沙織の姿を元に戻すにはどうすればいいのか。 現実問題として、それは、アテナの聖闘士が100年考えても どうにもならないことだった。 沙織の姿を元に戻すことができるのは、沙織の姿を幼女のそれに変えた、時の神クロノスだけなのだから。 だから、その日、アテナの聖闘士たちは打ち揃って 時の神クロノスの許に出掛けていったのである。 アテナの姿を元に戻してほしいとクロノスに頼むはずの話し合いの場が、クロノスへの文句から始まってしまったのは、時の神の前で最初に口を開いたのが、現状に最も強い危機感を抱いている氷河その人だったから――だった。 「沙織さ――アテナが負けん気が強くて 口が悪いことは、俺たちも よく知っている。アテナの生意気な発言が腹に据えかねた貴様の気持ちも、俺にはよくわかる。だが、アテナに お仕置きをするのなら、アテナを一人だけ どこかに飛ばしてしまえばよかっただろう。俺たちを巻き込まないように。いや、誰にも迷惑をかけないように、アテナ一人を 神話の時代にでも原始時代にでも飛ばしてくれればよかったんだ!」 今は とにかくクロノスの機嫌を損ねないようにしなければならないというのに、氷河の口調は横柄そのもの。 氷河の仲間たちは、機嫌を損ねたクロノスによって、自分たちまでが沙織と同じ目に合わされてしまうのではないかと、それを案じたのだが、氷河の横柄な態度にもかかわらず、クロノスの反応は意外や穏やかなものだった。 俺は低く重々しい声で、 「アテナの我儘には呆れたが、あれを おまえたちと引き離すのは酷だろうと思ったのだ」 と答えてきた。 「僕たちからアテナを引き離すのは酷? それはどういう意味です。あなたは なぜ そんなふうに思われたんですか」 氷河に重ねて余計な一言を言わせないために、瞬が氷河の前に出て 時の神に問い返す。 問われたクロノスが語った物語は、アテナの聖闘士たちが5歳の幼女から聞いたものとは、少々その内容が違っていた。 「アテナは、私のところに、世界の時を元に戻してほしいと頼みに来たのだ」 「え?」 何よりもまず 氷河と星矢に口を開かせてはならないと、そのことだけに注意していた瞬は、クロノスの言葉の意味を 本来の彼より1、2秒遅れて理解し、そして驚いた。 「世界の時を元に戻す――って、この世界全体を過去に……ですか?」 沙織は何を考えて そんなことをクロノスは願ったのか。 そんなことができるはずがない。 できたとしても、してはいけないことである。 それはアテナも わかっているはずなのに。 瞬の驚きを、クロノスは当然のものと受け取ったらしく、彼は瞬ではなく そんな願いを願ったアテナに対して呆れているような声を その場に響かせた。 「この世界ごと 子供の頃に戻って あの頃をやり直すことができたなら、最初からアテナの自覚をもって 皆に優しくできたなら、おまえたちを つらい目に合わせずに済んだのかもしれない、死なせずに済んだ命もあったかもしれないと、あれは言った。あれは 本当に人間に近付きすぎた――人間を愛しすぎている。あげく、自分は神なのに、なぜ神である自分が後悔するのだと、阿呆なことを言い出しおった。後悔など、あれが勝手にしているだけのことではないか」 「沙織さんが、そんなことを……」 後悔する神。 過去をやり直したいと願う神。 それは何と人間的な神だろう。 瞬は これまでに自分が戦ってきた神たちのことを1柱1柱 思い出してみたのである。 彼等は誰も――人間であるアテナの聖闘士たちに我が身を滅ぼされる その瞬間にさえ、己れの言動を後悔してはいなかった。 最期まで――最期の一瞬間にすら、ただ神としての傲慢と誇りだけを胸に、彼等は滅んでいった。 アテナは確かに 神としては異質なのだろう。 クロノスの言う通り、彼女は人間を愛しすぎている――人間に近付きすぎた――のだ。 瞬は、沙織の真意を知らされた仲間たちの顔を見た。 瞬の仲間たちは皆 一様に、人間を愛しすぎた彼等の人間的な女神に同情しているように見えた。 人間に同情される神。 おそらく それもまた稀有な存在であるに違いない。 「そ……それで、アテナは――あなたは――」 「それでもこれでもない。人間を過去に送り込むことや 特定の個人の時間を過去に戻すことはできても 世界全体を過去に戻すことはできぬと答えたら、あれは、この時の神に対して、意外に能無しだとか、使えない神だとか、憎まれ口を叩きおった。だから、お仕置きに あれ一人だけを子供に戻してやったのだ」 「クロノス……」 アテナも神としては異質だが、クロノスも大概である。 全知全能 完全無欠とされている一神教の神たちと違って、ギリシャの神々は決して完璧な存在ではない。 瞬は 意地っ張りで いたずら好きのクロノスに呆れ、その子供っぽい意地の悪さに嘆息した。 だが、なぜか彼を嫌いになることはできない――。 「そんなことになっても、おまえたちがついていれば、あれは大丈夫だろうと思ったしな。で、あれは今、どうしているのだ」 「沙織さんは――アテナは、過去をやり直そうとして、失敗ばかりしています」 幼い子供の姿に戻り、その姿に引きずられて 大人の分別と加減を忘れ、我儘になってしまったのだと思っていた沙織。 だが、そうではなかったのだ。 アテナの聖闘士たちに余計なほどの洋服を買い与え、神の前での着席を許し、女神 手ずから塩でできたスポーツドリンクを作り、怪我をした聖闘士のために練り薬ならぬ練りワサビを持ってきた幼い沙織。 彼女には、もちろん悪気などなかった。 彼女は、本当に本気で“優しい いい子”になろうとしていた。 幼い聖闘士候補たちに『馬におなり』と命じていた頃の自分を悔いて、彼女は彼女なりに 精一杯、彼女の聖闘士たちに 優しく接しているつもりだったのだ。あれでも。 優しく接しようとして――沙織の“優しい いい子”ごっこは、その ことごとくが失敗に終わってしまっていた。 “優しい いい子”というのは、やはり やってみたいと思ってできるものではないらしい。 「僕は……僕は、アテナの聖闘士になるため、アテナの聖闘士になってからも――確かに つらいことは多かったけど、みんなに会えて、みんなと一緒に地上の平和のために戦えて、本当に よかったと思ってる。ねえ、こんなに信じ合える仲間に巡り会える人なんて、一瞬も ためらうことなく命だって投げ出せるほどの仲間に会える人なんて、この広い世界に きっと数えるほどしかいないよ。これまでに僕が経験してきた たくさんのつらいことがなかったら、今の僕の幸せはない」 アテナの心は嬉しい。 本当に嬉しい。 彼女に出会えて、他のどんな神でもなく彼女の聖闘士になれて 本当によかったと思う。 だが、彼女は間違っている。 そう思う自分の考えが正しいかどうかを確かめるために、瞬は仲間たちに そう言った。 「沙織さんが最初から“優しい いい子”だったら、俺たち、庇い合ったり支え合ったりする必要もなかったしなー」 打てば響くような素早さで、星矢が瞬の考えに賛同し、 「確かに」 紫龍が 楽しそうに苦笑する。 「おまえが それでいいと言うのなら、俺もそれで構わないが……。今 おまえが自分を幸せだと思っているのなら」 アテナの聖闘士になるために望まぬ修行を強いられて、泣いてばかりいた幼い頃の瞬。 アテナの聖闘士としての戦いの中で、敵を傷付けるたびに苦しんでいる瞬。 氷河の記憶の中では、瞬のそういう姿ばかりが特に鮮明なのかもしれない。 星矢や紫龍と違って、氷河だけが『過去の修正など必要はない』という瞬の考えに不満を抱いているようだった。 「もちろん、僕は幸せだよ。みんながいてくれるもの――氷河がいてくれるもの」 瞬に そう言われて、最終的に氷河も瞬の考えに賛同してくれたが。 そうして――。 「のちほど、アテナに こちらに来るよう、説得してみます。その時には、あまり意地悪はなさらずに、アテナを元の姿に戻してやってください」 クロノスに そう告げて、アテナの聖闘士たちは、彼等の女神の許に戻ったのである。 |