翌朝、家具らしい家具のない 石の壁と石の床で作られた正方形の部屋の隅で、俺は 一人で目を覚ました。 天気は晴天。 目算で縦横25メートルの正方形の部屋の半分まで、季節柄 低いところを移動する冬の太陽が その光を投じている。 目覚めて最初に思ったのは、夕べの美少女の幽霊との出会いは 夢だったのか 現実にあったことだったのかということ。 俺はドン・キホーテみたいに中世騎士物語にかぶれているつもりはないんだが、世にも稀なる美女が(瞬は美少女だが)、武力では 乗り越えられない試練に行く手を阻まれている戦士を助けてくれるなんて展開は、中世騎士物語の定番じゃないか。 トリスタンは金髪のイゾルデの献身的な看病で命を救われ、ガウェイン卿はラグネル姫の機知によって窮地を逃れ、アーサー王は常に湖の妖精たちに見守られていた。 そんな物語が頭のどこかにあって、そのせいで 俺は あんな夢を見てしまったんだろうか――? そう、俺は思った――そう疑わずにはいられなかったんだ。 なにしろ瞬は、夢のように綺麗な人間――もとい、幽霊だったから。 あれが夢だったなら、いい夢だったのは確かだが、たとえ夢の中ででも、あんな美少女を作り出せるような想像力が俺にあるだろうか。 本当に、初めて見るタイプの美しさ、清らかさ。 同じように美しいのに、瞬の美しさは、俺のマーマのそれとも アテナのそれとも、全く印象が違っていた。 あれは夢か、それとも実際にあったことだったのか。 それは、太陽が中天に移動してくれればわかる。 しかし、今はまだ 太陽は東の空の低いところにあって、瞬との待ち合わせの時刻までは かなりの間があった。 昨夜の出来事が 夢だったのか現実だったのかを、何もせず ぼうっと考えているのも不毛なので、俺は、約束の時までの時間を 城の外で過ごすことにしたんだ。 この島の住人たちが何かを知っているかもしれないからな。 この城のこと、瞬のこと。 瞬のことを知らなくても、幽霊の目撃情報くらいはあるかもしれない。 俺は、身体を起こして、正方形の部屋を出た――正方形の城を出た。 そして、島のただ一つの集落――そこは 村というには、あまりにささやかすぎた――に入っていったんだ。 行商の爺さんは、この島の者たちは金払いがいいと言っていた。 実際、彼等は金は いくらかは持っているんだろう。 だが それは、豪勢な館を建てる資材や大工や石工を島に運び込めるほどの額ではなく――つまり、その島の集落を構成している20軒ほどの家は どれも レンガと漆喰でできた ささやかな平屋ばかりだった。 しかも、どの家も ほぼ同じ造り。 察するに、最初の この島の亡命者たちの中に 大工の心得のある者が一人二人いたんだな。 で、そいつ(等)が、この島に似たような家を建てた――ということなんだろう。 ちょうど 女が一人 庭に出ている家があって、俺は その女に金貨を示して食料を分けてもらえないかと頼んでみた。 この島では食料は貴重だろうから、てっきり断られるものと思っていたんだが、その女は『少しだけなら』と言って、パンと干し肉、酢漬けの野菜をいくらか俺に分けてくれた。 俺が女に見せたものが銀行券でなく金貨だったのがよかったんだろう。 まあ、分けてもらえたのは、女の言葉通りに、本当に少しだけだったが。 クレタかギリシャ本土でなら、同じ金貨で その5倍の食料を買えていただろう。 結局 島民全員がよそからの移住者だから、この島の住人は 排他的になりようがない――というところか。 もともと成り上がりの にわか貴族の子孫。 本来の境遇に戻っただけと考えているのか、その女にも 女の亭主にも子供たちにも、あまり暗さは感じられなかった。 家屋が贅沢でない分、家の中には物品があふれかえっていて、生活に不自由しているようでもなかったしな。 「俺は、昨日の船で、クレタ経由でギリシャ本土から来たんだ。ここまでニュースが届いているかどうは知らんが――先年、トロイアの遺跡を発見発掘したシュリーマンが亡くなった。その報に接して、アテネ・フランス学院の偉い先生方が この島の存在を思い出し、この島にも何か遺跡の類があるんじゃないかと考えたんだ。トルコ領のクレタと違って、この島なら 発掘調査にすぐに取りかかれるし、考古学を看板にしているアテネ・フランス学院が この分野で他国の調査団に後れをとるわけにはいかない。で、俺が その事前調査をするために、この島に派遣されたというわけだ」 俺は、もちろん、あの城にあるはずの隠し部屋や そこにあるはずの宝のことは言わないでおいた。 へたに関心を持たれて、俺の仕事の邪魔をされるのは困るから、そのあたりのことは極力 ぼやかして、俺はその家の住人たちに訊いてみたんだ。 驚いたことに、昨年シュリーマンが旅行中にナポリで亡くなり アテナイに葬られたことは、この家の亭主も女房も子供たちまでが知っていた。 あの行商の爺さんは、既に紙屑同然の数ヶ月遅れの新聞まで、この島での売り物にしているらしい。 その上で、彼等は、俺の(嘘八百の)アソス島来訪の目的を笑い飛ばしてくれた。 「それは無駄なことをしたもんだな。遺跡ってのは、何千年も昔に建てられた城や神殿のことを言うんだろう? 古ければ古いほど、価値があるんだ。この島にあるのは せいぜい200年前に建てられた城が一つ。あれは遺跡とは言えんだろうなあ」 「あれは、もともとはギリシャ本土の貴族が建てた城らしいんだけどね。でも、あの城に住んでた人たちが次々に死んじまったんだよ。それで、呪われた城だとか言われるようになって 捨てられちまったんだって。あたしの亡くなった祖父さんが、若い頃 一度 様子を見にいったことがあったんだけど、見事に何もなかったって言ってたよ。戸棚一つ、皿一枚なかったってさ」 夫婦の話を聞く限りでは、彼等は、俺が昨日一日で得た情報以外の情報は持っていないようだった。 「そうか……この島に遺跡はないのか……」 俺は、夫婦の前で 大袈裟に落胆してみせたんだ。 夫婦が、そんな俺に同情したような目を向けてくる。 よそ者が この島をぶらついていることを島民に怪しまれないためについた嘘を真に受けててる夫婦を見て、俺は少々 気が咎めた。 俺は やはり、天国の門をくぐるどころか、その側に近寄ることもできない人間だ。 「まあ、何事も ものは考えようか。遺跡がなければ、俺は次の船で家に帰れるわけだからな。次の船が出るまで、この辺りをぶらついて過ごすことにするさ。流行りのキャンピングと洒落こんで」 一つの嘘を更に別の嘘で糊塗し、夫婦に礼を言って、俺はその家を辞した。 俺は また一つ罪を重ねたわけだが、俺に課せられた任務を果たすためとあれば、それも やむなし。 俺が犯した罪は、アテナが許してくれるはずだった。 |