「ハーデス! ハーデス!」
誰よりも先に まず彼に、この嬉しい事態を知らせたい。
氷河の答えを手に入れると、その足で 瞬は庭に飛び出した。
その名を呼ぶまでもなく、2時間前に別れた場所に2時間前と同じ姿勢で佇んでいた彼が、その視線を瞬の方に巡らせてくる。
「なんだ」
「あれから、氷河に電話したの。早く帰ってきてって。氷河、すぐに帰ってきてくれるって!」
「俺の言った通りだっただろう」
「うん! ハーデス、何か食べたいものない? 欲しいものない? すぐに買ってくるよ! ビーフでもマグロでもエビでもチキンでも!」

ハーデスが見せてくれた希望の光への感謝の気持ちを どうすれば伝えることができるのか。
それが思いつかず、ともかく彼の命をつなぐものの名を羅列した瞬に呆れたように、ハーデスは その尻尾で 2度3度、軽く地面を叩いた。
「おまえ、意外に現金な奴だったんだな」
誰に何と言われようと、弾む気持ちを静めることはできない。
隠しようのない満面の笑みを、瞬はハーデスの前にさらしていた。
その推察が的中したのだから得意がってみせても構わないのに、ハーデスが あまり嬉しそうにではなく、冷ややかと言っていいほど落ち着いた目で、そんな瞬を見詰めてくる。

「まあ、いい。俺はそろそろ帰らなければならない。……が、俺を呼んでいる」
「え? 誰が?」
ハーデスの言葉は“声”でも“音”でもなく、瞬の頭の中に直接響いてくるもの。
ゆえに聞き逃すことは不可能である。
では、ハーデスは、おそらく意図的に その名(?)を言い落したのだ。
ハーデスを呼んでいるもの。
瞬には、それを 良いものだと思うことはできなかった。

「どうして? 呼んでるって、誰が? ハーデス、行くとこ、ないんでしょ。ずっとここにいていいんだよ。悪いことしないなら、僕がずっと面倒を見てあげるよ。ごはんだって、ハーデスが食べたいものを食べさせてあげる」
かつては強大無比な力を持つ冥府の王であり、アテナとアテナの聖闘士の前に立ちはだかった最大の壁だったとしても、今は自力で生きる術すら持っていない無力な猫である。
彼を見捨てて 無情に俗世に放り出すことは、瞬には到底できることではなかった。
慌てて ハーデスを引きとめようとした瞬に、黒猫が 思いがけないことを言ってくる。

「俺はハーデスじゃない」
「え……?」
ハーデスではない。
では、誰だというのか。
己れの本当の肉体を、彼が支配していた世界を、アテナとアテナの聖闘士たちに奪われてしまったから、彼はアテナの聖闘士のいる場所にやってきたのではなかったのか。
この美しい姿をした黒猫が冥府の王ハーデスでなかったとしたら、他の誰であり得るのか。
それが瞬にはわからなかった。

「で……でも、だって……じゃあ、誰なの」
「氷河だと言っただろう」
「氷河は、たった今シベリアで……氷河は、これから僕たちのところに帰ってきてくれるって」
氷河の意識が2つに分かれ、日本とシベリアという遠く離れた2つの場所に それぞれ存在している――と、彼は言うのだろうか。
そんなことがあり得るのだろうか。
あり得るのだとしても――ならば なぜ、もともとは1つのものであるはずの2つの意識が シンクロしているように見えないのか。
たった今 シベリアにいる氷河は、黒猫のことなど全く知らぬげだった。
黒猫の言葉は、瞬には信じられないものだった。
黒猫が、更に言葉を続けてくる。

「氷河だ。俺は今、聖域の――天秤宮にいる。俺なんかが生きていても仕様がないと決めつけ、諦め、生きることや戦うことを自ら放棄して――死ぬつもりで」
「天秤宮……?」
黒猫は――黒猫の氷河は、彼が“今”の氷河ではないと言っている。
過去の――ポセイドンとの戦いも ハーデスとの戦いも まだ経験していない、十二宮戦の頃の彼だと。
では、彼は、ハーデスがどのような神なのかも知らないまま、ハーデスの振りをしていたというのか。
だから、人間の庶民のように缶詰の値段を気にし、対峙する者に 神の傲慢さを感じさせず、氷河の人となりに詳しく、蔑むような口調で氷河という人間を語っていたのか――。

「氷河……なの?」
黒猫が首肯せず――微動もしないことで、『そうだ』と答えてくる。
どうやらそう・・であるようだった。
「誰かはわからないが、何者かが こんないたずらをしたんだ。時空の法則を無視し、俺の心を猫の中に閉じ込めた。最初は、俺を完全に殺し切れなかったカミュの仕業なのかと思っていたんだが、いくら黄金聖闘士でも、人間にこんなことができるわけがなかったな」
「じゃ……じゃあ、誰が……」
「人ではなく神だろう。知恵と戦いの女神。それしか考えられない。彼女が、生きていれば いいことがあると俺に教えるために、時空を捻じ曲げてこんなことをしたんだ」
「沙織さんが――」
彼女なら、そんな いたずらをすることもあるかもしれない。
氷河以上に無鉄砲で、どこまでも アテナの聖闘士たちの力を信じてくれている彼女なら。
そして、黒猫の中の氷河は 今この時間の上に存在している氷河ではないから、今の氷河には ちゃんと彼自身の意識があって、二人の氷河の意識は同期が取れていないのだ。

「俺の身体は今、天秤宮で死にかけている。おまえが俺を呼んでいる。俺は――俺の身体の中に戻らなければならない。俺のおまえの許に帰らなければならない。生きるために――」
「氷河……なの? 本当に? あの時の氷河……?」
「アテナ自身も生きるか死ぬかの瀬戸際にいるというのに、こんなことをしでかしてくれたんだ。彼女の期待に応えるためにも、俺は帰らなければならない。本来の自分の許に。生き続けるために。俺は――」
あの時の氷河が、まさか こんな経験をしていたとは。
こんな経験をさせられていたとは。
アテナでなければ思いつかない、とんでもない暴挙。
魂を入れる器に事欠いたにしても、猫の身体に人間の魂を移植するとは。
瞬は、アテナの無謀に驚き呆れて、自分の足元にいる黒猫を まじまじと見詰めることになった。

「アテナやおまえだけでなく、おそらく星矢たちも……。俺は、師でさえ見捨てた俺の生を願ってくれている人がいるとは思っていなかった。俺は本当に愚かだった。周りが見えていなかった――見ようとしなかった。猫になって やっと そんな大切なことに気付くとは、俺は本当に――」
「氷河は……氷河は本当は ちゃんと気付いてたよ。ちゃんと わかってた。あの時はただ、カミュが氷河の力を信じてくれなかったことにショックを受けちゃっただけなんだよ」
「いつも ただ一つのことにだけ気を取られる俺らしい軽挙だ」
「そんなことないよ! 氷河は僕たちのところに帰ってきてくれたもの! 氷河は、僕たちのことを思い出してくれたんだ……!」

それが何より大事なこと。
人が悩み、迷い、惑うのは、決して愚かなことではないのだ。
悩み、迷い、惑う事柄は違っても、誰もが同じように悩み、迷い、惑う。
それは瞬も同じだった。
氷河だけのことではない。
必死に言い募る瞬の瞳を見詰め、黒猫の氷河は、今は猫の身体の中にいる自分を もどかしく思っているように、その身体を揺らした。
「おまえは優しいな」
猫の氷河が そう言って、その鼻と髭をぴくぴくさせる。

「瞬。今の――この時間の俺は、自分が猫だった時のことを忘れている。元の身体に戻ると、俺は、猫として経験したことを忘れてしまうんだ、多分。アテナは、絶望して死を受け入れようとしていた俺に 漠然とした希望だけを与え、本当の幸福は俺自身の手で掴んでほしいと願っていたんだろう。もし猫だった時の記憶が残っているのなら、俺は十二宮の戦いが終わった時点で、おまえに好きだと告白していただろうからな。そうしなかったところを見ると、おそらく」
「氷河、忘れちゃうの……」
氷河に知られたくないことを彼に知られてしまった気まずさはないでもないが、すべて 忘れられてしまうのは少し寂しい。
少し落胆した瞬に、氷河は、細く長い猫の声で笑い声を作った。
「だが、いちばん大事なことは忘れないからな。“生きていれば、いいことがある”」
「いいこと……って」

氷河は気付いているのだろうか。
今、彼が本来の彼の肉体に戻ることが 何を意味しているのかを。
“いいこと”どころか。
元の時間で 彼を待っているのは、彼と 彼の師との哀しい戦いなのである。
「氷河……」
瞬は、彼を引きとめたかった。
引きとめてはいけないのだということは わかっていたのだが、それでも。
氷河は既に 彼の師との戦いを決意しているように見えたから、なおさら。
おそらく その決意を瞬に気付かせぬために、氷河は、いかにも猫らしく――その前足で自分の顔を撫でる。

「俺はおまえが好きだったんだ。ガキの頃からずっと、特別に。だが、おまえは誰にでも優しいから、俺がおまえの“特別”になることは無理だろうと諦めていた。が、どうやら俺は諦めなくてもいいらしい」
「氷河……」
「俺は、俺自身と、俺の仲間たちと、俺のおまえがいるところに帰る。生きていれば、いいことがあるから」
氷河は すべてを覚悟して、その上で笑っているように見えた。
ならば、今の瞬にできることは、彼の強さを信じて 彼の決断を尊重し、彼を彼の本来の居場所に笑顔で送り出すことだけである。
氷河の強さを信じること。
それは瞬には 至極容易なことだった。

「うん……。僕のところに帰ってあげて。僕は、僕の氷河の帰りを待つよ」
「ああ」
「さようなら。またね」
「またな」
そう言って、黒猫の氷河が身体を起こし、その顔を空に向ける。
彼はアテナの名を呼んだのだろうか。
そして、『もう大丈夫』と彼の女神に告げたのだろうか。
次の瞬間、美しい毛並みを持った しなやかな黒猫の姿は、城戸邸の庭から忽然と消えてしまっていた。

ただ一人で 晴れた冬の空の下にいる自分に気付いた瞬は、元の時間に戻った氷河が これから挑むことになる幾多の試練の苛酷を思い、胸が痛んだ。
その試練の果てに、彼が価値あるものを掴み取ることが わかっているから、瞬の胸に去来する思いは 決して悲しみばかりでなかったのだが。






【next】