ここは、ギリシャ聖域、アテナ神殿は玉座の間。 その正面中央、上座に置かれている玉座に座って、右の肘掛けに肘を置き、その手を額に当てて、わざとらしく溜め息をつき、その溜め息以上に わざとらしく、 「困ったわねー」 なんて言っているのは、ゆえに当然、この神殿と聖域の主、知恵と戦いの女神アテナということになる。 アテナはさっきから何度も同じように溜め息をつき、その溜め息と同じ数だけ『困ったわねー』を繰り返している。 彼女が そんな不毛な真似をしているのは、要するに、彼女に呼び出しを受けた俺たちの中の誰かに、『何を困っているんですか』と言わせるためだ。 だが、俺たちは――天馬座の青銅聖闘士・星矢、龍座の青銅聖闘士・紫龍、そして、この俺、白鳥座の青銅聖闘士・氷河は――その溜め息の理由を尋ねたが最後、とんでもない無理難題を吹っかけられることがわかってるから、アテナが求める言葉を彼女に与えることができずにいたんだ。 いや、死んでも与えるものかと思っていた。 「困ったわねー」 アテナがまた、わざとらしい溜め息をついて、『困ったわねー』を口にする。 困ったのは、こっちの方だ。 これでは 蛇の生殺し状態。 本当に いらいらする。 だが、何に困っているのかと問えば、俺たちは その答えを聞かなければならなくなる。 俺は聞きたくない。 絶対に聞きたくない。 だから、ここは辛抱だ、辛抱。 ならぬ辛抱、するが辛抱。 この聖域に来たばかりの頃、今日と全く同じシチュエーションで、何も知らなかった俺は 彼女に、『どうかなさったんですか』と訊いてしまったばっかりに(あの頃は 俺もまだ純粋で、アテナへの尊敬の念があり、彼女に対して敬語を使っていたんだ)、イリソス川から聖域にまで引かれている上水道の どぶさらいをやらされたことがある。 ああ、あれも秋だった。 落葉が上水道に降り積もって 腐食し、水の流れを滞らせていたんだ。 延々30キロのどぶさらいは、オリュンポス12神全員を相手に たった一人で立ち向かっていくこと以上に苛酷な作業だった。 つまり、そういうことだ。 彼女が 彼女の聖闘士をアテナ神殿に呼んで『困ったわねー』を言う時。 それは、彼女が、地上の平和を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士にふさわしくない仕事を アテナの聖闘士にさせようとしている時なんだ。 俺たちに堂々と命じることができないから、アテナは こんな猿芝居をやらかすというわけだ。 しかし、今日のアテナの『困ったわねー』、そろそろ30回目じゃないか。 どぶさらいに懲りた俺でも、さすがに これは忍耐力が続かないぞ。 「あー、もー、いらいらする!」 そう、いらいらする――って、うわっ、言いやがった。 苛立たしげに、危険極まりない そのセリフを言ったのは、俺の同輩、天馬座の青銅聖闘士・星矢だった。 単刀直入、猪突猛進、一瀉千里を愛する星矢は、俺より辛抱が利かなかったらしい。 「ほんと、いらいらすんだよ。言いたいことがあるんなら、さっさと言っちまえばいいじゃないか! どうせまた 詰まんねー仕事なんだろ!」 「詰まらない?」 正直も ここに極まった感のある星矢の そのセリフを聞いたアテナのこめかみが、ぴくりと引きつる。 まずい。 星矢の奴、殺されるぞ。 どうして こいつは いつもいつも、まともにぶつかっていったら まず勝つことはできないとわかっている相手に馬鹿正直に正面から突進していくんだ。 「ア……アテナ、何に困っているんです」 ついに その一言を言ってしまったのは、龍座の聖闘士だった。 だが、これは致し方のない仕儀と言えるだろう。 星矢をアテナに殺させるわけにはいかないからな。 傍迷惑な奴だが、それでも仲間は仲間。 あと2秒、紫龍が そのセリフを言わずにいたら、俺がそのセリフを言ってしまっていたに違いない。 俺たちが絶対に口にすまいと決めていた そのセリフを、紫龍が口にした甲斐はあったんだろう。 欲していた その一言を手に入れるや否や、アテナは星矢の不敬を綺麗さっぱり忘れてくれたようだったから。 「よく訊いてくれたわ!」 この機を逃してなるかと言わんばかりに気負い込んで――まるで飢えたキツネが10日振りに出会った いたいけなウサギに踊りかかるみたいに――アテナが その上体を前方に乗り出してくる。 『訊きたくて訊いたわけじゃない!』と言えたら、どんなにいいか。 だが、アテナの聖闘士っていうのは、とどのつまりは 女神アテナの奴隷なんだ。 愛と平和を旗印に掲げたアテナに逆らうことは、アテナの聖闘士にはできない。 事ここに至って、俺も覚悟を決めた。 今度は何だ。 下水道掃除か、十二宮の蜘蛛の巣払いか。 俺たち三人が観念したのを確認して、アテナは玉座の真ん中に座り直した。 そして、今更 威厳を取り繕って、 「私が困っているのは他でもないわ。とある国が存亡の危機に瀕しているのよ」 と言った。 存亡の危機。 存亡の危機ね。 俺が延々30キロのどぶさらいをすることになった時も、アテナは同じことを言った。 これは聖域の存亡に関わる重大事なのだと。 “聖域の危機”が“とある国の危機”に変わっただけ。 俺は騙されないぞ。 「神聖ローマ帝国の北部に――てっとり早く ドイツと言ってしまうけれど――ドイツ北部にレオブルク公国という国があるの。知ってる?」 そんなもの、知るか。 ドイツは領邦国家。 1500年前のギリシャに都市国家が乱立していたように、今のドイツにも 王国だの大公国だの公国だの方伯国だの選挙侯国だの自由市だのと、300以上の領域がある。 有名どころでは、オーストリア大公国、ザクセン公国、ヘッセン大公国、バイエルン王国あたりか。 だが、そんな数の国の名前を 全部 覚えていられるわけがない。 そんなことをしても、無意味だ無意味。 ――という俺の考えを、紫龍は簡潔に、 「残念ながら、寡聞にして聞いたことがありません」 の一文で表わしてみせた。 まあ、つまり そういうことだ。 「勉強不足ね。あるのよ、そういう国が」 アテナは少し機嫌を損ねたようだったが、この聖域で そんな国の存在を知っているのはアテナただ一人だと、断言できるぞ、俺は。 「まあ、いいわ。で、そのレオブルク公国は、カイザーという名の公爵が治めているの。少々短気で好戦的という欠点はあるにしても、一応 いい領主の部類。民にも慕われているわ」 「公爵なのに皇帝? その公爵の親は、自分の息子に随分と皮肉な名をつけたもんだな」 それは、愚鈍な女にアテナ、あばずれ女にアルテミス、醜女にアフロディーテなんて名前をつけるようなもの。 人様に陰で笑われる名前といっていい。 実際、俺は笑った。 陰で笑うのは嫌だから、アテナの前で堂々と。 そんな俺に、アテナが軽く肩をすくめてみせる。 「彼のご両親は、自分の息子に出世してほしかったんでしょう。ドイツの公国の統治者なら、神聖ローマ帝国の皇帝に選出される可能性は皆無ではないわ」 ああ、なるほど。 カイザーという名は、親の願望を込めた名前というわけだ。 してみると、それは案外 正統派の命名なのかもしれないな。 もっとも、オットー大帝の頃なら ともかく、16世紀も半ばに差し掛かった現代では、神聖ローマ帝国皇帝なんて、形骸化された名前だけの存在にすぎないが。 「昨日、一応 いい領主の部類だった その公爵の様子がおかしくなってしまったと、私の許に、彼の家臣たちから相談があったの」 「なぜアテナのところに、そんな相談がくるんだ。宗教改革で揺れていて、新教と旧教が対立し合っているとはいえ、あの辺りは 歴としたキリスト教国のはずだ」 「それはまあ、私の人徳ね。以前、ちょっとした事件があって、カイザーが私の力を目の当たりにする機会があったの。その時以来、カイザーは私に心酔しているのよ。彼の家臣団もね。それに――宗教改革の嵐に国中を滅茶苦茶にされて、キリスト教にうんざりしたところもあるのじゃないの? キリスト教など、所詮は 人間の作った宗教だと。その点、ギリシャの神々は 実際に 人間には及びもつかない力を持っているわ。カイザーは、ある意味、究極のリベラリストといっていいかもしれないわね。ともかく、そのことがあって以来、私はレオブルク公国の相談役のようなものなの」 「はあ」 我ながら、間の抜けた返事。 人間には及びもつかない力ね。 確かに、アテナは人間には及びもつかない偉大な力を持っている。 アテナの聖闘士に どぶさらいをさせるような偉大な力をな。 アテナはどうせ、その公爵の皇帝とやらに、もったいぶった態度と演出つきで、何か派手なパフォーマンスをしてみせたんだろう。 で、カイザー公爵と その家臣団の目には、それが奇跡か何かのように見えて、彼等はアテナの偉大な力を有難がったというわけだ。 「それで、その公爵の皇帝がどうしたんです。邪神にでも見込まれたんですか」 うんざりして視線を脇に泳がせた俺に代わって、今度は紫龍がアテナに問う。 どうやら紫龍は まだ、今 アテナが俺たちにさせようとしている“仕事”がアテナの聖闘士にふさわしい仕事である可能性は皆無ではないかもしれないという、空しい期待を抱いているらしい。 アテナの聖闘士は希望の闘士。 紫龍の気持ちはわからないでもないが、期待はしない方がいいと思うぞ。 アテナの聖闘士が希望の闘士でいられるのは、アテナがまともでいる時だけだ。 今のアテナは、目が半分 笑っている。 そして――アテナは、俺たち希望の闘士に 案の定の答えを返してきた。 「邪神? ええ、まあ、似たようなものかもしれないわね。レオブルク公国の大臣からの使いは、カイザーが 飼い主を骨抜きにする魔性の猫に取り憑かれてしまったと言ってきたの。その猫のせいで、カイザーは、以前は熱心だった国政にも戦にも関心を示さなくなってしまったのですって。で、私に、その化け猫退治を頼みたい――と」 「ば……化け猫退治?」 紫龍が絶望的な声をあげる。 だから言ったろう。期待はするなと。 魔性の化け猫か何かは知らないが、どうしたって猫は猫。 アテナの聖闘士に いたいけな猫を退治しろとはな。 アテナの目が半分しか笑っていないのが、いっそ不思議なくらいだ。 アテナも これで、爆笑したいのを必死に こらえているんだろうか。 ――なんてことをノンキに考えていた俺が馬鹿だった。 おかげで俺は星矢と紫龍に遅れをとることになってしまったんだ。 『化け猫退治』という言葉を聞いた途端、星矢は まさに電光石火の早業でアテナへの反撃に出た。 「あ、わりーけど、俺、根っからの犬派なんだ。俺が化け猫退治なんかに行っても、気まぐれな猫に振り回されるだけ振り回されて終わりだぜ」 星矢に続いて、すかさず 紫龍が第二波反撃。 「特別 猫が嫌いなわけではないが、俺は猫アレルギーで、側に猫がいるとくしゃみが止まらなくなってしまうんです。猫という単語を聞いただけで、今もくしゃみが――くしゅん!」 紫龍の奴、何が『くしゅん』だ。 全く似合っとらん。 アテナの溜め息より、はるかにわざとらしいぞ。 と、紫龍の演技力不足はさておいて。 困ったな。 俺が使おうと思っていた逃げ口上を、二人に使われてしまったぞ。 ここで俺が、『実は俺も犬派の猫アレルギーだったんです』なんてことを言っても、アテナは俺の申告を信じてはくれないだろう。 たとえ それが事実だったとしても、このタイミングでは。 まして、俺は特段、犬派でも猫アレルギーでもないんだから、なおさら。 そういう経緯で、俺は、化け猫退治を免れるために 星矢と紫龍とは別の理由を即席で捏造しなければならなくなった。 しかし、常識人である俺が そんなものをぽんぽん思いつけるはずもなく、結局 俺が苦し紛れに口にした逃げ口上は、 「あー……俺は白鳥座の聖闘士だ。鳥が猫に敵うわけがない」 という、お粗末極まりないもの。 その へたな逃げ口上を言い終える前に既に、俺は 嫌な予感に囚われていた。 果たせるかな、アテナは、俺たち三人を見比べて、最後に、 「じゃ、氷河。お願い」 と、俺に言ってきやがった。 「なぜ俺だ!」 今度は迅速に異議を唱えた俺に、 「なぜって、あなたの理由がいちばん お座なりっていうか、理由になっていないっていうか……。あなた、今日は調子が悪いようよ」 アテナが、実に率直な答えを返してくる。 俺の今日の調子が悪いのは事実だが、仮にもアテナの聖闘士に、そんな理由で 出張命令なんか出さないでくれ。 「俺はアテナの聖闘士だぞ。地上の平和を脅かす邪神と命をかけて戦うのが、俺の務めだ。それが猫退治だとっ! 馬鹿にするのもいい加減にしてくれ!」 何事も、ものは 考えよう。 魔性の化け猫見物がてら アテナ公認でドイツ観光ができると考えて、大人しくアテナの命令に従えば 四方が丸く収まるってことは、俺にだってわかっている。 だが、アテナの聖闘士になるために耐えた つらい修行の日々を思い出すと、アテナに命じられる生ぬるい仕事が、俺には腹立たしく感じられてならないんだ。 こんなことのために 俺は あのつらい修行を耐えたのかと、世を儚みたくなる。 この気持ちが アテナにはわからないのか――。 そう訴えようとした俺に、 「お黙りなさい!」 アテナは突如 豹変し、彼女らしいようで彼女らしくない鋭い叱責を投げつけてきた。 アテナが、本気の神モードに突入。 こうなるともう、俺は黙るしかない。 化け猫退治を命じるような ふざけた女神でも、神は神。 悔しい話だが、アテナは俺なんかより、はるかに強い。 彼女は、俺より はるかに強大な小宇宙を持っている。 俺が彼女に不敬を働いていられるのは、今が平時で、彼女が俺たちを甘やかしていられる状況にあるからだ。 地上に害を為す邪悪と相対した時の彼女の前では、俺も こんなタメ口はきいていられなくなるんだ。 だが、今が平時であるにもかかわらず、アテナがふいに俺に威厳を示してみせたのは、彼女が 俺のタメ口に腹を立てたからじゃなく、もっと対外的な問題――レオブルク公国からの使者が玉座の間に入ってきたからだったらしい。 |