「やっぱり、あなたは氷河じゃないね。目的は何なの」
黒猫の正体が氷河でないことは、昨日の時点でわかっていた。
未練がましく二度目の電話をかける自分が馬鹿なのだ。
瞬も、それは自覚していた。
「知らん。気がついたら、猫になっていたんだ」
昨日と同じ説明を、ハーデスが繰り返す。
『そんなことは信じられない』と、昨日と同じ言葉を繰り返す気力も 今は湧いてこない。
電話をポケットにしまい、瞬が 力なくベンチに腰を下ろすと、黒猫が その膝の上に飛び乗ってきた。

「おまえ、元気がないぞ」
ご自慢の美しい肉体を失い、地上を死の世界にするという野望の実現も ほぼ不可能になり、ハーデスは考えることに事欠いていたのだろうか。
ハーデスが、かつては敵だった者の身を気遣っているような言葉をかけてくる。
アテナの聖闘士としての面目と体面を保つための嘘を思いつくことができなかった瞬は、仕方がないので 事実を彼に告げた。
「そりゃ……氷河がシベリアに行っちゃってるんだもの。寂しいよ」
「寂しい? おまえには、他にも仲間がいるだろう」
「でも、一人でも仲間が欠けてるのは寂しい……」

自分以外の誰かを愛したことのないハーデスには、“寂しい”という感情は理解できないだろう。
もし その気持ちをハーデスが理解できたとしても、彼には何もできない――彼には アンドロメダ座の聖闘士を支配している“寂しい”という気持ちを消し去ることはできない。
それができるのは、この世界にただ一人だけ。
だが、そんなことをハーデスに知らせるわけにもいかず、瞬は その視線を脇に逸らした。
「おまえ……もしかして……」
「え?」
猫のくせに――あるいは、冥府の王のくせに――ハーデスは人間である瞬の気持ちを推し量ろうとしたのだろうか。
瞬の考えを窺うように首をかしげ、その顔を覗き込み――だが、すぐに そんなことをするのは馬鹿らしいと思い直したように、彼は 瞬の膝の上で身体を丸めてしまった。

「そんなことがあるはずがないか。あんなマザコン」
「マザコン……って……」
どうしてハーデスが そんなことを知っているのだと戸惑ってから、瞬は慌てて その戸惑いを打ち消した。
それではまるで、氷河の仲間である自分が 氷河はマザコンだと認めてしまっているようではないか。
それは氷河に対して失礼というものである。
「な……なに変なこと言ってるの。氷河はマザコンなんかじゃないよ。もしそうだったとしても、大切なお母さんを大好きで、何がいけないの」
「悪くないとでもいうつもりか? いい歳をして、いつまでも死んだ母親にこだわり続けて。あれの師匠も 奴のマザコンにはうんざりしていたんだ」

氷河のことのみならず、カミュのことまで。
彼等の本当の気持ちも知らないくせに 勝手なことを言うハーデスに、瞬は腹を立てたのである。
どうやら現在の自分の立場を正しく理解できていないらしいハーデスに、瞬は つい脅しをかけてしまった。
「氷河のこと 悪く言うなら、もう食べ物 持ってきてあげない」
「俺を殺す気かっ!」
途端に ハーデスが、冥府の王らしからぬ悲痛な悲鳴をあげる。
その悲鳴に少しばかり留飲を下げて、瞬は 自分の膝の上で尻尾の毛を逆立てているハーデスに命じたのだった。
「なら、約束して。氷河のこと、悪く言わないって」
鼻と髭をぴくぴく震わせて、黒猫が ついと横を向く。
少しの間を置いてから、彼は瞬の要求に(形だけ)応じてみせた。

「わかった、わかった。氷河は実に立派な男だ。馬鹿で阿呆で 人に迷惑をかけてばかりいるが、要するに ただそれだけだしな」
どれほど好意的に考えても、ハーデスはまだ自分の置かれた立場を正しく理解していない。
吐き出すように投げ遣りな口調で そう言うハーデスに、瞬は むっとして 猫の耳を引っ張った。
「氷河は優しいの。あなたみたいに冷酷でも薄情でも傲慢でもない。お母さんのことを忘れないのだって 愛情深いからだし、いつも一生懸命で一途で……優しすぎるくらい優しいから、氷河は クールな振りだってしなきゃならないんだよ」
「一途? ふん。とんだ買いかぶりをしたもんだ。あれは、その時その時に一つのことしか考えられない単細胞なんだ。周りのことが見えていないだけ。いや、見えていないというより、見ることを思いつきもしないんだ。馬鹿だから」
「……」
ハーデスの氷河評を、瞬は意外に思うことになったのである。
なぜハーデスが そこまで氷河の人となりを知っているのか。
彼は氷河と言葉を交わしたことはおろか、まともに対峙したこともないはずである。
用いる言葉は 到底 好意的といえるものではなかったが、彼の氷河評は的確だった。

「氷河は……氷河は、確かにそういうところもあるけど、それはいつも何事にも真剣だからだよ。何に対しても、誰に対しても、氷河は誠実で真摯なの。誠心誠意で向き合ってるの。あなた、氷河の目を見たことがないでしょう。真っ青で、すごく綺麗なんだから。みんな、僕の目が澄んでるっていうけど、氷河の目の方がずっと綺麗なんだから……!」
氷河を知らない(はずの)人間(本来は神だが)(そして、現在は猫だが)に そんなことを訴えても、真実の氷河を知ってもらうことは不可能。
神(今は猫だが)に氷河の瞳の美しさを理解してもらうことはできない。
それは わかっていたのだが、それでも瞬は彼に訴えずにはいられなかった。
猫の姿をしたハーデスが、そんな瞬の言葉を、文字通り鼻で笑う。

「おまえは、鏡を通してでないと自分の目を見れないから、そんな馬鹿げた勘違いをするんだ。おまえは、おまえの目のすごさを知らない。おまえの目は――ちょっと気を抜いて見詰めてしまうと、かなりの気力を振り絞らなければ 目を逸らせなくなるほど強い向心力を持っている。その力は、もちろん 氷河に対しても有効だ」
「え……?」
黒猫の言う通り、確かに瞬は 自分の目を直接見たことはなかった――それは瞬には不可能なことだった。
ゆえに当然、猫の言うことが事実なのか嘘なのか、自分では確かめることができない。
そして、その真偽を確かめることができないということは、猫の言うことを嘘だと決めつけることもできないということだった。
だから瞬は戸惑ったのである――期待してしまったのである。
ハーデスでも 本当のことを言うことはあるのではないかと。
黒猫が、瞬の目を見上げ、見詰め、すぐにまた横を向く。

「氷河も、おまえの目だけは なるべく見ないようにしていた」
「あなたは氷河を知らないでしょう。そんな憶測――」
「……俺は神だぞ。すべてが見えている。奴は、おまえに気があるんだ」
「な……なに言い出したの」
いったい この猫は、急に何を言い出したのか。
瞬は、自分でも驚くほど、猫の言葉に取り乱していた。
アンドロメダ座の聖闘士の心臓の鼓動が激しく騒ぎ出したことを、膝の上の猫に悟られてはならない。
だが、こんなに近くにいて 悟られずにいられるだろうか――。
瞬の混乱は大きくなるばかりだった。
瞬の鼓動の変化に気付いているのか いないのか、黒猫のハーデスが、
「事実だ」
と、短く告げてくる。

「そ……そんなこと、信じられないよ! 地上を死の世界にしようとした神の言うことなんて信じられない! あなたは、そうやって 僕の心を乱して、隙あらば僕の身体を乗っ取ろうと企んでるんだ……!」
そうに決まっている。
いくら神でも、本当にハーデスに“すべてが見えている”はずがないのだ。
ハーデスに騙されてはならない。
彼の言葉を信じてはならない。
必死に自分に そう言いきかせ、だが、どうしても自分の心を落ち着かせることができず、そんな自分を振り切るように、瞬は掛けていたベンチから勢いよく立ち上がった。
「瞬!」
弾みで、瞬の膝から地面に落とされることになったハーデスが、神の傲慢さが消えてしまった声で瞬の名を呼ぶ。
彼が何を案じているのかを察し、努めて冷静を装い、瞬は彼に告げた。

「あなたを見捨てるわけじゃないから、そんな悲痛な声を出さないでいいよ。冥府の王の ごはんを買いに行くだけ」
この場から立ち去る理由は何でもよかった。
とんでもないことを まことしやかに言い募るハーデスと、これ以上 この場に一緒にいるのは危険だと思っただけで。
城戸邸の敷地の外に出ず、邸内にも入らないよう、ハーデスに厳命して、瞬は猫の食事の買い物に出ることにしたのである。
今は、それが何でもいいから何かをして、猫のせいで乱れた心を落ち着かせたかった。






【next】