そうして迎えた約束の時刻。 瞬は、明るい陽光の中で見ると、一段と綺麗だった。 幽霊だけあって 肌が白く、我欲を持たないせいか、瞳が奇跡のように澄んでいる。 最初の出会いの場所が深夜の見捨てられた城の中ではなく、真昼間のアテナイの町のど真ん中だったとしても、俺は瞬を尋常の人間だとは思わなかっただろう。 こんなに綺麗な人間が、普通に生きている人間のはずがないからな。 「おまえは、いつからこの城にいるんだ?」 俺が瞬に そう尋ねたのは、この城に住んでいた者たちが次々に死んでいったのが 瞬のせいではないことを確認しておくため。 そして、そういう真面目な(?)話をしていないと、幽霊とわかっていても瞬を口説きたくなってくる自分に自制を促すためだった。 へたをすると、瞬は200年も昔の人間(の幽霊)ということもありえる――そう考えていた俺に与えられた瞬の答えは、驚くほど新しい(?)ものだった。 「僕は、2年前、ある人に連れてこられたんです。島を出さえしなければ好きなように暮らしていていいと言われたんですけど、この島は無人島ではなかったので、そうそう好きなようにしているわけにもいかなくて、ずっと この城の中に隠れていました」 「生きている人間が恐いから?」 俺が重ねて問うと、瞬は曖昧な微笑を浮かべて、俺の質問に はっきり答えることを婉曲的に拒んでみせた。 瞬が城の中に隠れていたのは、多分、そうではない――生きている人間が恐かったからではない――んだろう。 既に死んだ身の瞬が、生きている人間を本気で恐れる理由はない。 瞬は おそらく、生きている人間のことを悪く言いたくないんだ。 あるいは、自分が 生きている人間を恐れていることを よくないことだと思っているか、でなければ、自分が生きていた頃のことを思い出したくないか。 いずれにしても、瞬は、生きて欲を持っている人間が恐いことはわかっているが、その事実を積極的に認めることはしたくないと考えているようだった。 人の欲の恐さは わかっているが、人間が そういう存在であることを 許したいと願っているようにも見えた。 人間という存在への希望や信頼を捨てたくないと望んでいるような、瞬の瞳。 俺は、瞬のそんな瞳を、アテナのそれに似ていると思ったんだ。 瞬が答えたくないと思っているのなら、無理に答えさせることもない。 俺は質問を変えた。 「この島に連れてこられたというのは……それ以前は――生きている時は、この島の住人ではなかったのか?」 「ええ」 その質問には、瞬は明確な答えを返してきた。 「僕は、この島に連れてこられる前は、大陸の――ドイツの田舎にいました。ご存じでしょうか。バルト海沿岸にあるハインシュタイン大公国という国です。でも、ハインシュタイン大公国内にいると、僕はハインシュタインの国と大公家を滅ぼすと言われて――」 国と大公家を滅ぼす? では、瞬は、そのハインシュタイン大公国と ハインシュタイン大公家とやらを滅ぼさないために、故国を離れ、この島に渡ったというのか? ドイツの大公国と、地中海に浮かぶ小島。 いったい、その2つは どう つながるんだ? 「そんなことを、誰に言われたんだ。おまえが国を滅ぼすなんてことを」 「若い男の人。綺麗な人でした。笛を持ってて、僕に、神様の予言を伝えに来た使者だと言いました」 「綺麗な男? 綺麗な男、ね」 瞬が口にした その言葉を 二度までも反復した俺の声は、かなり不機嫌なものだった。 自分でもわかった。 この瞬が『綺麗』と認めるほどの男ってのは、いったい どれほどの美形なんだ? そう考えると向かっ腹が立った。 神の使いと称したということは、ポセイドンの手の者ということなんだろうか? 俺は、一応自覚はしているが、極めて正直な男だ。 嘘をつくことはできるが、自分の感情を隠すのは 死ぬほど へたくそ――という意味で。 俺の機嫌が悪くなったことに、瞬はすぐに気付いたようだった。 なにしろ俺は正直な男だから、それに気付かない方がどうかしているが。 とはいえ、まさか 俺が突然 不機嫌になった理由までは、瞬にはわからなかっただろうが。 いや、わかったのか、もしかして。 「あ、その人より、氷河の方がずっと綺麗ですけど。生きている人間より――氷河の方がずっと綺麗です」 瞬に そう言われて、俺は少しばかり 焦った。 そこまで わかりやすい男なのか、俺は。 焦っていることを瞬に隠すために、俺は 慌てて、 「ふん……男が顔なんか気にしても、何にもならん」 とか何とか言い繕ってみたんだが、それは成功したのかどうか。 だが、その言葉自体は 嘘でも何でもないぞ。 なにしろ 俺は、見てくれの美しさなんかより 強さの方に価値がある世界に生きている男なんだから。 とはいえ、瞬に綺麗だと言われるのは、そう悪い気はしなかった。 もちろん『強い』と言われる方が嬉しいが、『綺麗』も褒め言葉の一つではある。 『醜い』と言われるよりは ずっといい。 「僕、ハインシュタイン大公国にいた頃は、ずっと人目を避けて過ごしていたの。信じてはもらえないかもししれないですけど、僕はハインシュタイン大公国の公子なんです。僕の母は大公妃ではなくて、だから 僕は庶子なんですけど。僕は、幼いうちに母を亡くして――母が亡くなると、大公妃様が僕を城に引き取って育ててくださった。大公妃様には、僕より年上の姫と 僕より年下の公子がいたんですが、僕が13歳になった年の秋、その公子が病気で亡くなってしまった。それで、僕に大公位継承権が移ってきて――ハインシュタイン大公国の大公位継承順位は、まず嫡出の男子、次に庶出の男子、男子がない場合には女子というように定められていて、継承順位は 僕の方が大公妃様の姫より上。だから、大公妃様には、僕は邪魔者で、生きていてはいけないものになった……」 そう言って、瞬は悲しそうに瞼を伏せた。 大公妃の生んだ男子が存命の頃には、為さぬ仲の母子とはいえ、瞬は大公妃に可愛がられていたんだろうか。 少なくとも邪魔者扱いされてはいなかったのか? だから、なおさら悲しいのか。 瞬は明言はしなかった。 明言はしなかったが――瞬は、直接にではないにしろ、大公妃の手の者にかかって殺されたんだろう。 何の罪もないのに、ハインシュタイン家の大公位を奪われないために、義理とはいえ母親に命を絶たれた――。 そういう事情があったのなら、それは幽霊になるのも当然のことだと、俺は得心した。 得心して、だが、そんなことは どうでもいいことだと気付いた。 いや、全然 どうでもよくはないが、俺は、自分が今、そんなことより はるかに重要な事実を知らされたことに遅ればせながら気付いたんだ。 「こ……公子だとーっ !? 」 公子というのは、大公や公爵の血を引く男子のことだぞ、普通は! 公子――英語ならプリンス、ドイツ語ならプリンツ、ギリシャ語ならヴァシロプロ、ラテン語ならフィーリウス・レーギス。 女子なら、プリンセス、プリンツェッスィン、バシリス、フィーリア・レーギスのはずだ。 公子ーっ !? 俺の巣頓狂な叫び声を聞いて、瞬が しょんぼりと肩を落とす。 「信じてもらえなくても仕方ないですけど……」 当たりまえだ! 信じられるか、こんな美少女がオトコだなんて! 「でも、僕、嘘は言ってません。僕は本当にハインシュタイン大公家の――」 「あ?」 その沈んだ声で、瞬の誤解に気付き、俺は慌てた。 そうじゃない。 俺が信じられずにいるのは、そういうことじゃないんだ。 「いや、おまえがハインシュタイン大公の血を受けた者だということは疑っていない」 幽霊が嘘をついても何にもならないし、瞬がハインシュタイン大公の血を引く子供だというのは事実なんだろう。 そうじゃなく、俺が信じられないのは、おまえが男だということなんだーっ! ――と、本当のことを言うわけにはいかない。 「俺は疑ってはいない。おまえが嘘をつくはずがないからな。そんなことをしても、おまえには何の得もないんだし――」 死んで幽霊になってしまった者に、大公位継承権も何もあったもんじゃない。 それはわかっているし、信じている。 それは疑っていないんだ。 本当のことを言えないってのは、つらいことだ。 だが、とにかく、嘘をつくことのできる正直者の俺は、瞬に、 「俺は、もちろん、おまえの言葉を信じている。当然だろう」 と、もう一度 繰り返した。 瞬が、俺の断言に安堵したように微笑んでみせて――いや、そうじゃない。 瞬は、俺に自分の言葉を信じてもらえなくても構わないと思ったんだ。 自分がハインシュタイン大公の地位に就くことは 決してないんだから、俺に自分の出自を信じてもらえなくても何の問題もないんだと。 そうして瞬は、切なげな微笑を浮かべたまま、俺に尋ねてきた。 「氷河もどこかの国の王子様だったの? 氷河も 権力争いに巻き込まれて、その……幽霊になっちゃったの?」 ナポレオン戦争後、ウィーン体制が落ち着くまで、欧州は混乱していた。 その混乱の中で、幾つもの国が消え、新しく作られた国も多かった。 幾つもの王家や貴族の家が滅び、新しい支配者に選ばれた家もある。 だから、瞬の推察は決して的外れなものではなかったんだが、俺が王子というのは、突飛にすぎる発想だな。 「いや、俺は北の国の、ごく普通の――いわゆる庶民だが」 「ほんとですか? こんなに――王子様みたいに綺麗なのに」 王子様だ? もし そんなものに生まれついていて、王位なんて厄介なものを押しつけられることになったら、俺は そうなる前に さっさと故国から逃げ出すぞ。 そう 瞬に言ったら、瞬は、 「自由と権力のどちらかを選べと言われたら、僕も自由を選びます。でも、そうじゃない人も多いみたい」 と、答えてきた。 答えながら、城の4階の東の部屋の角の壁の一部を両手で西の部屋の方に押す。 もし その壁が、壁に偽装された扉だったなら、その先にあるのは隣りの部屋――目算で一辺25メートルの正方形の西の部屋のはずだった。 そのはずだったのに――そこに現れたのは、一辺が約4メートルほどの小さな正方形の部屋。 俺は一瞬、瞬が押した壁の扉は異次元に通じる扉だったのかと、半ば本気で思った。 |