お休みを取るのも大変で――仕事を前倒しに片付けて、スケジュールを調整して、やっと取れたオフの日に、彼は お母様と一緒にドイツから来日していたピアニストのリサイタルに出掛けていったの。その帰りよ。彼がちょっと お母様から離れた時に、酒気帯び運転の車が歩道に突っ込んできたの。彼はすぐに119番したのだけど、血まみれのお母様を目の前にして、声が出なかった。それで いたずら電話だと思われたのか、電話を切られてしまったの。救急車がなかなか来ないのを訝った通行人が連絡を入れてくれて、救急車は やがて到着したのだけど……。お母様は ほぼ即死だったそうだから、どちらにしても間に合わなかったのよ。でも、もし 自分がもっと早くに救急車を呼べていたら、それ以前に 仕事を休んで お母様をリサイタルに誘わなければ――色々な考えが彼を追い詰めてしまったのね。普通の会話はできるのに、なぜか歌が歌えなくなってしまって――」 「お気の毒に……」 痛ましげに、瞬が小さな声で呟く。 アイドルらしくないアイドルを見舞った悲惨な事故に、星矢たちも さすがに表情を曇らせないわけにはいかなかった。 「彼のスケジュールはぎっしり。キャンセルできるものはキャンセルしたのだけど、お母様の葬儀を済ませて、彼は半月後に仕事に復帰したわ。もともと責任感の強い人物だったそうだし、彼は、お母様を失って 一人で生きていかなければならなくなったわけで、今 手にしている仕事の口を捨てるわけにはいかないという現実的な事情もあった」 「仕事に復帰――って、歌えないのにですか?」 歌がうまいアイドルは存在しても、歌を歌えないアイドル歌手というものは存在し得ないだろう。 瞬は 素朴に そう思ったのだが、それは暫定的になら存在し得るものだったらしい。 沙織は あっさり瞬に頷いてみせた。 「いわゆる 口パクで しのいでいたの。歌よりダンスメインのアイドルなら珍しいことではないわ。でも、それがばれる放送事故があって――それまで、父親に続いて母親まで亡くしてしまった彼に同情的だったマスコミが、途端に手の平を返した。実は 彼のこれまでのステージのすべてが口パクで、他人の歌を流していたのではないかと、マスコミがこぞって書き立て始めたのよ。アイドルにしては歌がうますぎたことが、かえって仇になって、その疑いを深く大きくしてしまったのね」 「そんな……」 瞬には、そんな疑いを抱ける人間が存在することの方が、歌のうまいアイドルの存在よりも信じ難いものだった。 瞬の疑念を、沙織は、 「仕方がないわ。できすぎた人間、恵まれすぎた人間というものは、人にやっかまれるようにできているのよ。そういう幸運な人間がいることを、人は信じたくないのね」 という説明で一蹴した。 「お母様を失ったショックで歌えなくなっているのだと、本当のことを公表しようかという話も出たのだけど、“アイドルなのに歌がうまい”が売りだった彼が、歌を歌えないのでは話にならない。お母様のことがある以前は ちゃんと彼自身が歌っていたのだと、歌を歌って証明することもできない。マスコミはどこまでも執拗に つきまとう。まさに八方ふさがりよ」 彼女の聖闘士同様――むしろ、彼女の聖闘士以上に 諦めが悪く、決して希望を捨てないことを身上にしている沙織が“八方ふさがり”と言うからには、IDL4なる人物は 本当に崖っぷちまで追いつめられているのだろう。 眉根を寄せた瞬に、果たせるかな 沙織から、更に悲惨な現状の報告が為される。 「お母様を失って、自宅に一人暮らしになっただけでも つらいのに、マスコミは その自宅にも張りついていて、出入りすら ままならない。彼は精神的にまいってしまって、マネージャーだけではフォローしきれなくなってしまったの」 「ゲーノーカイってとこも よくわかんねーけど、マスコミってのも人非人の集まりだな。それって、沙織さんより鬼じゃん」 「星矢……!」 仮にも 地上の平和と安寧を守るために務めている女神を 鬼呼ばわりする星矢に、瞬は ひやりとしたのだが、沙織は 特に機嫌を損ねた様子は見せなかった。 それどころか彼女は、むしろ星矢の暴言に力強く頷きさえした。 「そう。鬼からは 逃げるか隠れるかしなければならないでしょう? それで、私は、彼を ここに匿うことにしたの」 「へっ」 アイドルらしくないアイドルの生い立ちから始まった沙織の長い話の結論は、どうやら それだったらしい。 つまり、アイドルらしくないアイドルは、地上の平和にも 人類の存亡にも全く関わりのない人物で――沙織は、彼に 隠れんぼの鬼から逃げる場所を提供することにした――ということ。 その報告をするため(だけ)に、沙織は長々とアイドル話を続けていたのだ。 アイドルの悲運には深く同情しつつも、アテナの聖闘士たちは、正直 かなり気が抜けてしまったのである。 アテナの聖闘士たちの脱力に気付いているのか いないのか、沙織は一人でどんどん話を進めていく。 「彼は、氷河や紫龍と同い年よ。氷河、彼の面倒を見てあげて」 「なぜ俺が」 沙織から指名を受けた氷河が、不可解そうな顔になる。 星矢もまた、沙織の指名に 氷河と同じ疑念を抱いたらしく、彼の女神に奇異の目を向けた。 「氷河に人様の世話なんて できるわけないだろ。なんで氷河なんだよ。そういうのに、もっと向いた人間が、氷河のすぐ横にいるのに」 「それはまあ、同じマザコン同士だし……」 言いながら、沙織が、氷河と 氷河のすぐ横にいる人物に ちらりと視線をなげる。 「私だって、本当は瞬に頼みたいのよ。氷河が それで構わないのなら瞬に頼むわ」 「冗談ではないぞ! アイドルだかオタクだか知らないが、男は男だ。そんなものを瞬の側に近付けてたまるか。危険極まりない!」 おそらくは沙織が察していた通りに――氷河が沙織の希望に物言いをつけてくる。 予想通りの氷河の反対に、それでも 沙織は 呆れた顔になった。 「そう、アイドルはオトコ。あなたの瞬も、歴とした男の子よ。何が危険なの。あなたじゃあるまいし」 「駄目なものは駄目だ! そのアイドルの面倒は 俺が見る!」 そう答えてしまったのが、氷河の運の尽き。 そう答えてしまった白鳥座の聖闘士に、沙織はすかさず にこやかな笑みを向けてきた。 「そう言ってくれると思っていたわ。じゃあ、氷河。アイドルの世話は、あなたに頼むわね。彼が歌を歌えるようになるか、マスコミが諦めるか、あるいは 別の解決策が見付かるか――。それまでのことだから、さほど長い間 あなたの手を煩わせることにはならないでしょう」 アイドルが歌を歌えるようになるか、マスコミが諦めるか、あるいは 別の解決策が見付かるか、それまでのこと。 沙織は、それまで さほど長い間 氷河の手を煩わせることにはならないと言うが、そもそも その時は本当に到来するのか。 氷河は すぐに、その役目を星矢か紫龍に押しつけることを思いつけなかった自分に腹を立て、深く 後悔もしたのだが、すべては後の祭り。 後悔というものは、常に 先には立たないものなのだった。 |