食と愛欲のフーガ

あるいは、ペガサス星矢が もてるわけ







「瞬の あの小宇宙は、どうにかなんねーのかなぁ……」
いかにも情けなさそうな声で星矢が そうぼやいたのは、城戸邸の庭にある落葉樹がすっかり葉を落とし、極東の島国にも いよいよ本格的冬到来という時季の、ある晴れた日の午後だった。

冬。
雪と氷と木枯らしの季節。
植物も動物も、そのほとんどが成長を止め、活動をやめ、じっと春の訪れを待つ雌伏の時。
そんな自然界の法則に逆らって、氷雪の聖闘士が最も張り切り、最も活動的になる季節。
星矢の声に憂鬱の響きが混じっているのは、決して ゆえなきことではなかった。

「小宇宙は防音設備やセキュリティ設備で遮断できるものではないからな。こればかりは 耐えるしかあるまい」
「でもさ、冬が近付いてるからってわけでもねーだろうけど、最近、どんどん所要時間が長くなってきてねーか? 最初の頃はさ、俺、30分の我慢だって自分に言いきかせて、なんとか耐えてたんだぜ」
「その代わり、すぐに第2ラウンドが始まっていただろう」
「でも、それだって20分の我慢だし」
「星矢、おまえ、まさか時間を計っていたのではあるまいな」
いくら最近 敵襲が途絶え 平和な日々が続いているとはいえ、仕事や学業にいそしむ意欲もない有閑階級の穀潰しのような真似を、仮にもアテナの聖闘士がしているわけがない――そんなことはしないでいてくれ。
星矢に尋ねる紫龍の声音は、そう願っている者の声音、星矢に否定の答えを期待している者の声音だった。

残念ながら 紫龍の期待は見事に裏切られることになったのだが、星矢は決して 有閑が極まって そういう行為に及んだのではなかったのである。
むしろ星矢は、自身の生活の改善を図り、向上心に満ち満ちて その行為に及んだのだ――星矢当人は そのつもりだった。
「あのピンクの小宇宙に苛立って、嫌味の一つも言ってやろうと思って 計ったことはあるぜ。もちろん、嫌味を言う相手は瞬じゃなく、氷河の方だけどさ」
「本当に計ったのか……」
たとえ日常生活の向上改善を図るためであったとしても、紫龍は 星矢の行動に呆れないわけにはいかなかったのである。
それは、どれほど暇を持て余している人間でも、真面目に(あるいは、ふざけてでも)計測していいようなものではない。

「せっかく計ったのに、結局 俺、嫌味も皮肉も言えなかったんだけどな」
「それはまたなぜ」
「氷河の奴、すぐに第3ラウンドに突入しやがったんだよ!」
「ははは……。それは嫌味を言っても、氷河を得意がらせるだけのことになっていたかもしれないな」
そう言って笑う紫龍の声の響きは、ひどく空しいものだった。
生活の改善を図らなければならないほど、星矢の生活効率を著しく低下させているもの。
それは、主に夜間、おそらくは無意識のうちに瞬が燃やす なまめかしい小宇宙――まさにピンクの小宇宙だった。
そして、星矢が計測した時間というのは、要するに、氷河と瞬によってなされる情交の所要時間だったのだ。

氷河が瞬に 積年の思いを告白したのは、厳しかった暑さも一段落した夏の終わり。
氷雪の聖闘士が その心身の活動を本格始動させる9月の末のことだった。
瞬も以前から氷河を憎からず思っていたのか、あるいは氷河の押しに負けたのか、その辺りのことは彼の仲間たちも よくは知らないのだが、ともかく二人は そういう仲になった。
氷河が瞬の部屋で就寝するようになったのは、10月半ば。
その時から、星矢の受難は始まったのである。

「最初のうちは、それでも、ラウンドとラウンドの間に休憩時間があって、俺も一息つけてたんだ。それが、最近は、ねっとり継続して1時間2時間――」
「氷河も、いろいろと新しい技を会得しているんだろう。相手が瞬となれば、体力、運動能力、柔軟性、瞬発力、継続力、どれをとっても並以上。一般人には到底 不可能なことも、あの二人ならできるわけで、新しい試みに挑戦するのも楽しい……のかもしれん」
「じょーだんじゃねーぞ! あいつらは体操やフィギュアの選手じゃねーんだ。新しい技なんか生み出さなくてもいいんだよ。紫龍、おまえは平気なのか? おまえ、あの状況で、落ち着いて寝てられんのかよ?」

もちろん、落ち着いて眠ってなどいられない。
常人には経験し得ない 幾多の試練や苦難に直面し 乗り越えることで、常人には及びもつかない胆力を備え、堅忍不抜の精神を有し、命の危機に瀕しても神色自若の(てい)を崩すことのないアテナの聖闘士とはいえ、紫龍の心身自体は常人と 何ら変わりはない。
現在の彼の心身は、人間の人生の中で最も血気盛んな時期の青少年のそれなのである。
瞬のピンクの小宇宙は、人間の欲情を刺激するために一般に向けて提供される各種情報とは異なり、五感だけでは感じ取れない微妙な感情感覚までを伝えてくるし、なにより 紫龍にとって、瞬の小宇宙は 極めて親しい仲間が 特殊な状況下で生んでいるもの。
その事実は、余人に与えられるものとは異なる特殊な刺激となって、彼の感性を揺さぶった。
もちろん、紫龍は、瞬のピンクの小宇宙の中で平静ではいられなかった。
もちろん、彼は瞬のピンクの小宇宙に悩まされていた。
しかし、紫龍は、その問題に関しては 既に しかるべき対応を講じたあとだったのだ。

「小宇宙を遮断すればいいだけのことだ。俺は 夜間は 瞬の小宇宙を感知しないようにしている」
「小宇宙を遮断? そ……そりゃ、そうできたら いちばん手っ取り早いんだろうけど、んなことしてて、もし敵襲があったらどーすんだよ。敵の来襲に気付かずに寝てて、敵に不意打ち食らってたら話になんねーだろ」
「そこはテクニックだな。ROシステムのような小宇宙の感知方法を身につければいい」
「ROシステム? 何だよ、それ」
「日本語で言うと、逆浸透膜濾過。水は通すが、微粒子やイオン物質は通さない濾過方法だ。要するに、自分の中にファイアーウォールを設置するんだ。敵の小宇宙は通すが 瞬の小宇宙は通さないファイアーウォールを。俺は、その技を先月のうちにマスターした。必要は発明の母とは、よく言ったものだな」

必要は発明の母。
それは そうだろう。
人間は、必要だから、衣類を発明し、農耕器具を発明し、車輪を発明し、電気を発明した。
それは そうだろうが、星矢は この件に関しては紫龍の意見に諸手を挙げて賛同することはできなかったのである。
「敵の小宇宙は通すが、瞬の小宇宙は通さない感知方法をマスターって、んな面倒なこと、やってられるかよ。なんで俺がそんな技を苦労して身につけなきゃならねーんだ。瞬がピンクの小宇宙を外に洩らさなきゃいいだけのことだろ!」
「それはそうだが、ROシステムのマスターは さほど難しいことではないぞ。気になるのは瞬の小宇宙だけで、氷河の小宇宙は気にならないから、遮断するのは瞬の小宇宙だけで十分だし。これが、瞬の小宇宙だけでなく氷河の小宇宙も遮断しなければならないとなると、あの二人の小宇宙は結構 異質だから、かなりの高等テクニックをマスターしなければならなくなるんだが」
「……」

既にピンクの小宇宙の被害を被っていない紫龍は、涼しい顔で そう言ってのける。
そんな紫龍に、星矢は思い切り渋い顔になった。
これは、そういう問題だろうか。
そもそもROシステムなる技の体得は、問題の根本的解決になっていないのではないだろうか。
それは、工場が撒き散らす粉塵に対して、付近の住人がマスクを着用して対処するようなもの。
それは正しい解決方法ではなく、一時的な その場しのぎでしかない。
そういう場合は、工場が粉塵を外部に撒き散らさないようにすることこそが、正しい対処方法なのだ。

ハーデス率いる冥界軍が攻めてくるから、聖域の守りを強固にする。
それで聖域だけが 冥界軍の攻撃を免れることができたとしても、それでは 根本的解決が為されたことにはならないだろう。
聖域だけでなく地上世界の守りを完璧にしたとしても、それもまた完全な問題解決ではない。
地上世界を死の世界にしようと企むハーデスと彼が率いる冥界軍を一掃して初めて、その問題は“解決された”ということができるのだ。
ピンクの小宇宙問題においては、瞬の小宇宙が発生しない状況を作り出すことに成功した場合にのみ、根本的解決が為されたということができる。

では、そのためには どうしたらいいのか。
まさか瞬を殺すわけにはいかず、氷河に枯れてもらうことも不可能だろう。
かといって、二人を別れさせると、別の問題が生じることになりそうである。
いっそ瞬が小宇宙を燃やすことのできない一般人だったなら、どんなによかったか。
星矢は、心の底から そう思ったのである。
「ほんと、瞬の あの小宇宙は、どうにかなんねーのかなぁ……」
再び、星矢が その言葉を口にした時。
「僕の小宇宙がどうかしたの?」
ピンクの小宇宙を発生させている当の本人が、首をかしげてラウンジに入ってきた。






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