瞬が両親を相次いで亡くし、代わりにゴールディを得てから10年。
瞬の村は、ゴールディがいるおかげで、他の村々に比べれば 比較的 平和だった。
もちろん、村の周辺では小国領主たちの戦や小競り合いが続いていたし、そのために畑が馬の蹄に荒らされる事態は しばしば起こった。
いくらゴールディが巨大でも、彼一頭で守り切れる範囲には限界があったのである。
しかし、ゴールディの存在は 瞬の村の周辺に広く知れ渡っており、ゴールディが陣取っている村の中心部にまで 野盗や略奪目的の軍兵たちが入り込んでくることは、この7、8年間 一度としてなかった。

そんな村の、秋が深まりつつ ある日。
瞬は、ゴールディを浜の小屋に残して、木の実と薪を採るために山に入った。
ゴールディを同道できれば、拾い集めた薪や木の実を一度にたくさん運ぶことができて助かるのだが、ゴールディの巨体は山の木々をなぎ倒してしまうので、数年前から瞬は山に入る時にはゴールディを浜の小屋に残して留守番をさせておくようになっていたのである。

その日は ひどく風の強い日だった。
空に雲はないのに 海も荒れていて、山で薪を拾っている間中ずっと、瞬の耳には遠い海鳴りの音が聞こえていた。
大地や海の泣き声にも悲鳴にも聞こえる、それらの音。
不吉な胸騒ぎを覚えた瞬は、薪は予定の半分も集まっていないのに、海鳴りと強い風の音に急かされるように、浜辺の村に戻ったのである。
瞬が山に入ったあと、村では やはり何か事件が起きていたらしい。
浜には、ほとんど すべてといっていい数の村人たちが、それぞれの家(といっても、誰の家も小屋に毛が生えた程度のものなのだが)を出て 集まっていた。
ある者は呆然と、ある者は悲鳴じみた声をあげ、ある者は重苦しい呻き声を洩らしながら。
そして、彼等は全員が一様に不安そうな目をしていた。
こんなことは、これまで ついぞなかったことである。

いつもと違っているのは、それだけではなかった。
瞬が山に入った時には、誰よりも瞬の帰りを待ちわびているからこそ、誰よりも早く瞬の帰還に気付き、気付くや否や どどどどどっと地響きを立てて瞬の出迎えに駆けてくるゴールディが、今日に限って一向に浜に姿を現わさないのだ。
村に何か大変な事件が起きたことは確かだった。
だが、いったい何が起きたのか――。
瞬は 腕に抱えていた薪を 砂の上に放り出して、村人たちが集まっている浜に向かって駆け出した。
瞬の姿に気付いた仲間の一人が、いわく言い難い眼差しをゴールディの飼い主に向けてくる。
困っているような、何かに憤っているような、あるいは嘆いているような、その眼差し。
そんな目を向けられた瞬自身、自分が どんな表情で彼に応じればいいのかが、咄嗟には思いつかなかった。

「星矢、どうかしたの。何かあったの」
「瞬! どうしたも こうしたも――ゴールディを奪われちまったんだ……!」
「ゴールディちゃんを奪われた……?」
星矢は、いったい何を言っているのか。
ゴールディは もう、瞬の両手で抱きかかえられるような小さな猫ではない。
瞬の何倍も大きな――体重に至っては、瞬の20倍近くもある巨大な獅子なのである。
そのゴールディを奪うことは、オリュンポスの神々と戦ったという巨人たちにも容易にできることではないはずだった。

「奪われたって、誰に? 誰に そんなことができるの」
「どこの誰なのかは わかんねー。どっかから来た50人くらいの兵士たちに――多分 あいつら、この国の内にいる領主の兵士じゃない。手入れの行き届いた武器を持ってたし、かなり厳しく訓練されてるらしくて、統率がとれてたから。隊長らしい男の号令一下、手際よくゴールディに鎖を掛けて、でかい檻つきの馬車に引き上げて……ほんとに あっと言うまだった」
「そんな……」
「おまえ、おまえが帰ってくるまで 大人しく待ってろって、ゴールディに言って山に入ってったろ。それでゴールディの奴、暴れて抵抗してもいいのかどうか わかんなかったらしくてさ」
「ゴールディちゃん……」

星矢から事情を聞いて、瞬は真っ青になってしまったのである。
ゴールディを奪われた――いずこともなく連れ去られた――。
村人たちの不安と嘆きは当然のことである。
沖に出る船のない村で、ゴールディを奪われてしまったら、これから この村の者たちは どうやって漁をすればいいのか。
ゴールディがこの村に来る以前、自分が どうやって漁をしていたのかを、瞬は憶えていなかった。
他の村人たちも、それは似たり寄ったりの状況だろう。
ゴールディがいないことが知れれば、これまでゴールディの爪や牙を恐れて瞬の村を避けていた野盗たちが略奪にやってこないとも限らない。
いや、彼等は必ず来るだろう。
今の瞬と同じことを考えて――村人たちは、これまでの村の ささやかな平和に終わりの時が来たと、絶望し嘆いていたのだ。
瞬とて、心は村人たちと同じだった。
否、瞬の不安と嘆きは、村人の誰よりも深く大きいものだった。
ゴールディは、瞬にとっては家族も同然の大切な友だち。
ゴールディのいない毎日など、今の瞬には想像することさえ困難だったから。

いったいなぜ、誰がどんな目的で、ゴールディを連れ去ってしまったのか。
瞬には、ゴールディを奪った者たちの考えが まるでわからなかったのである。
彼等は、この村にいるよりも幸せにできると信じて、この村から――瞬の手から、ゴールディを奪っていったのだろうか。
そうでないのなら――彼等が ゴールディを幸せにするために連れ去ったのでないのなら、こんな暴挙は許されるべきではない。
ゴールディは、この村で――瞬の側で、いつも幸せそうにしていたのだ。

「ぼ……僕、ゴールディちゃんを連れ戻しに行かなくちゃ……」
無理矢理 どこかに連れ去られ、これまでの幸せから引き離され、ゴールディは嘆き悲しんでいるに違いない。
以前、山に入った瞬の帰りが遅くなって深夜近くになった時、ゴールディは一人でいることを心細がって ずっと悲しげな咆哮を浜辺に響かせていたのだ。
彼の唯一人の家族から引き離され、たった一人でいることに、ゴールディが耐えられるはずがない。
「連れ戻しに行かなくちゃ……。ゴールディちゃんは僕の大切な家族で、この村のみんなに愛されて、大切にされて――ゴールディちゃんは きっと、この村で暮らしてて 幸せだったはずなんだ」

だから、どうしてもゴールディを この村に連れ戻さなければならない。
そのためになら、自分はどんなことでもしよう――。
瞬は、そう決意した。
決意したのはいいのだが。
「連れ戻しに行くったって、どこに行けばいいのか わからないだろ」
「わ……わからないの?」
ゴールディを連れ去った者たちが どこに向かったのかも知らないのに ふらふらと歩き出した瞬を、星矢が慌てて引き止める。
星矢に そう言われて初めて、瞬は、自分がどこに向かえばいいのかを知らない事実に気付いた。

「紫龍が、兵たちに気付かれないように、ゴールディを乗せた馬車を追っていった。紫龍が戻ってくれば、ゴールディがどこの誰に連れ去られたのかくらいはわかると思う」
「わかったぞ」
星矢がそう言い終えた途端、瞬と星矢の上に紫龍の声が降ってくる。
いつのまに戻ってきていたのか――紫龍の帰還にも気付かないほど自分たちが動転していたことを、瞬と星矢は 改めて自覚することになった。

「だ……誰なのっ。ゴールディちゃんを連れていったのは……!」
混乱のために気が急いて 答えを急ぐ瞬に、だが、紫龍はすぐには答えを与えることをしなかった。
答えることを ためらっているような紫龍の素振りが、瞬に、楽観的な希望を抱くべきではないことを知らせてくる。
紫龍の返答を待って、瞬は唇を固く引き結んだ。
瞬の覚悟を確かめて、紫龍が ゆっくり口を開く。
「俺たちの暮らしは、ゴールディがいるおかげで この村の中で完結しているところがあって――だから俺たちは 他の村とは ほとんど没交渉だった。……が、それはやはりよくなかったな。俺たちは知らずにいたが、この国は今 大変な状況にあるらしい」
「大変な状況……って?」
「いいことなのか悪いことなのかは、何とも判断のしようがないが、外国の軍隊がこの国を侵略支配しつつあるらしい」
「外国の軍隊が……?」

ゴールディに守られた村の中にいれば安全。
そんな考えのせいで、確かに瞬は これまで村の外でのことに関心を持ったことが ほとんどなかった。
この村の住人たちは、この村の外で何が起こっているのかを気にする必要がなかったのである。
それではいけなかったのだろうかと思い始めた瞬に、紫龍は浅く頷いてきた。






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