レオブルク公国の大臣の使いだという その人物は、黒っぽい地味な服を着ていて、見るからに謹厳実直、質素倹約を地でいっているような40絡みの男だった。 その上、彼は、アテナに比べれば はるかに常識的で良識的な人間らしい。 化け猫退治に駆り出されることになった哀れなアテナの聖闘士に、彼は、この事態を 心から申し訳なく思っているような目を向けてきた。 「我等が不甲斐ないばかりに……。崇高な使命を お持ちのアテナの聖闘士に、このような仕事を頼むことになり、まことに申し訳なく思っています」 レオブルク公国の使者に 腰を低くして謝罪され、俺は少しばかり気まずい気分になった。 そして、アテナが俺を叱責してくれていてよかった――と思った。 この男は この男で、自分の職務に忠実なだけなんだ。 勤勉実直使者殿が悪いわけじゃない。 それに――使者殿は本当に困っているようだった。 「公爵様が拾った時には、あれは ごく普通の猫だったのです。魔性どころか、母猫をなくして 乳もろくに飲めずにいたらしく、がりがりに痩せていて、毛並みも薄汚れて、全く可愛げがなかった。公爵様は、顔に似合わず お優しい方ですので、そんな猫を哀れに思われたのでしょう。その猫を ご自分の城で飼うことになさったのです」 自分の主君を評して『顔に似合わず お優しい』とは。 この男は、謹厳実直なだけでなく、嘘をつけない男でもあるらしい。 俺は、地味な身なりのレオブルク公国の使者に好感を抱いた。 「その痩せ猫が美猫に成長して、夜な夜な美女に化け、公爵をたらしこむようになったのか」 「いえ。ゴールディはオスですので」 オス。 職務に忠実な男は好ましいと思うし、俺は極端な女好きというわけでもない。 だが、化け猫がオスと聞いて、俺は ますます やる気をなくした。 「つまり、責任ある立場の、いい歳をした男が、オス猫に入れあげて国政を顧みなくなったということか? 民が納めた血税を、猫のために つぎ込んでいると? レオブルク公国の公爵様は、猫のために豪勢な宮殿でも建て始めたか」 「いえ。政治向きのことは、我々家臣団が 何とか支障なくこなしています。公爵様は、以前は領土的野心が強く、やたらと戦をしたがる悪い癖があったのですが、ゴールディに取り憑かれてからは 戦にも関心がなくなって、むしろ国庫からの無駄な出費は減っている。公爵様は 常に ゴールディを お側においておきたがるので、住まいも公爵様と同じ城の中。ゴールディにかかっているのはエサ代くらいのものです」 ゴールディというのが、化け猫の名前らしい。 痩せ猫にゴールディとは、また随分と豪勢な名前をつけたもんだ。 いや、だが、それは魔性の化け猫か? 俺は、飼い主を骨抜きにする魔性の化け猫というから、殷の紂王や日本の鳥羽上皇を 美女に化けて操った九尾の狐みたいなのを想像していたんだが。 「エサ代しか かからない猫を可愛がっているだけなら、おたくの公爵サマは 単なる猫好きだろう」 「そうだったんです。少々 短気でしたし、やたらと戦で功名をあげたがるところはありましたが、公爵様は いい ご領主様だったんです。ゴールディも……その、公爵様の命令で、国に害を為す悪党を その牙や爪にかけることはありましたが、公爵に命じられなければ人に危害を与えることもない、大人しい猫でした。決して悪い猫ではなかった」 「それが どうして魔性の化け猫になったんだ」 まるで訳がわからん。 俺は 犬猫の類とは 付き合いはないが、生活の中心に猫を置いている猫好きという人種が世の中に存在するらしいことくらいは知っている。 そういう輩が どれほど猫に入れあげても、その猫が“魔性”と呼ばれることはないだろう。 その猫は いったい何をしでかして、魔性の化け猫になったんだ。 俺は、訝った。 謹厳実直な男は、察しのいい男でもあるらしい。 俺の疑念を察して、彼は 速やかに事件の核心の説明に取りかかった。 「ゴールディは 公爵様にしか懐かない猫で、それが公爵様の自慢でした。猫というのは 本来気まぐれな動物なのに、ゴールディは公爵様にしか忠誠心を示さない。公爵様は それはそれはゴールディを可愛がって、その世話も、下男や女官に任せることなく ご自分の手でなさっていたのです」 「それは感心なことだ」 たとえば 稀少な書籍の収集が趣味なのに、集めた本を読みもせず、本の手入れも管理も使用人任せにしているような輩の話を よく聞くが、そういう奴等は何が楽しいんだろうと、俺は思うな。 自分の好きなものを他人任せにしないという点に関しては、俺は その公爵を評価するぞ。 好きなものは自分の側において、自分の手で触れていたい。 他人の手になど委ねたくない。 実に真っ当な考え方、実に真っ当な感性だ。 ――と、俺は思ったんだが、レオブルク公国が抱えている問題はそういうことではなかったらしい――それだけでは済まなかったらしい。 「ところが、そのゴールディが 公爵様以外の人間に懐いてしまったんです。公爵様は、ゴールディに裏切られたと激怒なされ、ゴールディの目を覚ますために、ゴールディが懐いた その方を処刑すると言い出された」 「男の嫉妬は見苦しいな」 立場上、国家存亡の危機を“見苦しい男の嫉妬”で片付けるわけにはいかなかったのか、勤勉実直使者殿は俺のその言葉には何も言わず、歯切れ悪く 同じことを繰り返した。 「はあ……まあ、つまり、その方を処刑してしまえば、ゴールディは以前のように自分にだけ忠実な猫になると、そう公爵様はお考えになったようなのです」 「馬鹿馬鹿しい。それが、わざわざアテナの聖闘士が出ていくようなことか」 自国の未来を憂い、自分の職務に忠実な謹厳実直使者殿に そう言ってのけた俺は 冷酷な男だろうか。 それが騒ぎの全容だというのなら、不幸にして化け猫に懐かれてしまった人間を 猫から引き離してしまえばいいだけのことだし、最悪 そいつが本当に処刑されてしまったとしても、それで公国が滅ぶようなことにはならないだろう。 そう、俺は思った。 が、事態は そう簡単なものではなかったらしい。 使者の話には 続きがあった。 「我がドイツには――レオブルク公国に限ったことではないのですが、アジール法という法律があります。ギリシャ語の“聖域”――“アジロン”からきた言葉で、教会等の宗教的施設や、複数の国の民が使う橋や道路、集会所等を、国家権力・世俗的権力が及ばない場所として定める法律です。どんな罪を犯した人間も、アジールに逃げ込めば、国に捕えられ刑罰を受けることはない。一種の治外法権地域といっていいでしょう。我等が公爵様は進歩的な方で、新教と旧教が争っている宗教改革のどさくさを利用して、領地内のアジールを徐々に廃止していったのです」 「賢明なことだ。そこに逃げ込めば、罪人も罰せられないなんて、ふざけている。逃げ得、許すまじだ」 「そうはおっしゃいますが、アジールは、やむにやまれず罪を犯してしまった者にとっては 最後の砦。それは必要なものなんです。自ら望んで罪を犯す者は稀です」 そういうものだろうか。 謹厳実直な使者殿は、為政者側の人間のくせに、どうやら性善説の信奉者らしい。 まあ、それが現実的なことかどうかという問題を無視すれば、悪いことではないな。 「我がレオブルク公国内に最後に一つだけ残ったアジール。我が国最高の権威を持つアジール。そのアジールを守っている聖人、そのアジールの神聖性の根拠となっていた聖人なんです、ゴールディが初めて公爵様以外に懐いた人間というのは」 ああ、そういうことか。 つまり、公爵の恋(?)のライバルは 結構な大物で、へたに処刑などしたら 公爵は 国民の支持を失いかねない――というわけだ。 しかし、その化け猫、なかなか やるじゃないか。 「もし、その聖人が本当に神聖かつ高潔な人物だったなら、化け猫には 人を見る目があるということだな」 「もちろん、そうだったのでしょう。聖人は国中の民に慕われ――特に貧しい子供たちには天使と信じられているような方ですので」 「公爵 VS 聖人か」 世俗の権力と、精神世界における権威の争い。 政教分離を目指しているらしい公爵にしてみれば、その聖人は 絶対に負けられないライバルというわけだ。 「ドイツの冬は、ギリシャの冬などよりはるかに厳しい。教皇庁との軋轢、教皇派と皇帝派の対立、農民戦争、新教と旧教の対立、魔女狩り――様々な要因から、フランスやイギリスのような強力な中央集権が生まれなかったドイツは、どの国も貧しいのです。家を持たない者も多い。レオブルク公国も例外ではなく、厳しい冬には多くの凍死者が出ます。ですが、そのアジールは 聖人への神の恩寵で、常に暖かい。厳しい冬が来るたびに――そのアジールのおかげで、これまでに何千人の命が救われたことか。我が公国の総人口は、約35万。その影響力の大きさを考えてください」 神の恩寵で暖かい――というのは、そこに薪や石炭が多くあるということか? その聖人は金持ちなのか? まあ、それだけ人望のある人物の管理するアジールなら、喜捨の類も 相当集まるんだろうが……財力のある聖人か。 その聖人は、侯爵にとっては、もともと目の上の たんこぶだったんだろうな。 そこにきて、化け猫の浮気。 公爵は怒り心頭に発したわけだ。 だが、いくら 目の上のたんこぶでも、猫に好かれたくらいのことで投獄・処刑はできまい。 “いい ご領主様”なら、なおさら。 「先月、家を持たない貧しい子供が、飢えて死にかけた幼い妹のためにパンを盗みました。そして、アジールに逃げ込んだ。その子供は、アジールが妹を守ってくれるのなら 自分は大人しく罰を受けると、聖人に訴えました。聖人は、その子を哀れみ、庇い、その子の代わりにパンの代金を支払うから 許してやってくれと、パンを盗まれた者に申し出た。パンを盗まれた者も、聖人から事情を聞いて、パン代など不要と言って――それで騒ぎは収まるはずだったんです。ですが、国内からアジールを一掃したかった公爵様は、その件を問題視して、聖人を城に呼び出した。その際のことです。ゴールディが すっかりその聖人に懐いてしまったのは。公爵様はその聖人が悪い魔法を使ったのだと激怒され、聖人を捕えて、投獄されました」 「多少は政治向きのことも絡むようだが、どこまでいっても 男の嫉妬問題だな」 アジールに閉じこもっていれば 捕えられることもなかったろうに、アジールをなくそうとしている公爵の呼び出しに応じる聖人サマも 相当の馬鹿だが、公爵は その聖人に輪をかけた大馬鹿だ。 要するに、猫の浮気だろう。 たかが猫の――生来 気まぐれにできている猫の。 俺が しつこく“男の嫉妬”を繰り返したせいか、さすがの謹厳実直使者殿も、その事実を認める気になったらしい。 しばらく ためらってから、長い溜め息をつき、彼はその事実を認めた。 「……ありていに言えば、そうです」 進歩的なリベラリストの嫉妬。 だが、案外 それは難しい問題なのかもしれないな。 それは、要するに、理性や理屈では解決できない問題だということだ。 「聖人が牢に捕えられたため、アジールは神の恩寵を失い、隙間風が吹く、ただの古い建物になってしまいました。暖かかったアジールは、今は冷え切っている。このままでは、アジールに身を寄せている貧しい者たちは皆、冬を越せずに死んでしまうでしょう。我々は、公爵様を失うことも 聖人を失うこともできない。ならば、ゴールディに消えてもらうしかないと思ったのです」 それで、化け猫退治の要請がアテナの許に来たというわけか。 だが。 神の恩寵を失って、アジールが冷え切っている? アジールが暖かいのは、薪や石炭がたくさんあるからじゃなかったのか? それとも、聖者がいなくなったせいで、アジールに喜捨をする者が減ったということか? それは確かに重大な問題なのかもしれないが、やはり 俺には、それは アテナの聖闘士が関わっていいような問題ではないような気がするんだが。 何をどう言い繕っても、猫は猫で、男の嫉妬は男の嫉妬にすぎない。 「アテナ。こんな低次元のトラブル対応のために、本当に 俺をドイツくんだりまで 派遣する気なのか」 「低次元とは何です。確かに これを世界の平和に関わる問題ということはできないかもしれませんが、それでも これは 多くの人間の命がかかった大きな問題です。それに――」 「それに?」 「私は、その聖人というのが、何か引っかかるのよね。本当に聖人なのか、邪悪な者なのか、あなたに確かめてきてほしいのよ」 「……」 確かめてどうするんだ。 確かめて、もし本当に聖人だったとしても、それは キリスト教の聖人だろう。 若い美女というのなら見物にいってやってもいいが、しわしわの爺さんなんて、見ても目の保養にはならない。 俺は気が進まなかった。 本当に、腹の底から気が進まなかった。 魔性の化け猫退治の仕事の担当が俺に決定して安心したらしい星矢たちが、俺の前で、 「二人の男を惑わす魔性の猫か。どんな美猫か興味あるなー」 「うむ。実に残念だ。行けるものなら俺が行きたいんだが――くしゅん」 なんて、わざとらしい猿芝居を演じてくれるもんだから、なおさら。 しかし――。 「どうか、レオブルク公国を お救いください。公爵様と聖人の対立を解消してください。冬が来る前に――冬が来る前に――」 職務に忠実な勤勉実直使者殿に 決死の形相で すがりつかれ、俺は しぶしぶ 魔性の化け猫退治に乗り出すことを決意したんだ。 |