そうして、瞬は、これまで通りすがりに外観を見るだけだったペットフードショップに向かった。
そこで、信じられないほど多くの種類がある猫の食品を物色しながら、瞬は、乱れた自分の心を立て直したのである。
何を買えばいいのかがわからなかったので、とりあえず ラベルに“オーガニック自然食”と謳われている“高価”の部類に入る猫缶を購入。
それを持って、瞬は、自分には すべてが見えていると豪語する猫の許に戻った。
「か……仮にも神様だったんだから、粗食はつらいでしょ」
そう 言いながら、猫缶の中身を皿に移してハーデスの前に置く。
それが気に入ったのか、黒猫のハーデスは ぺちゃぺちゃと音を立てて、“オーガニック自然食 チキン&ビーフ”を食べ始めた。

それは 人間ならマナー違反といっていい食べ方だったが、猫の“ぺちゃぺちゃ”は『美味しい』という言葉の同義語のようで、なぜか気に障らない。
無理に普通の猫だと思い込めば、黒猫のハーデスは とても綺麗で可愛い生き物だった。
命をつなぐために一心にエサを食べている生き物の姿を眺めていると、瞬の唇も つい ほころんでしまう。
「俺には猫の食い物のことは よくわからないが、これは人間用のシーチキンより 高そうだな」
「え? やだ、あなた、神様のくせに缶詰の値段なんか気にするの」
ハーデスはハーデスなりに、自分が人間の世話になっていることに引け目を感じているのだろうか。
俗世を超越した神どころか 人間の、それも庶民のようなことを言うハーデスに、瞬は唇だけでなく気持ちまでが ほころんできてしまったのである。
そして、人間であるアンドロメダ座の聖闘士の力を借りなければ命をつなぐことができない自分の立場をわかっている今のハーデスなら――神ではなく 黒猫のハーデスなら――嘘はつかないのではないかと、瞬は思った。

もちろん、冥府の王が嘘をつく可能性はある。
だが、それは 要するに、アンドロメダ座の聖闘士が冥府の王の言葉を鵜呑みにしなければいいだけのこと。
聞くだけなら いいのではないか。
そう自分を説得し――むしろ自分に弁解し、瞬は、皿の上のものを あらかた食べ終えたハーデスに尋ねてみたのである。
「ね……ねえ、氷河が僕のこと好きでいてくれるって、ほんと?」
「そんな嘘を言って、冥府の王に何の得がある」

言われてみれば その通りである。
『氷河は おまえを嫌っている』という嘘なら、アテナの聖闘士たちの内部分裂を誘うのに有効かもしれないが、白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士を好きでいるという情報をアンドロメダ座の聖闘士に伝えることは、冥府の王にどんな利益ももたらさない。
それで、アンドロメダ座の聖闘士が喜び張り切ってしまったら、逆にハーデスは多大な不利益を被ることになるかもしれないのだ。
『ハーデスに騙されてはならない』
『彼の言葉を信じてはならない』
もう一度自分に そう言いきかせ、瞬は重ねてハーデスに尋ねた。

「氷河は、でも、何かっていうと、ううん、何か用があるわけでもないのに、僕たちを残して すぐにシベリアに行っちゃうんだよ。好きなら――僕のこと好きでいてくれるなら、普通は そんなことしないでしょ。普通は逆でしょ。なのになぜ――」
「あれに普通を求めて どうするんだ。おまえの側にいると、おまえに好きだと言ってしまうそうになるからだ」
「それ……言っちゃいけないことなの……」
『おまえが嫌いだ』なら、言ってはいけないと氷河が考えても おかしなことではない。
『嫌い』は、地上の平和を脅かす敵に力を合わせて立ち向かっていかなければならない仲間たちの間に 亀裂やしこりを生みかねない危険な言葉である。
だが『好き』は、そうではない。
そうではないのになぜ、と瞬は疑った。
だが、現実は――人の心は、そう単純にできているものではないようだった。

綺麗に空になった皿の前に両前足を揃えて置き、その前足に尻尾の先を重ねて行儀よく座ったハーデスが、瞬の顔を見上げてくる。
おそらく それは猫にとってはリラックスしている座り方ではない。
黒猫ハーデスは今、とても緊張して、そして とても真面目に、アンドロメダ座の聖闘士に対峙している――ように、瞬の目には見えた。
緊張して、真面目に――彼が告げる言葉は、だが やはり憎まれ口といっていいものだったが。
「馬鹿で阿呆でも 一応 人間だから、奴も想像力や感情を持っている。あんな阿呆でも、好きな相手に振られるのは恐い。それに おまえは何というか――たちが悪いくらい清らかだからな」
「清らかだと、好きって言えないの」

なぜ そんな理屈が成り立つのか。
ハーデスに問い返す瞬の口調が、少しく非難めいたものになる。
黒猫は、真面目な顔を保ったまま頷いた。
「人間には、清らかなものや美しいものに出会った時、それを汚したくなる人間と、その清らかさや美しさを汚すまいとする人間の2種類がある。氷河は後者だ。極端なほど後者。汚すまいとするあまり、清らかなものや美しいものに触れることを躊躇する。恐れさえする」
「それは……それは わかるような気がするけど……。氷河は、綺麗なマーマの思い出を汚されたり貶められたりすることが嫌なんだよね。いつまでも綺麗なまま、心の中に残しておきたいんだ」

『死んだ者のことなど忘れろ』
『忘れて大人になれ』
氷河の師は そうなることを彼の弟子に求めていたようだったし、それに類することを 氷河の仲間たちが 半ば茶化すように氷河に告げることも、これまでに幾度もあった。
だが、氷河に そんなことを言ってはならないのだ。
そんなことを言われたら、氷河は反発する。
氷河の意思や理性ではなく、心が、感情が、自然に反発してしまうのだ。

それがわかるから、瞬は氷河に そういうことを言ったことはなかった。
というより瞬は、氷河が彼の母を、彼女が亡くなった今でも慕い続けていることを、好ましく思っていたのである。
それは氷河の情の深さを表わしており、それほど愛せる人に出会えた氷河の幸福を示すことでもあったから。
そして、そんな氷河なら、彼と同じように人を深く愛する人間の存在を 許し、認め、受け入れてくれるだろうと思うことができたから。

「でも……清らかだと、氷河に好きって言ってもらえないのなら、僕、今すぐ清らかじゃなくなっていいよ。どうすれば、清らかじゃなくなれるの」
おそらく今 ハーデスが言っている“清らか”とは、断固として汚れることを拒む頑なさや 融通の利かなさのことだろうと、瞬は思っていた。
自分がもっと気安く 肩の力を抜いて接することのできる人間になれば、氷河は、彼が言えずにいる言葉を、気安く 肩の力を抜いて言ってくれるに違いない。
どうすれば そんな人間になることができるのか。
その方法さえ わかったら――その方法がわかったら、瞬は すぐにその やり方を実践するつもりだった。
ハーデスが そんな瞬を見て、猫の顔をしかめる。

「まさかとは思うが、もしかして おまえは あの馬鹿が好きなのか」
「そ……そんなんじゃないよ……! ううん、もちろん好きだよ。氷河は僕の大切な仲間だもの、好きでいるのは当然のことでしょう! い……いけない !? 」
自分は、猫相手に、何を言い訳がましく、何を向きになって、好きだ嫌いだと言い募っているのかと、言い訳がましく 向きになって、好きだ嫌いだと言い終えてしまってから、瞬は思った――そんな自分に呆れた。
相手は猫ではないか。
猫に本心を知られても、困るようなことはない。
人間ではなく猫だから、仲間ではなく他人たから、気安く言えることもある。
そう考え、自分を落ち着かせるために長く吐息して、瞬は、綺麗な黒猫の前で正直になることにした。

「……氷河は、気がつくと、いつも僕を見てるの。あんまり見てるから――睨んでるみたいに見てるから、僕はずっと、何か氷河に嫌われたり憎まれたりするようなことを 僕がしちゃったんだと思ってたんだ。でも、僕たちは仲間だから、僕のこと気に入らないって言えなくて、それで氷河は頻繁にシベリアに帰ってるんだろう……って。だから……」
「そんなことがあるはずがない。あれは おまえが好きなんだ。好きで好きで たまらないから、おまえの側から 逃げ出さずにいられない」
『ハーデスに騙されてはならない』
『彼の言葉を信じてはならない』
瞬は、再々度 自分に言いきかせた。
言いきかせて、猫に告げる。――正直に。

「あなたの言うことを信じるわけじゃないけど、もし氷河が僕のこと好きで見てくれてるのなら、僕は とっても嬉しい」
冥府の王は また憎まれ口を叩いてくるだろうと、その時、瞬は覚悟していたのだが――ハーデスは 意外なほど優しく、まるで誰かに同情しているように、頭と尻尾を同時に左右に振ることをした。
「あれには 勇気がないんだ、母を失った経験の衝撃が大きすぎて、同じ経験をすることを恐れている。そのくせ、無鉄砲で――いや、臆病だから、それを人に悟られぬようにするために、あれは逆に無鉄砲なのかもしれん。臆病で無鉄砲。救い難いな」
「……」
出会いの時から不思議だったのだが、氷河とは面識がないも同然のはずなのに、ハーデスは 妙に氷河の人となりをわかっている(ように思える)。

瞬が彼に、
「僕の方から好きだって言ったら、その……氷河は嫌がったりしないで、僕の側にいてくれるようになると思う?」
と尋ねてしまったのは、そのせいだった。
そして、
「あの馬鹿は小躍りして喜ぶだろうが、あれは、臆病なくせに変なところでプライドが高いから、自分から好きだと言いたいと思っているだろうな」
という彼の返答を鵜呑みにしてしまったのも、そのせい――ハーデスが なぜか氷河の人となりを知っている(ように思える)せいだったろう。

「どうすれば、氷河は僕と一緒にいてくれるようになるの。氷河は何かっていうと すぐにシベリアに帰っちゃうんだよ。僕じゃ――仲間じゃ、マーマを失った氷河の心を埋めてあげられないんだって、僕は それが悲しいの」
「そんなのは簡単だ。おまえに早く帰ってきてくれと言われれば、あれは すぐにおまえの許に帰ってくる。臆病者というものは、概して そういうものだ。相手が自分を受け入れてくれるという保証が得られれば、浮かれて行動を起こす。それで調子に乗って暴走し、失敗して、臆病者に逆戻りするんだ。あれは馬鹿だから、調子に乗っている時と 臆病になっている時の振れ幅が大きい。そして、生死に関わるような大きな失敗を、性懲りもなく繰り返す」
「……」

ハーデスには、本当にすべてが見えているのだろうか。
まるで氷河の人生を共に歩んできた者のように、彼は氷河の言動に詳しい。
瞬は、驚きの念を禁じ得なかった。
確かに氷河には そういうところがある。
とはいえ 瞬自身は、氷河のそういうところを彼の欠点だとは思っていなかったのだが。
挑戦し、失敗し、希望を見付け、また挑む。
それは、すべての人間が 自らの人生を生きる過程で繰り返すことである。
それこそが“生きる”行為そのものと言ってもいい。
それで臆病になりすぎて行動を起こすことをしない自分より、再び挑んで失敗する人間の方が ずっとましだと、瞬は思った。

臆病者の瞬。
『臆病者というものは、相手が自分を受け入れてくれるという保証が得られれば、浮かれて行動を起こす』
瞬は、今まさに そういう状況に置かれていた。
瞬に与えられたものは、保証と言えるほど確かなものではなく、かつては敵だった者の憶測という、微かな――到底 信頼に足るものではない微かな――希望にすぎなかったが。
それでも瞬はアテナの聖闘士――希望の闘士。
どれほど小さく頼りないものでも、そこに希望があるのなら、挑んでいきたいと思ってしまう人間だった。

「ほんと? ほんとに、僕が早く帰ってきてって頼んだら、氷河は僕のところに――僕たちのところに帰ってきてくれると思う?」
瞬の問い掛けに、
「神の言うことが信じられないのか」
ハーデスは自信満々で即答してきた。

『ハーデスに騙されてはならない』
『彼の言葉を信じてはならない』
相手は、アテナとアテナの聖闘士の敵だったもの、地上を死の世界に変えようとしていた(人類にとっての)邪神である。
もちろん、信じてはいけない。
それはわかっている。
わかっているのだが――。

瞬は、それ以上 ハーデスには何も言わず、何も問わず、胸中の迷いそのままの覚束ない足取りで邸内に戻った。
自分の背中を無言で見詰めている黒猫の視線を痛いほどに感じながら。






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