「そんなふうに……あの時 初めて、僕は僕の小宇宙を燃やすことができたんだ……」
「ちょ……ちょっと待てよ! あの時 初めて――って、おまえ、まだアンドロメダ島にも行ってないだろ!」
星矢の突っ込みは至極当然のものだったろう。
それでは、隠れて試験勉強をする前に、瞬には 試験で100点をとるだけの学力が備わっていた――ということになってしまう。
スタートラインに立つ前に1着になることが決まっていた、戦いを始める前から 敵に勝利することが決まっていた――ということではないか。
あまりといえば あまりな話に 口をとがらせている星矢の横で、氷河と紫龍も 驚きに目を見開いている。
そんな仲間たちに、瞬は申し訳ない気持ちいっぱいで、小さく頷くことになったのだった。
嘘は、つけないから。

「うん……」
「まじかよー……」
呆れ果てて 続く言葉が出てこないらしい星矢に、瞬は遠慮がちな声で弁明を試みたのである。
自分は隠れて試験勉強をしていたのではないし、そんなことをしたつもりもなかったのだ――と。
「で……でも、僕、その時には、あれが小宇宙だなんて気付いてなかったの。ただ、アオちゃんを助けなきゃって思うと、僕の周りの空気が温かくなって――それで、その冬、アオちゃんは 日本で生き延びた――日本で冬を越したんだ」
「つまり、おまえは、俺たちに隠れて、俺たちにも何にも言わず、一冬 小宇宙を燃やしまくってたわけか?」
「だって、もし 辰巳さんにばれたら、どんなことになるか わからなかったから……。星矢なんか、特に隠し事が苦手でしょ」
「そりゃ そうだけどさー……」

『それはそうだろうが、仲間なのに水臭い』
星矢の不満は、城戸邸に集められた子供たちの中で いちばんの泣き虫だった瞬が自分より早く小宇宙を燃やす術を体得していたことではなく、その点にあるようだった。
『俺たちは 仲間なのに』
星矢の気持ちが わかるから、瞬は反駁の言葉もなく 星矢の前で身体を縮こまらせることになったのである。
幸い、紫龍が、
「実に妥当な判断だな。星矢に そんなことを打ち明けていたら、星矢は辰巳のいる場所で『俺は秘密を守るぞー!』と 大声で宣言するくらいのことを しかねない」
と助け舟を出してくれた おかげで、瞬の肩身の狭さは多少 緩和されることになったが。

「そうして、春になって――南に渡ったアオちゃんの仲間たちが日本に戻ってきた頃、僕はアオちゃんを 空に放してやったんだ」
「おまえがアンドロメダ島に行ったのって、そのあとかよ。つまり、おまえは 小宇宙持参でアンドロメダ島に行ったのか?」
「そういうことになるのかな……。でも、僕、ほんとに、あの時にはまだ、あれが小宇宙だって気付いてなかったんだよ」
だから、仲間たちと離れてアンドロメダ島に向かう瞬の胸の中は不安でいっぱいだったし、心のどこかで、これが仲間たちとの今生の別れになるかもしれないという覚悟もしていた。
あの時 流した涙も 決して嘘ではなかった。
瞬は そのことだけは 仲間たちに誤解されたくなかったのである。
星矢も それはわかってくれているらしく、『おまえのこと、心配して損した』などという言葉は口にしなかった。
そんな言葉の代わりに、星矢が 瞬のツバメのその後のことを尋ねてくる。

「で、そのツバメは、そのあとはどうしたんだ? おまえは、それからすぐに アンドロメダ島に送られちまったんだよな? そいつは、一人でも――いや、一羽でも 強く生きていったわけなのか?」
そんな健気なツバメの話を聞かされてしまったら、『そうして、心優しいツバメは いつまでも幸せに暮らしました』というハッピーエンドを望むのは、人として当然のこと。
星矢も もちろん そのつもりで尋ねたのだったろう。
その質問に対する答えは、だが、瞬からではなく紫龍から与えられた。
「星矢。ツバメの平均寿命は確か、1年半ほどのはずだ」
と。
「い……1年半? たった?」
だとしたら、アンドロメダ島に送られ、そこで6年間を過ごした瞬には、ツバメの その後のことなど知りようもない。
だから そんなことは訊いてやるなと、言葉にはせず 紫龍が星矢に言う。
紫龍の、それは彼の思い遣りから出た忠告だということは、瞬にもわかっていた。
しかし瞬は、そんな仲間たちの前で 首を横に振ったのである。

「それは……ツバメって、戦うことができないんだ。だから、カラスや猫に攻撃されると 十中八九 命を落としてしまうの。だから、ツバメの平均寿命は1年半しかないんだ。その上 ツバメは人里離れた山奥とかじゃなく市街地に巣を作るから、事故にも会いやすいし……。でも、外敵に襲われず、事故に会うこともなければ、平均で7年は生きるんだよ。15年以上生きてたツバメの記録も残ってる。ツバメは……本当に戦うことを知らない生き物なの。だから、本当は生きられてるのに、みんな2年足らずで死んでいくんだよ」
「そうなんだ……」

戦う術を知らないツバメ。
そんなツバメのために 瞬は戦う術を手に入れたというのに、それはいったいどういう皮肉なのか。
そう 考え、疑って、星矢の表情は暗くなったようだった。
瞬は 瞬の心優しいツバメと二度と会うことはなく、もう瞬のツバメは この世に生きてはいないのだと考えて。
瞬は、そんな星矢の優しさが嬉しくて――彼の仲間として誇らしくて――仲間の顔を見詰めた。
「戦う術を持たないツバメは、でも、戦う術を持っている者とは別の戦い方で戦って、自分の命を生きるんだよ。幸か不幸か、僕のアオちゃんは 僕の小宇宙に包まれているから――」
言いながら、瞬は ベランダに出たのである。
戦う術を持たず、それゆえ短い命をしか持たないツバメの生を思いながら、瞬は、気持ちを沈ませている仲間のために、そこで小宇宙を燃やした。

「聖衣を手に入れて 日本に帰ってきた僕は、アオちゃんのことを思いながら、庭に出て 小宇宙を燃やしたんだ。あの時も、秋――冬に近い秋だった。もう二度と会うことはないだろう僕の優しいツバメを懐かしみ悼むつもりで、僕は、アオちゃんと出会い アオちゃんと別れた場所で小宇宙を燃やしたんだよ。僕は そのつもりだったのに――なのに、アオちゃんは 僕のところに飛んできてくれたんだ。アオちゃんは、生きてた。アオちゃんは、あの年も、怪我をして飛べない仲間を守るために 南に渡らず日本にいたみたいで――」
地上は赤や黄色。
空は水色。
色鮮やかな日本の秋。
その美しい一幅の絵の中に 細く鋭い曲線を描いて、それは 瞬の許に飛んできた。
瞬が その手を前方に差し出すと、迷いもせず 恐れもせず、その手の上に飛び乗ってくる。
そして、彼は、晩秋のツバメのそれとは思えないほど元気な声で、(おそらく)瞬に尋ねてきた。
キュルルル、キュルルル、キュルルル、ジー。
『何か悲しいことがあったのか?』と。

「アオちゃんは、今でも僕が小宇宙を燃やすと、こうして すぐに僕のところに来てくれるんだ。僕は、アオちゃんの最初の子供だから」
「……」
遠い昔の物語を訊いていたつもりだったのに、その物語の主人公が 突然 その場に登場。
『ごんぎつね』や『マッチ売りの少女』の絵本を読んでもらった そのすぐあとに、ごんぎつねや マッチ売りの少女が 目の前に姿を現わしたなら、それは 幼い子供でなくても驚くだろう。
瞬の仲間たちも、もちろん驚いた――驚き、息を呑んだ。
瞬のツバメは生きていたのだ。
おそらくは、瞬の小宇宙に守られて。

「ほんとに すぐに飛んできたな。一輝より早いじゃん。すげー」
瞬の手の上で、何かを確かめるように 右に左に首をかしげている小さなツバメの様子を見詰め、星矢が感嘆の声をあげる。
そんな星矢に、瞬は恐る恐る尋ねてみた。
「星矢、怒った? 小宇宙を燃やせるようになったの、僕、星矢よりちょっと早かったかも……」
「怒ったも何も――桁が違いすぎて、腹を立てる気にもなんねーよ! 修行地に行く前に小宇宙 燃やせるようになってたなんて、反則もいいとこじゃん!」
笑いながら そう言ってくれる星矢に、それでも瞬は、
「ごめんね」
と短く謝った。
そうしてから、ツバメの背を 人差し指で そっと撫でる。
それが“僕は大丈夫”の合図になっているのか、瞬の健気なツバメは再び 水色の秋の空に舞い上がった。
城戸邸の庭の上を 大きな楕円を描くように旋回し、澄んだ秋の空気の中に、もう一度 あの鳴き声を響かせて、やがてどこかに飛んでいく。

「もう かなり寒くなっているのに、元気だな」
おそらくは、戦う術を持たない小さな その身体が、瞬の温かい小宇宙に守られているから。
戦う術を持たない鳥は、その優しい心を ただ一つの武器にして、今も懸命に彼の命を生きているのだ。
ツバメの姿が見えなくなった秋の水色の空を眺めながら 紫龍が低く そう呟いた時、彼は 心優しいツバメの物語のハッピーエンドの場面に立ち会っている気持ちでいたことだろう。
だが――。

「そういうことだったのか……」
それまで ほとんど口をきかずにいた氷河の呟きが、絵に描いたようなハッピーエンドの場面に怒涛の新展開をもたらしたのである。






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