「迷宮調査? クレタ島のクノッソス宮殿の、ですか?」 アテナに そう問い返した俺に非があるだろうか。 迷宮と言ったらクレタ。 クレタと言ったら、クノッソス宮殿。 それは、お約束と言っていい連想だろう。 クレタの名を出され、迷宮という単語を出されたら、誰だって ごく自然に クレタ島のクノッソス宮殿のことを言っているのだと思うに決まっている。 まあ、今から3500年も昔に栄えたミノア文明の頃に建てられたクノッソス宮殿は、今は遺跡という名の瓦礫の山。 探るも何も、現代では、宮殿があった正確な位置さえわからない。 そんなところに行かされるのが嫌で、俺が真剣にアテナの話を聞いていなかったのは、紛う方なき事実なんだがな。 「違うわ。本当に あなたは人の話を聞くのがへたくそね。クノッソス宮殿があるクレタ島ではなく、クレタから10キロほど東にいったところにあるアソス島にある迷宮よ。あなたに行ってほしいと、私が腰を低くしてお願いしているのは」 何が『腰を低くしてお願いしている』だ。 『腰を低くする』ってのは、一段も二段も高いところにある玉座に 偉そうに ふんぞり返って、彼女の下知を謹んで拝聴している(振りをしている)可愛い部下を『へたくそ』呼ばわりすることなのか? ――と言い返せないのが、宮仕えの悲しさ。 俺は健気にも敬語で彼女に尋ね返した。 「アソス島……? 聞いたことのない名ですが、ギリシャ領なんですか」 俺がそう尋ねたのは、クレタ島が19世紀末現在、オスマン帝国の支配下にあるからだ。 クレタ島の大多数の住民とクレタ議会はギリシャへの併合を望んでいるらしいんだが、それをオスマン帝国が武力で抑えている――というのが、現在のクレタの状況。 そのクレタから10キロしか離れていないところにある島となると、いったいどの国の領土なのか、俺が判断に迷うのは当然のことだろう。 「クレタの出島のようなものだからオスマン領なのかもしれないけど、実際のところはどうなのかしらね」 「どうなのかしらね――って」 それを訊いているのは俺の方だ。 「石灰岩が ごろごろ転がっている荒れた土地で、ろくに農作物も育たない島なのよ。現在の人口は数十人。もともとは無人島で、ナポレオン戦争後に亡命を余儀なくされた人たちが住みついた島なの。もちろん、現在の島の住人は亡命者たちの子孫で、今では何の権力も持っていない人たち。軍事的にも全く重要な島ではないので、オスマン帝国もギリシャもアソス島には執着していないようね。税収も望めないし、統治者も不明。アソス島は、強いて言うなら私の島よ」 ナポレオン戦争後に亡命した奴等? 亡命者といえば聞こえがいいが、つまり そいつらはナポレオン戦争後の自分の責任を放棄して逃げ出した ろくでなしということだろう? 現在の権力者たちが、そいつら(の子孫)を放っておくということは、亡命者たちとやらが取るに足りない小者だったということ。 察するに、成り上がりのナポレオンに媚び へつらって成り上がった にわか貴族や小金持ちといったところか。 「私の島――アテナの島?」 「そうなる予定なのよ。すべては、あなたの働き次第だけど」 俺の働き次第とはどういうことだ。 アソス島の迷路のパズルを解いた者の所有に帰すというルールでもあるのか、その島は。 それで俺を その島に派遣して、迷路パズルを解かせようとしているのか、アテナは。 俺は そう疑った。 戦いを生業にしているアテナの聖闘士に そんな仕事を命じないでくれと、少々の苛立ちを覚えながら。 アテナが、そんな俺の考えを見透かしたように、 「言っておくけど、迷路と迷宮は違うものよ。迷宮は、迷路と違って 一本道で、その道は決して交差しない。人は 迷宮では迷わない。ただ脱出できないだけなのよ」 と、釘を刺してくる。 それは知らなかった。 「アソス島にはね、200年ほど前にギリシャのソロ家が建てた城があるの。城ができてから数年のうちに 事故や病気で立て続けに死者が出たとかで、今は不吉な城として打ち捨てられ、誰も住んでいないわ。荒れるに任せている見捨てられた城よ。住んでいるのは、せいぜい幽霊だけでしょうね」 誰も住んでいない、見捨てられた城? まさかアテナは、俺に幽霊退治をしてこいというんじゃないだろうな? 冗談じゃないぞ! ――と考えてから、俺は すぐにその考えを放棄した。 幽霊退治なら、まだまし。 偉大な女神アテナは、地上の平和と安寧を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士に、古い城の大掃除をしてこいと平気で命じかねないひとだ。 「なぜ俺が そんなところに行かなければならないんです」 女神への不審感いっぱいで、俺はアテナに重ねて尋ねた。 ほとんど間を置かずに、アテナから、 「私がポセイドンと賭けをしたからよ」 という答えが返ってくる。 その名を出されて、俺は顔を歪めたんだ。 ポセイドンは、海界を支配する神だ。 神話の時代に、アテナイの町の支配権を巡る争いでアテナに敗れてから、アテナを目の仇にしている、アテナとは因縁ある神。 アテナや聖域と敵対している――とまでは言わないが、決して 仲がいいとは言えない神。 ポセイドンや その配下の海闘士と聞けば、俺たちアテナの聖闘士は 即座に戦いの態勢を整える。 アテナに、そういう神と ナカヨク賭け事なんかされてしまったら、俺たち聖闘士はたまったもんじゃない。 まあ、アテナに、そんな下々の都合を考慮してくれと求めたところで、アテナは鼻で笑うだけだろうがな。 「その城にね。誰も知らない隠し部屋があるそうなの。ポセイドンは、その隠し部屋に ある宝を隠した。その宝が何なのかは 私も知らないのだけれど、ともかく その隠し部屋と隠し部屋にある宝を見付けることができたら、その城と城に隠されたものを 島ごと私に譲ると、ポセイドンは私に言ってきたのよ」 「そんな島をもらってどうするんです。古ぼけた城しかない島なんでしょう?」 隠された宝が何なのか知らないというのなら、アテナが欲しいのは ポセイドンが隠した宝ではなく、アソス島そのものだということになる。 しかし、そんな小島を一つ手に入れて、アテナに、聖域に、何の益があるんだ? 雑魚しかいないから、誰からも振り向かれることのない島。 だが、そこに触手を伸ばす者がいるとしたら、オスマン帝国だって心穏やかではいられないだろう。 オスマン帝国は聖域の存在を知らないだろうが、であればこそ なおさら、正体不明の何者かの動きを不審がるに違いない。 下っ端の俺が、そんなふうに政治向きのことを案じているというのに――聖域を統べる女神様のご返答は、 「アソス島を観光名所にして、一儲けしようかと思っているのよ」 という、実に ふざけたものだった。 何を考えているんだ、アテナは。 「突然、何を言い出したんですか。観光名所というのは、観光する価値のあるものがあり、それを目当てにやってくる大勢の観光客がいて初めて できあがるものでしょう。あるのが古ぼけた城だけで、名物も名産もない島に わざわざ出掛けて行こうと考える人間なんていませんよ」 「名物はあるわよ」 「何があるというんです」 「さっき言ったでしょう。その城に住んでいるのは幽霊だけだって。幽霊を観光の売りにするのよ」 「はあ?」 幽霊を売りにする? 本当に――アテナは何を言い出したんだ。 そもそも幽霊ってのは、観光資源になり得るものなのか? むしろ、普通の人間は恐がって避けるものだろう。 俺だって そんなものには一生出会いたくないと思う。 俺だけでなく、まともな神経を持った大多数の人間もそうに決まっている。 ――と、俺は頭の中で考えただけで、言葉にはしなかった。 言葉にはしていなかったんだ、まだ。 だというのに、アテナは、またしても俺の考えを見透かしたように、俺の考えに(言葉で)反論してきた。 「英国には、グラームス城やベリー・ポメロイ城、ロンドン塔やボーリー牧師館と、幽霊を売りにしている観光地が腐るほどあるわ。幽霊は立派な観光資源よ。英国と違って気候のいい地中海の島なら、もっと集客力があるでしょう」 おい、冗談じゃないぞ。 聖域の女神アテナが観光事業に乗り出すというのか? ギリシャの神々の中で最も傑出した神(ということになっている)知恵と戦いの女神が? いや、それ自体は一向に構わない。 知恵の女神が、その知恵を どんな分野で活用しようと、それはアテナの勝手だろう。 そのこと自体は構わないんだ。 その事業に、彼女が彼女の聖闘士を巻き込むようなことをしさえしなかったなら。 人には それぞれ職分というものがある。 船乗りには船を操るという職分、鍛冶屋には武器や農機具を鍛えるという職分、銀行屋には金勘定をするという職分、アテナの聖闘士には 地上の平和を守るために戦うという職分が。 その職分を守ってくれさえすれば、俺はアテナのすることに口出しするつもりはない。 だが、アテナが それを守ってくれるとは思えないからな。 現に今、アテナはこうして 俺に幽霊探しを命じているわけだし。 「私が本当に見付けてほしいのは、まず、城の中にある隠し部屋と、そこにあるはずの宝。見付けたら、それは速やかに聖域に運んでもらうわ。次に、アソス島観光の目玉になる幽霊。もちろん美女の幽霊が好ましいわ。美女の幽霊! 観光地として、これ以上の売りはないでしょう」 アテナは得々として そう言うが――醜女の幽霊の恨みを買っても知らないぞ、俺は。 「アテナのご命令とあらば、極地にでも赤道直下の密林にでも行きますが、なぜ俺なんです。探し物には、星矢の野生の勘や 紫龍の慎重さの方が有効でしょう」 うーん、俺も大概 勝手な男だな。 アテナの酔狂に巻き込まれるのが俺でさえなければいいという、この根性は卑劣の極みだ。 しかし、アテナが職分というものを考えてくれないのなら、彼女には せめて適材適所という言葉だけでも思い出してほしいじゃないか。 そういう ささやかな願いを込めて、俺はアテナに提案したんだが、アテナは俺の提案を一蹴してくれた。 「捜してほしいのは美女の幽霊だと言ったでしょ。あなた、顔の造作だけはいいから、美女が ふらふらと寄ってくるかもしれないじゃない」 どういう理屈だ、それは。 いくら美女でも、それが幽霊じゃ、ふらふら寄ってこられても、俺は少しも楽しくない。 造作のいい顔のせいで、幽霊に取り憑かれ、あげくの果てに衰弱死なんてことになったら、どうしてくれるんだ、アテナは! ――と怒鳴り返せないのが、アテナの聖闘士たる俺の立場。 ったく、アテナの聖闘士になんかなるんじゃなかった。 聖域は、世のため人のために戦う正義の味方が集う場所じゃなかったのか。 そう聞いていたから、俺は つらい修行に耐え、アテナの聖闘士になったんだ。 なのに、アテナが俺に命じることといったら、世のため人のためどころか、アテナの気まぐれに振りまわされる道化た仕事だけ。 これは完璧な詐欺だ詐欺。 しかし、それでも、女神の命令は絶対。 「そういうわけで、じゃ、よろしくね」 アテナに そう命じられると、下っ端の俺は 従容として その命令に従うしかないんだ。 知恵と戦いの女神アテナと海皇ポセイドンの賭け。 その勝敗を決める宝探し――と、幽霊探し。 嫌な予感しかしない その任務を果たすために、俺はアソス島に向かうしかなかった。 |