そのツバメは、怪我をして飛べずにいた時期が パートナーを見付ける時期に重なっていたせいか、その年、彼と番になるべきメスに出会うことができなかったようだった。 ツバメの生態として そんなことがあり得るのかどうかは 瞬にはわからなかったが、彼は 彼が育てるヒナを持てないまま、日本での夏を過ごすことになったのである。 ツバメは 子育てのために日本にやってくるような鳥なのに、エサを運んでやる子供がいない。 そのせいで 時間を持て余すことになったのか、そのツバメは、毎日 城戸邸の庭に飛んでくるようになった。 まさか、瞬を 自分が育てるべきヒナの代わりにしようとしたのではないだろうが、ツバメは 瞬が城戸邸の庭で泣いていると必ず慰めにきてくれるようになったのである。 もっとも、瞬は毎日 泣いているようなものだったので、彼は 瞬が泣いている時に限らず、瞬が庭に出ているのを見付けるたびに 飛んできているだけだったのかもしれないが。 瞬が庭に出るのは 兄や仲間に 涙を見せないようにするためだったのだが、ツバメの前でまで涙を隠す必要もない。 泣いている瞬の心を、彼は いつも、その姿とその声で慰めてくれた。 黒いと信じていた鳥の 宝石のような青色に感動して、“アオちゃん”と名付けた小さなツバメ。 彼は、瞬が庭に出ると、空中で鋭い旋回を見せ、『キュルルル、キュルルル、キュルルル、ジー』と独特の鳴き声を響かせて、一直線に瞬の許に下りてくる。 「アオちゃん」 それが自分の名だとツバメが理解しているはずはないのだが、瞬が それまで涙を拭っていた手を前方に差し出して 名を呼ぶと、彼は その手に ぴょんと飛び乗ってきた。 そして、もう一度 鳴くのだ。 今度は瞬を慰めるために、『キュルルル、キュルルル、キュルルル、ジー』と。 彼に出会うと、瞬の涙は すぐに乾いた。 彼が 彼の命を救ってやった人間の存在を忘れずにいてくれることが嬉しくて。 無力な子供にすぎない自分が、一つの命を救うことができた事実が嬉しくて。 だが。 心優しいツバメが 毎日 慰めに来てくれても、つらいことや悲しいことは 日々 起きる。 だから、瞬は、彼に出会ってからも毎日泣いていた。 夏が終わっても、秋が来ても、秋が深まっても。 ツバメは毎日、そんな瞬を慰めに来てくれた。 夏が終わっても、秋が来ても、秋が深まっても。 “秋が深まっても”。 瞬は知らなかったのである――否、知らなかったのではなく、忘れていた。 ツバメが渡り鳥だということを。 だから――そんな重要なことを忘れていたから――心優しいツバメが毎日 自分の許に飛んできてくれることを、その意味も考えずに、瞬は無邪気に喜んでいた。 そんな時、瞬は、城戸邸の図書室で、『幸福の王子』の絵本を見付けたのである。 南に旅立たなければならないというのに、貧しい人々を救おうとする王子の手助けをしていて、南の国に帰り損ねてしまったツバメの話。 仲間たちは皆、南の国に旅立ったというのに、ただ一羽、寒い国に残り、王子と共に死んでしまう心優しいツバメの物語。 ツバメは冬になると凍えて死んでしまうという事実に、瞬は その段になって やっと思い至った――思い出したのだった。 崩れ落ちた王子の銅像と小さなツバメの身体を半ば覆い隠してしまった白い雪。 その絵が描かれたページを見て真っ青になった瞬は、すぐさま 庭に飛び出した。 いつもなら、瞬が庭に出てくるのを待って、瞬の許に 飛び下りてくる優しいツバメ。 そのツバメが、その日は 瞬よりも先に庭にやってきていて、瞬が庭に出てくるのを待っていた。 その日が、彼が自分の翼で空を飛んでいることのできる最後の日だったのだろうか。 ツバメは、城戸邸の庭の、今は花も葉もないカエデの木の根方に横たわっていた。 そうして、その時 初めて、瞬は知った――理解したのである。 とうの昔に 南の国に向かって旅立っていなければならなかったのに、泣き虫の子供のために、彼は南の国に渡らずにいてくれたのだということを。 瞬は絵本の王子と違って、誰かを助けることもなく、ただ 自分の不幸を嘆いているだけの子供だった。 だというのに――そんな瞬のために、愚かで無力な子供のために、心優しいツバメは死にかけているのだ。 ツバメの体温は40〜42度。 その体温は外気温に左右される。 40度の体温を維持できなくなるほど低い気温の環境下では、ツバメは生きていることができない。 夏は とうに終わり、季節は秋。 既に日中でも最高気温は20度に届かなくなっていた。 変温動物であるツバメには、40度の体温を維持することは不可能といっていい気温である。 ツバメの身体は、瞬の手の中で どんどん冷たくなっていった。 これまで手で包むと、いつも瞬の手より温かかったツバメの身体が急激に冷えていく。 瞬は、途方に暮れたのである――否、ほとんどパニック状態に陥っていた。 冷たくなっていくツバメを 城戸邸の中に運んでも、そこに気温が40度もあるような部屋はない。 それ以前に、ツバメを城戸邸に運んで、万一 大人たちに見付かってしまったら、ツバメの命を救うどころか、逆に外に捨てられてしまうことにもなりかねない。 瞬は、泣き虫の子供を慰め励ますために 瞬の許に留まっていてくれた心優しいツバメのために 何をしてやることもできなかった――どんな力も持っていなかった。 だから、瞬は祈ったのである。 『神様、どうか この子を助けてください』と。 他に できることがなかったから。 瞬は本当に無力な子供だったから。 しかし、瞬が どれほど祈っても、神様は 死にかけているツバメを助けてはくれなかった。 神様は 健気なツバメのために、どんな奇跡も起こしてはくれなかった。 高い空の上にある太陽は、小さく弱々しい秋の顔のまま、ツバメのために微笑むことさえしてくれない。 瞬は腹が立ったのである。 ツバメの命ひとつ救えない神、救おうとしてくれない神様に。 もちろん、無力な自分自身にも。 この子が助かるのなら 自分の命などいらないと、瞬は本気で思った。 心の底から そう思った。 この心優しいツバメには、自分よりも生きる価値があるのだと。 だというのに――それでも神は、健気なツバメのために何もしてくれなかったのである。 神様には頼れない。 誰も、この子を救ってはくれない。 それが、この世界の冷酷な現実だった。 そして、おそらく、この健気で優しいツバメの命を助けたいと願っているのは、この広い世界に瞬一人だけ。 それが現実なのだ。 冷酷で残酷なこの世界の、それが現実。 瞬は これまで、この世界や この世界で生きている人間たちに対して、怒りを感じたことはなかった。 瞬が 世界のありようや 自分が置かれている境遇を つらく悲しいと思う気持ちは、その半ば以上が諦観から成っていて、その気持ちに 怒りの感情は含まれていなかった。 だが、瞬は今 生まれて初めて、そんな世界に、本気で、心の底から、怒りを感じていた。 なぜ この子が死ななければならないのか。 なぜ 不幸を嘆くばかりの愚かな子供ではなく、この心優しいツバメが死ななければならないのか。 そんなことは あってはならない。 この地上に生きる どんな人間よりも優しい心を持っている この命は失われてはならない。 そんなことはあってはならないのに、だが、誰も 死にかけているツバメを助けにきてはくれない。 そんな間違った世界は 正されなければならない。 しかし、神には頼れない。 不幸なツバメを助けることができるのは、彼のために祈っている ただ一人の小さな人間だけなのだ。 自分が、この子を助けなければならない。 絶対に死なせてはならない。 死なせて なるものか――。 それは怒りだったのか、それとも祈りだったのか――。 いずれにしても、それが諦観でないことだけは確かだった。 必ず助ける。 その思いが高まり、燃え上がり、爆発しそうになり――実際、その思いは爆発したのである。 そして、瞬の周囲は温かくなった。 瞬の身体、瞬の周囲、そして、瞬の手の中にいる 宝石のように青いツバメの身体も。 微動もしなくなっていたツバメの身体が 小さく揺れ、『キュルルルル』という小さく短く微かな声が、瞬の耳に届けられる。 「アオちゃん!」 嬉しいのに――嬉しいはずなのに、涙が止まらない。 自分の手の中にいる、小さなツバメの姿が涙で にじんで はっきり見えない。 優しく健気なツバメは死ななかった――生き返った。 わかることは、ただそれだけ。 神の力ではなく、無力な子供の願いの力で、優しいツバメの命は蘇った。 『キュルルル、キュルルル、キュルルル、ジー』 心優しいツバメの、これまで通りに元気な声。 それが、瞬が小宇宙を燃やすことのできた、最初の時だった。 |