そう。 そこは寒かったんだ。 俺は、低温には強いが、低温を低温と知覚できないわけじゃない。 城内で いちばん荒れていない2階の部屋で、毛布代わりの外套にくるまり、俺は、野宿の方が火を起こせる分ましなんじゃないかという状況で眠りに就いていた。 俺が違和感を覚えたのは真夜中。 日没から8時間、夜明けまで あと5時間という時刻。 俺は ひどく暖かい空気に包まれて、ぼんやりと目を覚ました。 まるで夢の中で目覚めでもしたかのように、ぼんやりと。 違和感を覚えて瞬時に覚醒しないなんて、聖闘士にあるまじき不覚だが、それは つまり、俺が その暖かい空気を危険だと感じていなかったということなんだろう。 瞼を開けたら、そこに美女がいた。 いや、かなり若い――せいぜい 10代半ばくらいのようだったから、美少女というべきだろうか。 とにかく とんでもない美少女が、俺の顔を覗き込んでいたんだ。 ガラスの はまっていない窓の外に 月灯りはあったが、それは 小さく白い冬の月で照明としての役目を果たせるようなものじゃない。 周囲が ほの明るいのは、美少女が手にしているランタンのせいで、その灯りが 25メートル四方の正方形の部屋の中をぼんやりと照らしていた。 彼女の瞳が大きいのは、だが、そのぼやけた灯りのせいじゃない。 その瞳が輝いているのも、澄んで美しいのも、ランタンの視覚作用じゃない。 俺は、聖闘士としては標準レベルに夜目が利く。 そこに ランタンの灯りまでがあるんだ。 人や物の姿を見誤ることはない。 彼女が 美少女なのは確かなことだった。 飾り気がなく、化粧どころか髪も結っていない 身に着けている服に至っては、絹ではなく綿、ドレスでも何でもない、男児用のシャツとキュロット。 なのに文句なく美少女なんだから、相当の美少女だ。 清楚で、俺の理想の上をいく美少女――それは本当に美しい人間だった。 いや、人間じゃなく幽霊なのか、もしかして。 「あなたは誰」 美少女は、星のきらめきに似た声で俺に尋ねてきた。 ま、星のきらめきの音なんて、俺は聞いたこともないんだが、そう表したくなるような声だった。 細くて微かで澄んでいて。 「それはこっちのセリフだ」 彼女にとっては、俺が不審人物であり、侵入者なんだろう。 だが、俺にとっては、彼女こそが そういう存在だった。 彼女が何者なのかを知らない俺には、俺と彼女のどちらの認識が正しいのかはわからなかったが、そういう場面では強気に出て主導権を握った方の勝ちだろう。 美少女の幽霊(?)は強気に出ることができないタイプらしく、素直に俺の誰何に答えてきた。 「あ、ごめんなさい。僕、シュンといいます」 その声に敵意は感じられなかったから、俺も礼儀として 彼女に自分の名を名乗った。 「氷河だ」 夜の夜中。 初対面の見知らぬ者同士。 互いに優雅に名を名乗り合うなんて、そんなノンキな真似をしていていいんだろうかと思わないでもなかったんだが、相手は極めつきの美少女。 俺は、できれば彼女に意地悪はしたくなかった。 「ヒョウガ……」 美少女の幽霊が 俺の名を復唱する。 美少女の唇が、俺の名を作る様に、俺はぞくぞくした。 俺の名前から国籍や人種を 割り出せなかったんだろう。 美少女は、その綺麗な瞳に戸惑いの色を浮かべた。 しかし、それは当然のことだ。 俺はロシア人と日本人のハーフ、正確にはクォーターで、外見は金髪碧眼のコーカソイドなんだが、氷河というのは日本語名だからな。 美少女は、日本なんて、そんな国の存在すら知らないかもしれない。 俺は勝手に、彼女の『シュン』という名に『瞬』という漢字を当てはめた。 星の瞬き。 うん、我ながらセンスのいい命名だ。 幽霊に国籍があるのかどうかは知らないが、瞬も国籍不明の容姿をしていた。 確実に言えることは、その顔立ちが アジアでもアフリカでもヨーロッパでも美少女で通る顔立ちだということ。 アメリカあたりに渡ったら、おそらく 天使呼ばわりされるぞ、きっと。 清純、清楚、清潔――そういう形容が まず思い浮かぶ。 大人の狡さも 子供の狡さも感じられない、清らかな目、表情。 この世には、こんな人間もいるんだな。 本当に驚きだ。 ……と、“この世”? この子がいるのは、この世なのか、そういえば。 「おまえは幽霊なのか?」 最初に それを確認しておかないと、あとあと面倒なことになりそうだ。 そう思って、俺は訊いたんだが、俺の質問に対する瞬の答えは、 「あなたも?」 というものだった。 瞬は、そう問い返してきた。 俺が幽霊? どうして そんな考えが湧いて出てくるのか、俺には とんとわからなかったが。 が、そんなことはどうでもいい。 『あなたも?』と訊いてくるということは、この美少女は幽霊なのか、本当に。 「まあ、そんなところだ」 俺が そう答えたのは、嘘をついて彼女を騙すためじゃなく――要するに、単なる方便だ。 今日初めて出会った人(?)に避けられないようにするためには、まず 自分が相手の敵でないことを示す必要があるだろう。 仲間、同類、同じ立場に立つ者――そう信じていてもらった方が、気安く接してもらえるというものだからな。 「生きている人間じゃないんですね」 瞬が ほっとしたような息を洩らし、口許を 僅かに ほころばせる。 幽霊と言われて安堵するということは、じゃあ、本当の本当に幽霊なのか、この美少女は。 こんなに綺麗なのに? そう思ってしまってから、俺は、その感覚はおかしいと思った。 というか、『こんなに綺麗なのに幽霊』じゃなく『幽霊だから、こんなに綺麗』という理屈も成り立つことに気付いたんだ、俺は。 「生きている人間が こんなに綺麗なはずがないか……」 幽霊の存在なんて信じているわけじゃなかったが、そう考えれば、幽霊が とんでもない美少女だという、この現状は大いに納得できるものだ。 「生きている人間が こんなに綺麗なはずがありませんよね。よかった」 瞬も、俺と同じ理屈で 現状に納得したらしい。 正真正銘 生きている人間である俺は、瞬の その決めつけに複雑な気分にさせられたんだが、“綺麗な幽霊同士”として、瞬と同類項に くくられるのは、そう悪い気はしなかった。 してみると、俺の顔の造作がいいから、美女が寄ってくる――というアテナの予測は的中したことになるな。 しかし、この美少女が幽霊とは。 実にもったいない話だ。 「幽霊でよかったとは……幽霊は幽霊が恐くないのか」 一応 幽霊ということになっている俺が、幽霊である瞬に そんなことを尋ねるのは――おかしいか、やっぱり。 不思議そうな目を向けてくる瞬に、俺は慌てて、 「自分以外の幽霊に会うのは、俺は これが初めてなんだ」 と、苦しい言い訳をした。 瞬は本当に素直な性格らしく、俺の苦しい言い訳を素直に信じてくれた。 そして、ゆっくりと首を縦に振る。 「恐いのは、いつだって、生きている人間です。幽霊には欲がないでしょう。幽霊は権力や地位や富を欲しがったりはしない。でも生きている人間は、そういうものを欲しがって、欲しいものを手に入れるために色々なことをする。幽霊の方が恐くないですよ」 なるほど。 筋は通っているな。 “欲がないから、幽霊は恐くない” 生きている人間が抱く最大の欲は『生きていたい』と願う生存欲だろう。 幽霊には その欲がないわけだから、自分の命を守るために 他者に対して攻撃的になることもない。 ゆえに危険ではない。 極めて論理的だ。 幽霊に賢愚の別があるのなら、瞬は文句なく賢明で聡明な幽霊だ。 しかも、実に美しい。 飾り立てて作られた美しさじゃなく、素で美しい。 瞬が生きている人間だったなら、ソッコーでお付き合いを申し込むところなんだが、相手が幽霊では そうはいかない。 俺みたいに罪深い男は、瞬とのデートの待ち合わせ場所の 天国の門にすら近付けそうにないからな。 瞬とのお付き合いは 涙を呑んで諦めるしかないだろうが、しかし、俺としては せめてこの子の家はどこなのかくらいは聞いておきたい。 俺がアテナに命じられて この城に来たように、瞬も天国から地上に出張中――というわけじゃないだろう。 連絡先を確かめておかないと、二度と会えなくなる可能性がある。 俺は、それは嫌だ。 「おまえは、この城に取り憑いているのか? 俺は、おまえのテリトリーを侵害してしまったんだろうか」 「取り憑くだなんて……。僕はここで 平和に静かに暮らしているだけです」 では、やはり、この古い城が瞬の現住所なのか。 俺は つい、『村の近くに幽霊がいるだけで、この島の住人たちは平和でも平穏でもいられないと思うが』と言ってしまいそうになり、その直前で言おうとした言葉を喉の奥に押し戻した。 そんなことを言って、彼女を傷付けるわけにはいかない。 そんなことをして嫌われて、二度と姿を見せてもらえなくなったら、俺の人生が いろいろと行き詰まってしまう。 アテナに命じられた任務を遂行できず、せっかく巡り会えた美少女との再会も成らず――なんてことになったら、俺の人生は詰んだも同然だ。 ともかく、今はできる限り この美少女と親しくなっておかなければならない。 それは承知しているんだが、しかし、幽霊と何を話せばいいんだ。 俺としては、『君は 星のように清らかで、花のように愛らしい』とか何とか、持てる語彙のすべてを動員して 彼女を口説き落としたいところなんだが、それで幽霊と面倒なことになっても困る。 仕方がないから 俺は、瞬に俺の仕事の話をしてみることにした。 「この城には隠し部屋があると聞いているんだが、おまえは それがどこにあるか知っているか」 「あ、はい。知ってます」 そうだな。いくら幽霊でも そんなことまで知っているはずがない……って、なにっ !? 「……」 アテナが言っていた通り、俺は 人の話を聞くのが へたらしい。 というか、相手の答えや対応を 事前にこうなるだろうと決めつけて話を聞く癖があるらしい。 まったく よろしくない性癖だ。 ――と、俺の悪癖は さておき、今、瞬は何と言った? 隠し部屋のある場所を知っていると、瞬は今 そう言わなかったか? いや、もちろん、知らないよりは 知っていてくれた方が、俺は滅茶苦茶 助かるんだが、探すのに 相当手間取ることになりそうだと苦悩していたものが、こんなにあっさり見付かってしまっていいのか !? もちろん――もちろん、“頑張って探しても見付からない”よりは“あっさり見付かる”の方が望ましいし嬉しい事態だ。 万一 隠し部屋を見付けらないまま聖域に帰ったりしたら、俺はアテナに嫌味ったらしく 無能呼ばわりされるに決まっているんだからな。 その事態が避けたられるだけでも、死ぬほど嬉しい。 嬉しいことは嬉しいんだが、正直 俺は気が抜けた。 仕事は、やはり多少は苦労して 自力で やり遂げたいぞ、俺は。 まあ、だからといって、俺は、『隠し部屋は俺が自力で探し出す』なんて意地を張るつもりは 毫もないがな。 「どこだ、それは」 「この上の階ですけど……。今夜はもう遅いですし、明日 明るくなってから ご案内します」 何かの陰謀でもあるのかと勘繰ってしまいそうなほど、とんとん拍子に話が進む。 隠し部屋を探し出し、そこにある宝を手に入れる。 美女の幽霊を見付ける。 アテナに命じられた任務が、アソス島到着から たった半日で、すべて片付いてしまった。 いいのか、これで、本当に。 「幽霊なのに、おまえは昼間も出てこられるのか」 明るい陽光の下で、この可愛らしい顔をじっくり見詰めることができたら どんなにいいだろうとは思うが、その点は大丈夫なのか。 吸血鬼みたいに、陽光にさらされた途端 瞬が塵になって消えてしまったりなんかしたら、俺は悔やんでも悔やみきれないぞ。 俺の懸念は、だが、杞憂だったらしい。 瞬は、 「生きている人間に見付からなければいいんです」 と、それこそ 陽光のように明るく答えてきた。 「生きている人間は恐いからな」 俺が自虐的に そう言うと、 「ええ」 瞬が、罪のない目をして、俺に頷き返してくる。 「じゃあ、明日。お陽様が中天に昇った頃に、この部屋で」 そうして、めでたく デートの約束成立。 「わかった。太陽が中天に昇った頃だな」 夢でも見ている気分で、俺は瞬に念を押したんだが、瞬は、俺が その言葉を言い終える前に 俺の前から姿を消してしまっていた。 それは本当に一瞬のことで――この俺が、瞬が場所を移動した気配をすら感じ取れなかった。 してみると、瞬は本物の幽霊なのか。 聖闘士ならともかく、普通の人間に あの動きは――いや、この消え方は 到底無理だ。 普通の人間には無理――ということは、幽霊なら可能ということ。 瞬が幽霊だというのは、やはり本当のことらしい。 こんな真似をされてしまっては、さすがの俺も幽霊の存在とやらを信じないわけにはいかない。 それ以前に、瞬当人が自分を幽霊だと言っていたわけだしな。 そうか……幽霊か……。 疑うことができなくなった その事実に落胆する気持ちと、瞬に出会えた喜び、そして 明日また会える喜び。 相反する2つの感情に支配されながら――俺は 再び ゆっくりと眠りの中に落ちていった。 とにかく 明日また瞬に会えるというのは、大きな安心だ。 その安心と、瞬がその場に残していった暖かい空気が 俺の心身を安らげてくれた。 いくら寒さに強いといっても、寒いよりは暖かい方が、人間の眠りには都合がいい。 俺も一応 人間――生きている人間だしな。 瞬が残していった暖かさは、人の心を安らがせ、くつろがせる、春の季節の暖かさだった。 |