とはいえ、アテナの聖闘士たちに30分ほど遅れて 城戸邸本館に併設されているジムに沙織が姿を現わした時、アテナの聖闘士たちは 沙織が手にしているものが凶悪な武器だとは気付いてもいなかったのである。
5歳の幼女である沙織が持っていたのは、ステンレス製の水筒と、アテナの聖闘士たち 人数分の 透き通ったポリエチレン製のコップ。
彼女は、
「優しい いい子の私 特性のスポーツドリンクよ。あなたたちのために、私が手ずから作ってきたわ」
と あどけない笑顔でアテナの聖闘士たちに言ったのだから。

「沙織さんのお手製?」
見たところ、それは、いわゆるレモン水のようだった。
水が冷たいせいか 大量の砂糖が水筒の底に沈んでいるのが見てとれたが、水と砂糖とレモン果汁を混ぜ合わせただけの飲み物が、まさか毒に変貌するということは考えられない。
畏れ多くも女神アテナが その手で作ったというレモン水が 彼女自身の手でコップに注がれ、それらがアテナの聖闘士たちに手渡される。
それでも――何か不吉な予感がして、アテナの聖闘士たちは なかなかそのコップに口をつけることができなかったのである。
最初に意を決して それを飲み干したのは、特攻兵役の天馬座の聖闘士だった。
男らしく(?)、アテナ手製のレモン水を一気に飲み干す。
途端に、星矢は、
「うわあああぁぁぁっ!」
という とんでもない雄叫びをあげて その場に倒れ伏し、腸捻転を起こしたミミズのように じたばたと途轍もない勢いで 床の上を転げまわり始めた。

「せ……星矢 !? 」
まさか本当に沙織が、彼女に対して不敬を働いたアテナの聖闘士を毒殺しようとしたのだとは考えられない。
しかし、全く疑わないわけにもいかなくて、瞬は星矢が放り投げたカップの中身を確認してみたのである。
カップの底には、半透明の沈殿物。
その結晶を見て、瞬は星矢の苦悶の訳を理解した。
沙織は おそらくレモン水を作る際、砂糖と塩を間違えるという超古典的なミスを犯してくれたのだ。
「氷河、紫龍! 星矢が飲んだのは、飽和状態の食塩水だよ!」
「なんだとっ」
星矢の身に何が起こったのかを知った紫龍は、すぐさま状況分析に取りかかった。

「水温が10度だとして、食塩の溶解度は26.3グラム程度。星矢が飲んだ量が150CCだとして、26.3×150÷(100−26.3)で、星矢が摂取した食塩の量は約53.5グラム。星矢の体型だと、致死量ぎりぎりというところか。聖闘士の体力なら、まず死ぬことはあるまい」
「死ぬことはあるまい――って……」
問題は、そういうことではないだろう。
問題は、現在の星矢の苦しみを やわらげてやらなければならないということだった。
それも できるだけ速やかに、星矢の人間としての体力がもつうちに。
瞬は すぐに仲間たちに指示を飛ばした。
「氷河、水を――グラスじゃなく、ポットで持ってきて。紫龍、警備の鈴木さんがカリウムの錠剤を携帯してるはずだから、それを もらってきて。僕は星矢を温めて、汗をかかせるから」
「わかった」
「鈴木さんは高血圧だったのか。すぐ もらってくる」

氷河と紫龍がジムを飛び出ていくと同時に、瞬が小宇宙を燃やして、苦悶に転げまわっている星矢を その小宇宙で包む。
1リットルほどの水の摂取と カリウムと発汗によるナトリウム排出。
迅速かつ適切な処置で、星矢は“塩分の摂りすぎによるアテナの聖闘士死亡”という不名誉を かろうじて免れることができたのだった。
あまりの辛さに床をのたうちまわった際、エクササイズ・マシンの金具で腕に切り傷を負った星矢のために 沙織が塗り薬を持ってきたこと、その塗り薬が なぜかチューブに入った練りワサビだったこと、自分が皮膚外用剤ではなく練りワサビを持ってきた理由を、沙織が『棚の上の救急箱に手が届かなくて、ワサビなら殺菌効果がありそうだったから』と告げたことは、この場合、些細な問題だったろう。






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