沙織の買い物のせいで精神的疲労を負わされ、弱り、塩分の摂りすぎで命を落としかけ、とどめに怪我にワサビを擦り込まれ――星矢はすっかりアテナ恐怖症になってしまっていた。
否、星矢が罹った病は 幼女恐怖症とでも呼ぶべきものだったかもしれない。
5歳ではなく10代の沙織は、少なくとも 塩と砂糖を間違えたり、棚の上の救急箱に手が届かず 軟膏の代わりにワサビを持ってくるなどという失態を演じることはないのだから。
10代のアテナに対しても平気で横柄な口をきいていた星矢が、5歳の幼女の前で 床に額を擦りつけ、
「もう二度と暴言は吐きません」
と謝る姿は 哀れを極めていた。


「星矢、今日は踏んだり蹴ったりだったね。沙織さんに悪気はなかったと思うけど……」
「沙織さんに、もし悪気があったなら、俺はたった今 アテナの聖闘士でいることをやめるぞ」
「沙織さんが子供の姿にされちゃったのも、星矢が塩で死にかけたのも、原因は 余計な一言を言っちゃったせいなんだから、氷河も紫龍も 失言には――特に神様への失言には 気をつけてね。僕も気をつけるから」
「瞬が犠牲者になることは考えられないな。氷河は かなり危険だが」
「何にしても、災難の降りかかったのが おまえでなくてよかった」
「氷河、そんな言い方は星矢に悪いよ」

その夜、星矢は、
「沙織さんの顔が恐くて見れない」
と言って、夕食も自室で一人で食べた。
明日には星矢の幼女恐怖症が治っていることを期待しつつ、アテナの聖闘士たちは、いつもより かなり早い時刻に それぞれの部屋に戻ったのである。

幼女沙織の手になる次の事件は、その夜 起こった。
場所は、瞬の部屋。
犠牲者は、『瞬が犠牲者になることは考えられないな』と、紫龍に その身の安全を保証されていた瞬その人だった。

聖域と聖闘士を統べる女神アテナと グラード財団総帥という二足の草鞋を履いている沙織は、もともと一日の睡眠時間を4時間程度に抑えていた。
5歳の幼女になっても、身についた その習慣を、沙織は変えることができなかったのだろう。
そろそろ今日が明日になろうという時刻、沙織が瞬の部屋に飛び込んできたのである。
「瞬! 図書館で懐かしいものを見付けたの。グリとグラの絵本! 読んでちょうだい!」
と、むやみやたらに元気な声で言いながら。

この場合、なぜか瞬の部屋のベッドの上に氷河がいる理由を、
「あら、氷河。あなた、どうして 瞬の部屋にいるの」
と問うた5歳の幼女に罪はあるだろうか。
罪はむしろ、自室に戻った振りをして 家人に気取られぬよう こそこそと瞬の部屋に移動し、部屋の主をベッドに押し倒した上、その唇にキスをしながら 瞬の衣類を剥ぎ取ろうとしていた氷河にこそあったのではないだろうか。
少なくとも、そんな場面を沙織に見られてしまったショックで全身を凍りつかせてしまった瞬よりは、氷河の非の方が大きいことは確かだったろう。

その時、瞬は もしかしたら、氷河の小宇宙の中に逃げ込むことで 沙織の目を逃れようとしたのだったかもしれない。
あるいは、氷河とのことを沙織に知られるくらいなら、永遠の眠りに就いた方が はるかにましだと思ったのだったかもしれない。
いずれにしても、沙織の闖入に気付いた瞬は、その時、氷河の凍気を自らの身体の中に取り込み 我が身を凍りつかせることで、沙織の追求を逃れようとしたのだ。
ベッドの上で氷像のようになってしまった瞬の姿は、他に解釈のしようがない“もの”になってしまっていた。

「瞬! 瞬、おい、どうしたんだっ!」
「あら……」
沙織は もしかしたら、白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が そういう関係にあることを、以前から気付いていたのかもしれなかった。
氷河の下で(幸いにも着衣のまま)凍りついている瞬を見ても、彼女は全く動じた様子を見せなかった。
慌てず 騒がず、
「世話が焼けるわねえ」
と言いながら、彼女は 神の小宇宙で 瞬時に 氷像になった瞬を解凍してのけたのである。

「あれ、僕、いったい……」
意識を取り戻した瞬が、ベッドに身体を起こして周囲を見回したのは、彼が我が身を凍りつかせてから僅か2分後。
ベッドの脇に 氷河と 絵本を抱えた沙織がいることを認めて、瞬は つい先刻 何があったのかを思い出してしまったらしい。
「わああああっ!」
改めてパニックに陥った瞬は、頭から毛布をかぶって我が身を覆い、氷河が なだめても すかしても、決して そこから顔を覗かせようとはしなかった。


明けて翌朝。
一生 ベッドの中に隠れていることはできないと悟り、やっと そこから抜け出てきた瞬は、
「沙織さんが元に戻るまで、僕は絶対に 氷河とああいうことはしません」
と、氷河に宣言した。
沙織の姿が5歳の幼女でも 10代の少女でも、その小宇宙さえ健在なら何の問題もないと(実は)考えていた氷河は、事ここに至って初めて、沙織を元の姿に戻すための方策を真面目に考え始めたのである。






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