そうして無事に――婦人服売り場に足を踏み入れることなく――帰りついた城戸邸。
だが、瞬は そこで、ピンクのワンピースに代わる新たな試練に見舞われることになってしまったのである。
その試練を瞬の許に運んできたのは もちろん、姿だけは5歳の幼女である女神アテナ、そして グラード財団総帥 城戸沙織だった。
幼い子供だからこそ 許される3段フリルのドレスを身に着けた沙織が、
「あ、そうだ。瞬、申し訳ないけど、今夜 私の代理で財団各社の取締役懇親会に出席してちょうだい。そこで、グラード・ファーマシーの社長に、さりげなく引退の勧告をしてきてほしいの」
という、到底 幼い子供の頼みごととも思えないようなことを、瞬に命じてきたのである。

「は?」
「グラード・ファーマシー社の定年は社の就業規則で65歳ということになっているの。社長だろうが 代表取締役だろうが例外はないわ。なのに、グラード・ファーマシーの社長は、社をあげてのプロジェクトの途中だだの、2年前に立ちあげた5ヶ年計画の結果を見届けたいだのと理由をつけて、社長の椅子に執着しているの。で、他の代表取締役たちから、どうにかならないものかと陳情があったのよ。彼を これ以上 現在の地位に留めておいても 会社の格段の飛躍は望めそうにないし、今夜の懇親会で 私から引導を渡してやろうと思っていたの。心優しい私は 一応、彼の体面を考えて、こっそり 非公式に意見して 自発的引退を促す――という筋書きを書いていた。でも、こんなことになってしまって……」
「……」

それは、5歳の子供が書くような筋書きではない。
もちろん、65歳になろうとしている経験豊かな人物に 5歳の幼女が引退を勧告する場面が現出することは、(常識的には)あってはならないことだと思うが、だからといって、10代の少年なら それが許されるかといえば、決して そんなことはない。
何といっても、瞬はグラード財団総帥ではないのだ。
たとえ 沙織に全権委任状を書いてもらい、それを彼に提示したとしても、彼は総帥代理の子供の言葉に耳を傾けたりはしないだろう。

「そ……そんなこと、僕には できません」
「できないなんてことはないでしょう。『そろそろ引退を考えるようにとの、総帥からの お言葉です』って言えばいいだけのことよ」
「でも、相手は、相応の自信と自負を持った還暦過ぎの偉い人なんでしょう? 僕は、社会的には どんな地位も実績もない、ただの子供です」
「あら、あなたが ただの子供なんてことはないわ。案外、私が言うより効果的かもしれないわよ。あなたに にっこり笑って お願いされたら、誰だって ほいほい言うことをきくでしょう。大丈夫。あなたは氷の聖闘士の心さえ融かした手腕の持ち主よ」
「そんな無茶を言わないでください。僕には、沙織さんの威厳も権威もありません」

「そうそう。瞬は、沙織さんと違って敬老精神ってもんを持ってるし、氷河が融けてたのは、心じゃなく脳の方だろ」
「いっそ、その役目、瞬ではなく氷河に振ってみてはどうです。氷河は、自分の身内に対しては ともかく、他人には冷徹になることのできる男だ。自分の地位に固執する老人など、氷河が いちばん嫌いそうな相手だし、氷河は さぞかしクールに引退勧告をしてのけるでしょう」
瞬の窮状を見兼ねた星矢と紫龍の助け舟。
しかし、星矢と紫龍の友情の助け舟を、(幼い)グラード財団総帥は、
「この私の代理が氷河だなんて、冗談じゃないわ。私の可憐なイメージが壊れるでしょう!」
という理由で、あっさり 撥ねつけてくれたのだった。

成否を考えず、単に 老人に『引退を考えろ』と伝言するだけなら、白鳥座の聖闘士は 極めて冷淡に、龍座の聖闘士は 義務的もしくは事務的に、天馬座の聖闘士は 能天気に、その職務を遂行してのけるだろう。
アテナの聖闘士の中で唯一、相手の立場を思い遣ってしまい、そんな伝言すらできなさそうな瞬に、あえて その仕事を命じる理由が『グラード財団総帥の可憐なイメージを守るため』とは。
沙織が口にした、極めて個人的な その理由に、氷河は さすがに憤りを覚えたらしい。
彼は、畏れ多くも 彼の直属上司であり、知恵と戦いの女神でもある沙織に対して、彼にしてはクールな口調で、
「何が可憐だ。沙織さんの“かれん”は、苛斂誅求の“かれん”だろう」
と言い放つという暴挙に出た。

傍から見れば、その様は、でかい図体をした男による、5歳の女児への いじめ以外の何物でもない。
とはいえ、その女児の中身は グラード財団総帥にして 戦いの女神。
当然 次に起きるのは、沙織による氷河への反撃だろう――と、紫龍は思った。
瞬も思った。
沙織に嫌味を言った当の氷河も思っていた。
その場で ただ一人、星矢だけが そう思っていなかったのである。
「かれんちゅうきゅうって、何だ? どういう字を書くんだ? どういう意味だよ?」
という、超根本的かつ切実な(?)事情のせいで。
間の抜けた星矢の質問のせいで、場の緊張感が急激に薄らいでいく。
星矢の質問に答えたのは、その言葉を口にした氷河ではなく(氷河は、仲間の阿呆な質問に答えてやるほどの親切心を持ち合わせていなかった)龍座の聖闘士だった。

「苛酷の“苛”、収斂の“斂”、天誅の“誅”、要求の“求”――字義としては、“つらく当たる”“集める”“成敗する”“求める”――要するに、情け容赦もなく税を取り立てることだ」
「ああ。権力者の得意技かぁ」
やっと氷河の嫌味の意味を理解して、星矢が腑に落ちた顔になる。
そして星矢は、しみじみと彼の権力者の前で頷いた。
「比喩でも冗談でもなく まじで、俺、毎日 沙織さんに生気と小宇宙を取り立てられてる気がする。今日の買い物のこと 思い出すだけで気が遠くなって、倒れそうになるもんな。たった今も、意識保って 立ってるのがやっとだぜ。……えっ !? 」
その言葉を言い終える前に、星矢の身体は なぜか ラウンジの中央にあった3人掛けのソファの真ん中に叩きつけられていた。

いったい何が起こったのか、星矢は咄嗟に理解することができなかったのである。
それは、星矢以外のアテナの聖闘士たちも同様。
どうやら 沙織が その小宇宙の力で天馬座の聖闘士の身体を突き飛ばしたために そういう状況が現出したのだということを 星矢が理解したのは、沙織が――5歳の幼女が――ソファに倒れ込んだ天馬座の聖闘士の顔を 得意げに覗き込んでいることに、彼が気付いたからだった。
「沙織さん、急に 何すんだよ!」
「私の前だからって遠慮して立っていることはないわ。立っているのがつらいのなら、座っていいのよ」
「……」
沙織は もしかしたら、その乱暴――乱暴だろう――を、目下の者に対する権力者からの厚情として行なったのかもしれなかった――少なくとも彼女は そう認識しているようだった。
そんな心優しい権力者に対して、星矢が 思い切り嫌そうに顔をしかめてみせる。

「そんなこと、口で言えばいいだろ! ったく、何が『“優しい いい子”をやってみたい』だよ! これじゃ、ただの暴力幼女じゃないか!」
「星矢。暴力幼女というのは、アテナに対して、いくら何でも口がすぎるだろう」
氷河に続いて星矢まで。
現在の沙織の姿に惑わされて 彼女が何者であるのかを忘れ 言いたい放題をしている仲間たちの態度を、紫龍は さすがにまずいと思うことになったらしい。
いかにも形ばかりという風情ではあったが、彼は仲間たちの不敬を たしなめることをした。

「でも、事実じゃん」
紫龍に注意された星矢は、その気持ちを隠そうともせず 口をとがらせたのだが、そこに思わぬ離反者が現われた。
自分の味方だと星矢が信じていた白鳥座の聖闘士が、突然、
「たとえ沙織さんといえど、今は5歳の女の子の姿をしているんだぞ。そんな小さな子供に ちょっと押されたくらいで倒れるなんて、おまえの足腰の鍛え方が足りんとしか思えん。おまえ、最近、トレーニングをさぼってるんじゃないのか」
などということを言い出したのだ。
氷河には 別に仲間を裏切るつもりはなく、彼は ただ、その場の話題を取締役懇親会の上から どこかに逸らそうとしただけだったろう。
が、そんなことは星矢には わからない。

「んなわけねーだろ!」
星矢が、きっぱりと氷河の推察を否定する。
きっぱり否定した側から、だが 星矢は 少々 不安になってきてしまったのだった。
「お……俺、やっぱ、ちょっとジムでトレーニングしてくるわ」
「あ、なら、僕も一緒に行く!」
と、その場を逃れたいの一心で 瞬が星矢への同道を申し出、星矢と瞬が手に手を取って(?)沙織の前から逃亡。
氷河が そんな二人を黙って見送るわけもなく、沙織と二人きりになることは さすがに避けたかった紫龍もジムに移動。
問題は、そんなアテナの聖闘士たちのあとを、結局は5歳の幼女も追いかけてきたということだった。
それも 手ぶらではなく、その手に凶悪な武器を持って。






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