黒猫、ときどきハーデス






瞬が その猫に出会ったのは、城戸邸の庭に枯葉舞う晩秋の候。
もはや冬といっていいほど冷たい木枯らしが吹く、ある日の午後のことだった。
城戸邸は、住人の許可を得ていない者は、人間のみならず犬猫も入り込めないほど厳重なセキュリティシステムで守られているグラード財団総帥の私邸である。
その庭を、どこから どうやって入り込んできたのか、一匹の黒猫が実に堂々と 我が物顔で闊歩していたのだ。

首に鈴の一つもつけていないところを見ると野良猫なのかもしれないが、野良猫にしては あまりに姿が美しい。
見知らぬ訪問者を訝って、瞬は その猫の側に近付いていったのである。
すぐに ぴくんと耳を動かしたので、瞬の接近には気付いていたのだろうが、彼(?)は初対面の人間の手から逃げる素振りは見せなかった。
人を恐れない その様子から、瞬は、彼を城戸邸への訪問客の忘れ物なのではないかと思うことになったのである。

「猫ちゃん、いったいどこから入ってきたの。それとも誰かの お供でここに来たのかな?」
抱き上げた猫の体重は4キロほど。
中型の(おそらくは)ブリティッシュショートヘア。
瞬は、何とはなく黒猫の目は金色なのだと思い込んでいたのだが、その猫の目は、グレイがかった青だった。
その目を覗き込んで、瞬は その猫に どこから来たのかと尋ねたのである。
もちろん 猫から答えが返ってくることを期待していたわけではないのだが、黒猫というものは なぜか聡明に見える。
迷子の子供に尋ねる口調で、どこから来たのかと尋ねてから、瞬は こんな考え深げな猫に そんな問い方は失礼だったかと、少し反省した。

答えが返ってくることを、もちろん期待していたわけではない。
その時 瞬は、大抵の人間がそうであるように、むしろ答えが返ってこないことこそを期待していた。
だというのに、瞬の その期待は 実に鮮やかに裏切られたのである。
「違う」
「えっ」
その猫は、瞬に答えを返してきた。
だが、そんなことがあるはずがない――あってはならない――ゆえに、それは幻聴に決まっている。
息を呑み、瞬は、黒猫の顔を まじまじと見詰めてしまったのである。
瞬に見詰められている猫もまた、そんな瞬の目を じっと見詰め返していた。
考え深げな――絶対に何かを考えていると確信できる、その瞳、その眼差し――。

「なぜ俺がここにいるのか、俺の方が教えてもらいたいくらいだ」
黒猫が再び声を発する。
否、それは“声”ではなかった。
そして、“音”でもなかった。
“声”でも“音”でもない、瞬の耳ではなく頭の中に直接響いてくる声――人間の言葉。

「ね……猫が喋ったっ !? 」
それが幻聴ではないことを認めて――“声”でも“音”でもないのだから、やはり それは幻聴といっていいものなのかもしれなかったが――瞬は思わず、その猫の身体を腕から取り落としてしまったのである。
「おまえ、意外に乱暴だな」
猫らしく鮮やかな着地を決めた黒猫が、不満そうな声で そう言い、瞬の顔を見上げてくる。
だが、そんな“猫らしさ”など、人間の言葉を話す猫にあっては完全に無効。
人間の言葉を話す猫は、瞬の認識では、尋常の猫ではなかった。

「こ……これ、どういうことっ。あなた、何 !? 誰っ !? 」
驚きのために かすれ上擦った声で、瞬は猫を問い質した。
猫に質問を発し、その質問に対する猫からの返答を待っている自分に、目眩いがする。
比喩ではなく実際に、瞬は その時 くらくらと軽い目眩いを覚えていた。
対して、猫の方は 落ち着いたものである。
「俺が誰なのか、わからないのか」
極めて落ち着いた声で――だが 失望したようにそう言ってから、猫は思いがけない名乗りをあげた。
「俺は氷河だ」
と。

「氷河……?」
その猫が誰の名を名乗っても、それは 思いがけない名乗りだったろう。
しかし、猫が告げた『氷河』という名は、思いがけないだけでなく、あり得ない名でもあった。
氷河は今 日本にいない。
数日前から 彼は、日本から遠く数千キロも離れたシベリアの地に里帰り中だったのだ。
「な……なに言ってるの。氷河は 今、シベリアに行ってるよ」
他人の名を騙るにしても、騙る人間を選べばいいのに。
猫の嘘を暴いたつもりで、瞬はそう言った(猫に!)。
黒猫が不機嫌そうに、黒い尻尾をぱたんぱたんと左右に振り始める。

「そんなこと、俺が知るか。俺だって、猫になりたくてなったんじゃない。こんなことになりたくてなったんじゃない。気がついたら、こういうことになっていたんだ」
猫という動物は――特に黒猫は――賢そうに見える。
どんな事情があって こういうことになったのかを詳細に説明しようとしないことが、瞬には 猫の狡さであるように感じられたのである。
これこれ こういう事情で こうなったと、詳しく説明してしまえば、その説明に 矛盾があることを指摘され、嘘を看破されかねない。
そんな事態を避けようとした時、『どうして こういうことなったのか わからない』は、最も有効な――そして、ある意味 賢明な――説明だろう。
瞬は もちろん、猫の言を信じなかった。

「そんなことがあるはずないでしょう。万が一 それが本当だったとしても――あなたが本当に氷河だったとしたら、今 ここに氷河の意識があるっていうことは、シベリアにいる氷河の身体には意識がないっていうことになる。氷河の身体はどうなってるの。魂の抜けた状態? だとしたら、危険でしょう」
瞬自身、その身をハーデスに乗っ取られた経験を持つ人間である。
瞬は、人間(もしくは神)の意思や魂が、他の人間(もしくは神)の肉体を乗っ取り 支配することを、絶対に ありえないことと決めつける気はなかった。
しかし、乗っ取る身体が猫のものというのは。
しかも、乗っ取ったのが氷河だというのは。
瞬には、それは 絶対に あり得ないことだったのである。

問い詰められ、答えに窮し、本当のことを白状するかと思われたた黒猫は、瞬の期待に添うどころか――またしても瞬の期待を裏切って――瞬に恐ろしい答えを返してきた。
猫は、その主張が事実なら 自分のものであるはずの身体について、
「今の俺がどうなっているのかは、俺にも わからん。どこかで寝てるんじゃないのか」
と、そんなことは どうでもいいことだと言わんばかりの口調で 言ってのけたのだ。
その言葉を聞いた途端、瞬の頬からは血の気が引いた。
「ど……どこかで寝てる――って、まさか屋外でじゃないよね? シベリアで、この季節に 外で寝ていたら、いくら氷河でも凍えて死んでしまうよ!」
「だとしても、俺の知ったことじゃない」
自分の本体(?)が死に瀕しているのかもしれないというのに、猫の態度は ひどく素っ気ないものだった。
むしろ、瞬の狼狽を鼻で笑っているようにさえ見える。
一瞬、瞬は、目の前が真っ暗になった。






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