グラード財団総帥にして、知恵と戦いの女神アテナ。
アテナの聖闘士たちが見知っている彼女は、10代半ばの少女の姿に、中年女の ふてぶてしさと、血気盛んな青年の決断力と、人間のそれを超越した判断力と価値観を備えた稀有な人物だった。
だが、今 アテナの聖闘士たちの前にいるのは、どう見ても、4、5歳の幼女。
中年女の ふてぶてしさと、血気盛んな青年の決断力と、人間のそれを超越した判断力と価値観が10代半ばの少女の内に存在するだけでも 十分異常だったのに、それらの特性が今 どう見ても4、5歳の幼女に宿っている――。
氷河に限らず、星矢も紫龍も―― 一目でそれが女神アテナだと気付いた瞬でさえも――アテナの聖闘士は全員、激しい混乱に支配されていた。

エントランスホールで立ち話も何なので(と言ったのは紫龍だった)、とりあえず幼女アテナをラウンジに連れていく。
ソファではなく 窓際に置かれた籐製の揺り椅子に飛び乗るようにして座り 身体を揺らし始めた 幼い少女の姿は、いかにも好奇心いっぱいの子供らしいもので、見る人が見れば――もしかしたら、それは ほのぼのした光景だったかもしれない。
だが、大人用の椅子に腰掛けた彼女の足が床に届いていないことが、アテナの聖闘士たちに目眩いを運んでくる。
その可愛らしくも ほのぼのした光景に ほのぼのしている余裕は、今の彼等には到底 持ち得ないものだった。

「いったい、なんで こんなことになったんだよ!」
疲れと憤りが相半ばしているような声で 沙織に尋ねたのは、星矢だった。
幼いアテナが見るからに無邪気な様子で(彼女の内面が、その姿通りに無邪気なものなのかどうかは定かではないが)、すぐに問われたことに答えてくる。
「あ、それはね。あなた方には わからないでしょうけど、女神アテナとグラード財団総帥を兼任してるのって、すごく大変なことなのよ。やたらと忙しいし、気の休まる時もないし。それで私、子供の頃みたいに 自由に遊べる時間が欲しくなって、どうにかできないかとクロノスのところに相談に行ったのよ」
「クロノス?」
時の神クロノス。
その名を聞いた途端、アテナの聖闘士たちは、沙織の身に何が起きたのかを、薄々 察することになった――不本意ながら、察することができてしまった。
沙織の口から、案の定の言葉が飛び出てくる。

「ええ。でね。私一人だけが子供になっても、遊び相手がいないんじゃ詰まらないでしょ。それで私、いっそ 私と私の聖闘士ごと、この屋敷を 私が子供だった頃に戻してほしいと、クロノスに頼んだの。なのに クロノスは、人を過去に送ることや 特定の個人を子供にすることはできるけど、世界の一部を過去に戻すことはできないと言うのよ。だから、私は彼に『まるで使えないわね』と言ってやったわけ。事実でしょ。私は事実を言っただけ。でも、人間というものは――クロノスは一応 神だけど――事実を はっきり指摘されると腹を立てるものらしくて……。気が付いたら、こういうことになっていたのよ」
「沙織さん……。どうして、そんな、自分から災難を招くようなことを言うんです……」
瞬には、それは理解できない言動だった。
そんなことを言ったら、人は機嫌を損ねるに決まっているではないか。
ましてクロノスは神――時の神である。
機嫌を損ねた時の神が、自分の機嫌を損ねた者に対して何をしでかすか、想像できない知恵の女神ではないだろうに。
瞬は そう思ったのだが、当の知恵の女神は澄ましたものだった。

「だって私、クロノスがあんなに無能で みみっちい神だとは思っていなかったんですもの。もう少し有能で 太っ腹な神だとばかり思っていたのに」
「無能有能以前の問題です。この城戸邸を住人ごと過去に戻すなんて、そんな無謀な願いを聞き入れる方がどうかしている。こんな可愛い姿になってしまって……どうするつもりなんです」
「そんな心配することはないわよ。遊びたいだけ遊んだら、クロノスの機嫌を取って、元に戻してもらうから」
「遊びたいだけ遊んだら……って、ままごとや お人形さん遊びでもするつもりですか」
瞬のイメージする、女の子の好む遊びとは そういうものだった。
そして、そういう遊びに自分が付き合わされることを、瞬は恐れていた。
幸か不幸か、瞬が挙げた女の子らしい遊びを、沙織は鼻で笑ってくれたが。

「そんな 詰まらないことを、この私がするわけないでしょう。そんなことじゃなくて、私、一度でいいから、瞬みたいに 優しい いい子っていうのをやってみたかったの。私はこれから“優しい いい子”ごっこをするわ」
「は……?」
『さすがは神』と言うべきなのか。
沙織の発想は、確かに どこかが――というより、すべてが――普通の女の子とは違っていた。
「優しい いい子っていうのをやってみたかった――って、優しい いい子ってのは、やってみるもんなのかよ」
呆れた顔で ぼやいた星矢に、
「さあ。やったことがないから わからないわ」
沙織が 無責任を極めた答えを返してくる。

無責任でも無謀でも、その発言をしている沙織の姿が4、5歳の女児だということは紛れもない事実。
幼いアテナの姿は、アテナの聖闘士たちの危機感を大いに募らせることになった。
「とにかく、今の沙織さんには これまで以上にガードが必要だよ。意識や知能は大人のものみたいだけど、身体はまだ未発達な子供なんだから、転んで怪我なんかしたら危ないし」
「10代の沙織さんには 10代の少女とは思えない貫禄があって、敵も軽い気持ちで手出しできないところがあったろうが、5歳の幼女では、敵も侮って無謀な攻撃を仕掛けてくるかもしれん」
「今の沙織さん、口をきかなきゃ 結構可愛いから、ロリコンじじいに目をつけられたり、営利誘拐される危険だってあるかもしれねーよな」
その姿や年齢がどうであっても、アテナを守るのがアテナの聖闘士の何より大事な務め。
アテナの身に何かあったら、地上の平和も脅かされかねない。
アテナの聖闘士たちは、極めて真面目に、どこまでも真剣に、幼いアテナを守るための体制についての話し合いを始めた。

そんなアテナの聖闘士たちに、幼いアテナが明るく元気に、
「じゃあ、みんな、私についてきて。洋服を買いに行くわ!」
と、最初の命令を下してくる。
「は?」
「『は?』じゃないわ。見てわからないの。この恰好じゃ、私、“優しい いい子”ごっこどころか、人形遊びもしていられないでしょう。私の身の安全を図りたいなら、まず私の身体を外気や紫外線から守る皮のことを考えてちょうだい。あなた方は、解決すべき問題のプライオリティを間違っているわ。常識で考えてほしいわね」
「……」
常識で考えろと言われても、神話の時代から 現代までの人類の長い歴史の中で、こんな事態に遭遇したことのある人間が いったい何人いただろう。
もしかしたら、これは人類が初めて経験する珍事件。
こんな時に どう振舞うのが“常識”だというのか。
そんな常識は この地上に存在しないに決まっている。
それが、アテナの聖闘士たちの考えだった。

沙織が言うには、沙織の言葉に腹を立てたクロノスは、問答無用で即座に沙織を子供の姿にしてしまったらしい。
不器用なクロノスは(と沙織は言った)沙織の身体だけを子供に戻し、彼女が身に着けていた衣服までは子供用にリフォームしてくれなかった。
おかげで、ブラウスは ぶかぶか、ロングスカートは ずるずる。
スカートを穿いたままでは歩くことすらできそうになかったので、それはクロノスの許に放棄し、ブラウスだけを着て、沙織は この世界に戻ってきたらしい。
涼しい顔で沙織が語る これまでの経緯を聞いているだけで、彼女の聖闘士たちは その脳裏に、『前途多難』という四字熟語を思い浮かべることになったのである。
しかし、そんなアテナの聖闘士たちとは対照的に、幼い沙織の胸中にある四字熟語は おそらく『前途洋々』『悠々自適』。
沙織は むしろ、5歳の幼女になった自分を楽しむ気 満々でいるようだった。

「当座のことだし、オーダーメイドで服を作ってもいられないから、既成の子供服で我慢するわ。レースとリボンがたくさんついた 子供子供した洋服を買いに行きましょう。車を出して」
一人 張り切っている沙織のせいで、アテナの聖闘士たちは ますます疲労感を募らせることになったのだが、
「まあ、ここで 沙織さんに暗く落ち込まれても困るだけだ」
という紫龍の言葉で 懸命に自らを慰めつつ、彼等は沙織の お供で某百貨店に向かうことにしたのだった。






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