この壮麗な城に女官の類はいないようだった。
広く清潔で、生活のための家具はすべて揃っているが 豪奢とは言い難い部屋に瞬を案内してくれたのは、ほとんど表情らしい表情を持たない一人の衛士だった。
その部屋で――王との謁見の緊張と 旅の疲れを、瞬は温かく やわらかい寝台に横になることで消し去ることができたのである。
硬く狭く冷たい寝台をしか知らない瞬は ふかふかの寝台に違和感を感じずにいられなかったのだが、疲れが瞬の上から その違和感をすぐに取り除き、そして瞬の眠りを深くした。


そうして 瞬が目覚めた時、室内には いつのまにか灯りが灯されていた――いつのまにか地上には夜が訪れていたらしい。
目覚めるなり、
「名は」
と問われ、瞬は瞬時に その意識を明瞭にした。
弾かれるように寝台の上に身体を起こし、目の前にヒュペルボレイオス王 その人がいることに驚く。
あのまま 王に忘れ去られても、それは さほど不思議なことではないと思っていたのに、ヒュペルボレイオス王は、滅びかけていた国の寂れた村から連れてこられた みすぼらしい子供のことを忘れずにいたものらしい。
夜になるまで 貢ぎ物の検分にやってこなかったところを見ると、彼は それなりに多忙らしいのに。

「しゅ……瞬」
少しく どもりながら 瞬が自分の名を口にすると、王は、瞬の前で ごく浅く頷いた。
「男子だな」
「あの……」
「おまえくらい綺麗なら、俺は男でも一向に構わんぞ」
「男です」
いったい彼は、美女ならぬ男子の貢ぎ物を どうするつもりでいるのか。
全く見当がつかず、まともに何かを考えることもできずにいる瞬に、王は律儀に 自分の名を名乗ってきた。
「俺は氷河だ。氷河と呼べ」
「……氷河」
敬称もつけずに その名を呟いてしまってから、瞬は自分の不敬に気付いた。
もっとも、王は そのことで瞬を責めるようなことはせず、そんなことはどうでもいいというていでいたが。
そして彼は、重ねて瞬に尋ねてきた。

「俺に取って食われると思っていたか? 親から引き離されて、無理矢理 ここに連れてこられたのか? 阿呆共が 俺の機嫌をとるために美女狩りをしていると聞いたが」
「親はいません。僕が5歳の時に亡くなりました。僕は自分から――自分の意思で、この城に来たんです」
「そのわりに、さっきは泣いていたようだったが」
「泣いてなんかいません! ……いえ、泣くつもりはありませんでした」
なぜ泣いていたのかと問われたら、王に嘘をつかなければならなくなる。
『僕は あなたに おねだりをして、あなたに奪われた家族を取り戻しにきました』と、事実をありのままに答えることはできない。
そんなことをしたら、感情を隠すことを知らない気性の激しい この王は、自分を利用しようとした身の程知らずの子供を殺してしまうかもしれない。
しかし、代わりの嘘も思いつけない。
瞬は、とりあえず 彼の質問に正直に答えた。

「そういうことにしておこう。親は――おまえの親は、戦に巻き込まれて亡くなったのか?」
「いいえ。でも、戦のせいで死んだようなものです。畑を荒らされて、魚が浜に来なくなって、食べ物がなくなって――僕に食べさせるために 自分たちは何も食べず、母さんたちは痩せていった。それで、弱っていたところに熱病で……」
「そうか。やはり戦というものは、不幸しか生まないもののようだな」
この国に 最も大きな戦を運んできたはずの王が そんな言葉を呟く様を、瞬は不思議な気持ちで見詰めることになったのである。
国中の小領主たちは、今はヒュペルボレイオスの大軍に恐れをなして、国内のすべての戦を中断させているが、この異国の王は いずれ 本当にこの国を自分のものにするために 過去に例のない大戦を始めるのではないかと、瞬はそれを恐れていたのだ。
その戦で利用することを考えて、彼はゴールディを奪っていったのではないかと。
しかし、王は、そんな瞬に 更に思いがけないことを言い募ってきた。

「だが、戦の生む不幸も もう終わりだ。俺が、この国を争いのない平和な国にしてやる」
「そ……それは ほんと? 本気?」
「もちろんだ。俺は、そのために この国に来たのだと言ったろう。ヒュペルボレイオスは、本来アポロンの庇護下にある国なんだが、なぜかアテナの神託があってな」
「女神アテナの神託――?」
アテナは戦いの女神であるが、戦いの破壊と狂乱を司る軍神アレースとは異なり、戦いにおける栄誉と知略を司る神である。
平和を表わすオリーブを その象徴とするほど、平和を愛する女神。
そのアテナが この国の惨状を見兼ねて、大国の王に この国を平和にすることを命じてくれたのだろうか。

「そうなったら、どんなにいいか……」
夢想にすぎないと諦めつつ、夢見ていた平和な国、平和な時。
瞬は、氷河の言葉に 我知らず うっとりしてしまったのである。
そんな瞬に、氷河がきっぱり断言する。
「必ず、そうする。俺には 神の加護もあるしな」
氷河の その言葉は現実のもの――夢想ではない。
そして彼は、小さな村の非力な子供と違って、強力な軍隊を持っている。
期待していいのか、信じていいのか、そもそも武力で――戦いで 勝ち得る平和というものは 存在し得るものなのだろうか。
女神アテナの加護と承認があれば、それは矛盾ではなくなるのか。
その謎の答えを求めて、瞬が氷河の顔を見上げた時。

『ぎゃおーん』
嵐のような獣の鳴き声が、瞬の許に届けられたのである。
それが誰のものなのか。
何を求め、どんな気持ちで鳴いているのか。
それが瞬には すぐにわかった。

(ゴールディちゃん……!)
氷河が見せてくれた束の間の夢から、瞬は目覚めた。
そして、ゴールディの その悲しい咆哮こそが現実なのだと、自分に言いきかせる。
平和な国を作ると言いながら、村の平和を守っていたゴールディを瞬の手から奪っていった異国の王。
氷河は、そういう男なのだ。

「い……今のは……」
「ああ。進軍の途中で、巨大な獅子の噂を聞いて、兵に捕えさせたんだ。なんでも近隣の者たちは皆、凶暴な獅子に怯えているという話だったからな。馬などより荷物を運ばせるにもよさそうだったし、馴らせば敵を蹴散らすのにも使えるだろうし、軍頭に陣取っているだけで敵への威嚇にもなるだろうと思って、軍に加えたんだが――これが図体ばかり大きくて、夜ごと ああやって鳴くことしかできない獅子で――」
近隣の者たちは皆、凶暴な獅子に怯えている――。
その“近隣の者たち”とは、隙あらば あの地方の村々を襲撃し、僅かな食糧を略奪していく野盗の類のことなのか。
それとも、本当に 瞬の村以外の村に住む者たちが ゴールディの存在に脅威を感じていたのか――。

瞬は認めたくなかったが、氷河を誤解させたのは、後者の方である確率が高いような気がしたのである。
昼間の謁見の様子を見る限り、氷河は野盗ごときの吹き込む嘘に惑わされる王であるようには思えなかったから。
だが、それは誤解なのだ――。

「なんだか、泣いてるみたいに聞こえた」
「捕えたはいいが、食べ物を受け付けないんだ。肉、魚、飯やパン、チーズ――何を与えても食おうとしない。それで日に日に弱ってきている。にもかかわらず、夜になると、どこに そんな体力があるのか、あんなふうに泣き叫ぶ」
「あ……会わせて。僕を、その獅子に――」
「なに?」
瞬の申し出は、氷河には思いがけないものだったのだろう。
顔に似合わぬ豪胆とでも思ったのか、氷河は その目を大きく見開き、真面目に瞬を止めようとしてきた。

「巨大な化け物だ。それこそ、おまえが食われてしまうかもしれん。本当に何を与えても食おうとしないので、奴の主食は人間なのではないかと、皆が疑い始めている」
「弱っているんでしょう。大丈夫」
「しかし」
「会いたいの。会わせて! お願いです……!」
瞬は決死の覚悟で言い募ったのだが、氷河は危険な猛獣に瞬を会わせることを ためらっているようだった。
「会わせてくれたら、僕、氷河の言うこと、何でも聞きます!」
瞬が なおも食い下がると、氷河は献上品の強情に呆れたのか、
「それほど見てみたいのなら、見せてやらんこともないが、決して側には近付くなよ」
という条件つきで、瞬の願いを叶えてくれたのだった。






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