嘘に決まっている。 そんなことがあるはずがない。 一度 飄々とした態度の黒猫を 親の仇に対するように睨みつけてから、瞬は、カーディガンのポケットに入れていた携帯電話を掴み、すぐさま氷河の携帯電話の番号をコールした。 氷河が いつもそうしているように煩わしがって電源を切っていないように、いつもそうするように面倒がって電話に出ないことをしないでくれるようにと、ほとんど祈るような気持ちで。 突発の非常事態に対応するためか、幸い氷河は電話の電源を切っていなかったらしい。 衛星経由の電話は長いタイムラグを生み、呼出し自体に かなりの時間がかかったが、ともかく瞬のコールには反応があった。 「なんだ」 紛う方なき氷河の声。 今は、その声を聞けるだけで安心していい事態だったのだが、そのことにすら気付かず、瞬は電話の向こうにいる人に、叫ぶように尋ねたのである。 「氷河! 氷河、今 どこにいるのっ !? 」 またしても長いタイムラグ。 一日千秋の思いで氷河の応答を待っている瞬の許に、4、5秒の間を置いて、氷河の答えは返ってきた。 「瞬? どうしたんだ? 何かあったのか」 「氷河……」 どうやら、現在シベリアにいる氷河は、その身に自分の意識と意思を備えているらしい。 少なくとも、魂の抜け殻になって 野外に倒れ伏し凍りついてはいないらしい。 安堵の長い溜め息を洩らしてから、瞬は 自分の足元で、アンドロメダ座の聖闘士の顔を見上げている猫を見おろし見詰めたのである。 黒猫の瞳を見詰めながら、瞬は考えを巡らせた。 一人の人間の意識が同時に二つの場所に存在することは可能だろうか? 一人の人間の意識や魂が、同時に二つの身体を制御することは可能なことだろうか。 自分がハーデスに その身体を乗っ取られていた時のことを思い起こし、瞬はすぐに、『それは あり得ないことである』という答えに至った。 「猫……黒猫が……」 「猫? 猫がどうしたんだ」 氷河は、猫に知り合いはいないらしい。 自分の魂や意識が 猫の身体に宿ることにも 心当たりはないらしい。 では、この奇妙な黒猫は やはり嘘をついているのだ。 人間である自分が、獣である猫に まんまと騙されてしまったのだ。 人間としての尊厳を侮辱されたような この事態。 だが、今は、氷河が無事でいてくれたことへの安堵の方が先に立つ。 瞬は 安堵の色と響きだけでできた声で、電話の向こうにいる氷河に、 「あの……ううん。何でもない。ごめんなさい。邪魔して」 と答えた。 「別に、何か用があるわけじゃないから構わないぞ。何かあったのか」 「あ……」 氷河の無事を確かめて、せっかく心を安んじることができたというのに――氷河の その一言が瞬の胸を えぐる。 「ううん……。いいの。ごめんなさい」 瞬は沈んだ口調で そう答え、氷河の返事を待たずに電話を切った。 『何か用があるわけじゃないから』 多分 そうなのだろうと思ってはいたのである。 だが、知りたくはなかった。 氷河が無事でいてくれるのなら、自分の人間としての尊厳が傷付けられたことなど些細なこと。 そう思いかけていたのに、氷河への電話を切った時、瞬の胸の中には 傲慢な猫への憤りが生まれてしまっていた。 こんな得体の知れない猫が現われたせいで、自分は、知らずにいたかったことを はっきりと知らされてしまったのだ――という憤りが。 「氷河は猫のことなんか、知らないって。あなた、本当は何者なの!」 問い質す口調が、我知らず きついものになる。 氷河である可能性がなくなった嘘つき猫に 優しくしてやる義理はない。 いっそ 冷やかといっていい声音で、瞬は黒猫に真実を話すことを求めた。 「俺は……」 猫が答えを言い淀む。 その漆黒の美しい身体。 瞬は、ある可能性に思い当たった。 「まさか……あなた、ハーデスなの?」 「何を言うんだ。俺は――」 『俺は人間だぞ』と、この猫は言うつもりなのだろうか。 瞬は、そんな たわ言を聞く気にはなれなかった。 今は特に。 「いくら聖闘士でも、ただの人間の心が自分以外の生き物の中に入り込んだりできるはずがないでしょう。でも、神なら、そんなこともできるかもしれない。――ううん、できるよね」 既に人格のある人間への憑依、肉体の乗っ取り。 アテナ以外の神は、平気でそういうことをする。 絵梨衣やジュリアン・ソロは、そういう無慈悲な神たちの犠牲者だった。 「ハーデスなんでしょう? やっぱり、そうなんだ。おかしいと思った。もし やむにやまれぬ事情があって、どうしても猫の身体を借りなければならなかったんだとしても、氷河なら 黒猫なんて選ばないよ。氷河ならきっと、純白の――」 「勝手なイメージで俺を偽者扱いするな!」 勝手なイメージを抱いて、氷河なら こうすると決めつけるのは、確かに 氷河に対して失礼なことなのかもしれない。 だが、瞬は、身勝手な神に そんなことで責められたくはなかった。 「また、僕の身体を使って悪いことしようと企んでるの」 「悪いことなど企んでいない」 その言葉を信じろと、ハーデスは言うのか。 信じられるわけがない。 そんな言葉を信じて 二度まで騙されるほど、瞬は学習能力に不足してはいなかった。 「信じられるわけないでしょう! 早く、ここから出てって。二度と僕に近付かないで!」 瞬は、瞬にしては断固とした口調で そう言いきった。 もし この猫の正体がハーデスなのであれば、彼をこのまま城戸邸から追い出すことは危険な行為なのかもしれない。 そういう懸念がないでもなかったのだが、今は瞬は とにかく この猫の姿を見ていたくなかったのだ。 知りたくなかったことを無理に知らせてくれた、思い遣りのない猫の姿など。 そんな瞬に、黒猫が 悲鳴じみた怒声で訴えてくる。 「出ていけだと? いったい どこへだ。猫の身で ここを追い出されたら、俺は野良猫になるしかないだろう。俺は今日 突然、自ら望んだわけでもないのに、猫なんかにさせられてしまったんだぞ! 当然、エサの取り方も知らない。ここを追い出されてしまったら、俺は飢えて死ぬしかないじゃないか!」 「え……」 自ら望んだわけでもないのに 猫にされてしまったハーデスの滑稽な悲喜劇は、視点を変えて見れば、自ら望んだわけではないのにハーデスにさせられてしまった猫の悲劇だった。 その意識や魂が(今は)邪神のものだったとしても、猫の身体は猫自身のもの。 不運にも 邪神に その身体を乗っ取られてしまった 罪のない猫の死を甘受黙認することは、瞬には到底できることではなかった。 おそらく ハーデスの魂が その身体から出ていけば、この猫は元の普通の猫に戻ることができるのだ。 冥界において、アンドロメダ座の聖闘士が そうだったように。 瞬の中に、不運な猫への同情が ふつふつと湧いてくる。 「じゃあ、食べ物だけは運んできてあげるけど」 瞬があっさり折れたことは、ハーデスには意外なことだったらしい。 彼は ふいに、冥府の王らしくないことを――瞬が知っているハーデスは、自身の冷酷や残酷に気付いていないような男だった――言ってきた。 「……優しいな。俺は おまえの敵かもしれないのに」 「優しいなんて言わず、はっきり 甘いって言っても構わないよ。自分でも わかってる。でも、僕は あなたのためにそうするんじゃない。残酷なあなたに こんなふうに利用されることになった かわいそうな猫のために そうするんです」 自分が アテナの聖闘士として してはいけないことをしようとしていることは、瞬にもわかっていた。 だから瞬は、アテナの聖闘士として、そう言うしかなかったのである。 相手はなにしろ、アテナとアテナの聖闘士と聖域の宿命の敵、瞬が しようとしていることは、その宿命の敵の命を永らえることへの協力なのだから。 「そうか……」 黒猫のハーデスが、気落ちしたような声を洩らす。 そして、彼は、重ねて冥府の王らしくない言葉を呟いた。 「俺には何の力もない……。今の俺は、人の情けにすがらなければ 自分の命を維持することすらできない無力な存在というわけだ」 「ハーデス……?」 つらそうに、低く呻くように そう呟くハーデスに、瞬は 決して小さくない戸惑いを覚えた。 ハーデスはこんな男だっただろうか。 確かに、猫の身体に寄生し、アテナの聖闘士にエサをねだらなければならない状況は、神であるハーデスには 情けなく屈辱的な状況ではあるだろう。 だが、一度は 地上世界を死の世界にしようと企て、アテナを その膝下に跪かせたこともある冥府の王が、人間の前で弱音を吐くとは――。 同情してはならないと思うのに、ハーデスの悲痛な声に 瞬の胸は痛んだ。 しょんぼりしている猫を見ていると、ハーデスごと 本当に同情してしまいそうで――瞬は慌てて黒猫の上から視線を逸らしたのである。 いたたまれなくなり、逃げるように厨房に向かい、そこで見付けたシーチキンの缶詰と削り節を持って、黒猫の許に戻ってくる。 調達してきた食糧を皿に開け、瞬は その皿を黒猫ハーデスの前に そっと置いた。 「こ……こんなので大丈夫? あとで、こっそり猫のエサを買ってくるけど、とりあえず……」 ハーデスが、一度 鼻で くんくんと匂いを嗅いでから、シーチキンをぺちゃぺちゃと食べ始める。 まさしく猫というしかない その仕草を、つい可愛いと思ってしまった自分に、瞬は慌てて活を入れた。 |