アイドルは、城戸邸内では 音楽室にいることが多かった。
歌を歌えるようになるため――というより、おそらくは、一人になるため。
そして、そこにあるピアノに触れることで、ピアニストだった母親の思い出に浸るため。
氷河が不機嫌になることはわかっていたのだが、瞬は そんな彼を放っておくことができなかったのである。
ピアノの蓋を開け、母の面影を辿るように人差し指で鍵盤を叩いているアイドルに、ある日、瞬は勇気を出して話しかけてみたのだった。

「お母様のためにも、歌えるようになるといいですね」
「母はもういない。歌えるようになっても無意味だ」
母親のことに言及されても、アイドルは 神経質な反応は示してこなかった。
というより、彼は 感情らしい感情を示すことがなかった。
覇気も抑揚もない声。
瞬は、そんな彼が 痛ましく感じられてならなかったのである。
「でも、ここにお母様がいらっしゃると思って、そして考えてみて。歌える拓斗さんと、歌えない拓斗さん。お母様は どちらの拓斗さんを喜ぶと思います?」
「……」

瞬に そう言われたアイドルが初めて、鍵盤の上に ぼんやりと投じていた視線を浮かせ、瞬の顔を見詰めてくる。
そして、彼は かすれた声で、独り言なのか 質問なのかの判断が難しい言葉を呟いた。
「ファンのためじゃなく……」
「え?」
その呟きで、瞬は 彼の覇気のなさ、自分が歌を歌えないことに強い焦燥を感じているように見えなかった訳がわかったような気がしたのである。

おそらく数百万単位でいるのだろう彼のファン。
責任感の強い彼は、自分はファンのために歌えるようにならなければならないと思わなければならない――と思っていたのだろう。
そして、だが、どうしても そう思うことができずにいたに違いなかった。
『彼も歌は好きだったけれど、お父様が亡くなって以降、せいぜい お母様を慰めるために 歌を歌うくらいで、音楽関係の仕事に就くつもりはなかったようね』
と、沙織は言っていた。
彼の歌は、もともと母親のためだけに歌われるものだったのだ。
だが、彼は その母親を失った。
彼自身は自覚していないのかもしれないが、歌を歌えなくても、今の彼には どんな支障も不都合もないのだ。
彼の歌を聞いてくれる人は――彼が歌を聞いてほしい人は――もう彼の側には いないのだから。
だから、彼は、彼の母親の死以降、切実に『歌を歌いたい』と思ったことはなかったに違いない。
それほどまでに大切なひとを、彼は失ってしまったのだ――。

ふいに、金色の髪の仲間の青い瞳の寂しさが 瞬の瞼の裏に思い浮かんできて、瞬の瞳には涙が盛り上がってきた。
「瞬さん…… !? 」
悲しいことがあったわけでもないのに――少なくとも、瞬が悲しむような出来事は起こっていないのに――突然 その瞳から涙の粒を あふれさせ始めた瞬に、アイドルは驚いたらしい。
彼に名を呼ばれ、瞬は慌てて 涙を拭った。
「す……すみません。ごめんなさい。僕、考えなしなことを言って――」
「え……」
瞬が何を謝っているのか――瞬の涙の訳も、自分が瞬に謝られる訳も まるで理解できていない顔を、アイドルが瞬に向けてくる。
それが逆に つらくて悲しくて――瞬は急いで踵を返し、アイドルの許から逃げ出したのである。


その出来事が、アイドルの心にどんな影響を及ぼし、その心境に どんな変化をもたらしたのか、それは当の瞬自身にもわかっていなかった。
だが、ともかく、その日から、アイドルが もう一度 歌を歌えるようになりたいと思うようになったのは事実のようだった。
それまでは音楽室に こもって ピアノの蓋を開けても、演奏といえるほどのことはせずにいた彼が、ピアノで曲を弾くことを始めたところを見ると。
歌声は聞こえてこないのだが、ともかく彼は、彼の周囲に音楽というものを生み 置くことを再び始めたのである。






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